創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(40)

園内は奥へ行くほど遊具から何からくたびれて、この施設が長くメンテナンスをされないまま荒廃の一途をたどってきたことがうかがえた。「そろそろ引き返すか」 口では言いながらも、わたしたちは慣性の法則にでも導かれるように奥のほうへ歩いていった。そこ...
小説のために

小説のために(第十一話)

1 前から気になっている谷川俊太郎の詩に「ぱん」という作品がある。1988年に刊行された『いちねんせい』という詩集に入っている。このとき作者は56~57歳。50代半ばで「いちねんせい」。いいなあ。清々しい気持ちで読んでみよう。 ふんわり ふ...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(39)

レストランは営業を終えていたので、まだ開いているカフェのほうに入った。こちらもラスト・オーダーの時間が迫っている。水を持って注文を訊きにきた学生アルバイト風の男の店員に、わたしはホット・コーヒ―をたのんだ。二人はカフェ・ラテである。「ホット...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(38)

園内は奥に進むにつれてますます閑散とし、空中をのろのろ進むコースターなどはほとんど全身が麻痺しかけている。帰路を駐車場のほうへ向かう何組かの親子連れとすれ違った。みんな忌まわしい場所から早々に引き上げようとしているみたいだった。「もはや凋落...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(37)

学生たちに小説を書かせると、前世や生まれ変わり、輪廻転生などをテーマにして書いてくる者が多い。そういうところに彼らの興味は向かっているらしい。きっと現世への行き詰まり感があるのだろう。この世界には未知の可能性はどこにもなく、ただ退屈で息苦し...
小説のために

小説のために(第八話)

5 円空仏も木喰仏も、多くの人の手に触られ、つるつるになったり、すり減ったりしているものが多いという。距離を置いて眺めるのではなく、手で触って感触を楽しむ仏像。親しみがあって身近。村人が具合の悪いときに借り出し、枕元に置いてお祈りをしたとか...
小説のために

小説のために(第七話)

4 谷川俊太郎の詩はおかしい。なんかヘンだ。どうしてこんなものができちゃったんだろう、と思わせる詩がある。作ったというよりはできちゃった。うっかりこの世に誕生してしまった。まるで詩人と言葉が一夜の過ちを犯したかのような、その副産物としての詩...
小説のために

小説のために(第六話)

3 谷川俊太郎の詩を読んで感じるのは、ひとことで言うと「嘘くさくない」ということだ。賢しらさを感じさせないというか、殊更に作りましたという痕跡が希薄である。たしかに作ってはいるのだけれど作為を感じさせない。言葉が自然に生まれているような感じ...
小説のために

小説のために(第五話)

1  しばらく前から谷川俊太郎の詩集を、気が向いたときにぱらぱらとめくっている。このエッセーでは「眼差し」について書いてきたが、この詩人の作品にも「視線」や「眼差し」について触れたものが多い。集中的に読んでいるわけではないので、ごく散漫な印...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(36)

土曜日だというのに、遊園地に人影はまばらだった。ジェットコースターにも機関車トーマスにも、数組の親子連れが乗っているだけだ。閉園時間が近づいているせいかもしれない。「いまどき、こういうのって流行んないのかな」舗道を歩きながら藤井茜が言った。...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(35)

13  八月中は死んだ父のことに取り紛れて忙しかった。九月になって後期課程がはじまり、最初の授業が終わったあとで、二人はいつものように研究室にやって来た。「どうだ、小説のほうは書けそうか」開口一番、わたしは高椋魁に向かって言った。「いや、ま...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(34)

二人がまだ子どものころに、両家の親たちがきめたことらしい。許嫁の家で世話になっている彼にたいして、男は屈託もなく親しげだった。何度か男の漁具の手入れを手伝った。長い時間、二人は黙って作業をつづけた。話すことがあるはずだった。この男にも、おれ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(33)

海辺を旋回する鳶にも、さらに低いところを飛びまわるカモメにも、波打ち際に横たわるその動物が死んでいるのか生きているのかわからなかった。横たわっている本人にもわからなかったくらいだ。  最初に感じたのは痛みだった。身体中が焼けるように痛かった...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(32)

少年は毎日、日が暮れると海辺に転がっている流木を集めて火を焚いた。荒波に洗われた木は、樹皮が削り取られて白い幹がむき出しになっている。それは海に棲む巨大な生物の白骨を想わせた。漁船の燃料に使う油を、家の者に内緒で瓶に詰めて持ってきた。細い枝...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(31)

翌日、午後一時からはじまった葬儀は、時計で計ったように一時間で終わり、午後二時には出棺となった。父がどんな葬儀を望んだのかわからない。たずねてみたこともないけれど、おそらく葬儀専門の会館などは避けたかったはずだ。わたしもセレモニー・ホールな...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(30)

11  立秋を過ぎた八月の朝、父は亡くなった。昼前に遺体を自宅に連れて帰り、とりあえず父の弟妹と主だった仕事関係の人たちに連絡した。神奈川に住んでいる叔母は、次女か三女かが出産を控えていて参列できないということだった。自分の従妹にあたる女性...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(29)

高椋魁は革細工職人が財布か定期券入れの仕上げでもするような手つきでパンにバターを塗っている。塗り終わったパンの端を一口齧ると、それとなく藤井茜のほうを見た。彼女は蚕が桑の葉を齧るようにレタスを齧っている。「どこか遠いところへ行きたいな」ひと...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(28)

10  翌朝、六時ごろに携帯電話の着信音で起こされる。病院からだった。父の容体が悪いという。顔を洗い、手早く支度を整えた。入院しているリハビリテーション・センターの最上階が緩和ケア病棟になっている。そこでいま自分の父親が死につつある。看護師...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(27)

あのころ自分がどんなふうにして暮らしていたのか、まったくおぼえていない。きっと自己憐憫の靄のなかで、深い悲しみとともに生きていたのだろう。家のなかに閉じこもり、一日の大半は寝ていたのかもしれない。ろくに食べず、着替えもせずに、廃人に近い状態...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(26)

突然、何もかもが変わり、とんでもなくひどいものになってしまった。忘我にも似た幸福に包まれていた者たちが、ほんのひと月後には二度と会うことのできない、遠く隔てられた場所へ押し流されていた。最終的に彼女の死亡を確認したのは、震災の発生から何ヵ月...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(25)

ほんのひと月ほど前のことだ。このあたりに建っていたアパートの一室で、わたしたちは一つの布団に入っていた。まわりの世界は消え去ったように感じられた。時間からも切り離されたところにいた。騒々しい世界の外、過去も未来もない場所に二人きりでいた。 ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(24)

9  ある日、地下のはるか深いところで異変が起こる。物理的にはごく小さな出来事、断層がほんの一メートルか二メートルずれるといった程度のことだ。この微小な動きが北東と西南へ向かって連動し、筋状に街を破壊していった。百五十万の都市で約三十万人が...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(23)

二人はまるで事前にブリーフィングでもしてきたみたいに、ぴったり歩調を合わせてシメジとポルチーノのトマト・パスタを食べ終えた。いまは点心系の中華総菜を細々とつついている。ウーロン茶でも淹れてやるべきなのだろうか、あいにくそんな健全なものは置い...
創作

蒼い狼と薄紅色の鹿(22)

レシピには弱火でじっくり三十分くらい炒めると書いてある。なんと、三分ではなくて三十分である! 誰がそんな悠長なことをやっていられるものか。残された人生の時間は限られている。開けたワインはすぐにグラスに注いで飲むべきである。だいたいオープナー...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(21)

マンションはオール電化になっている。原子力発電は実用化のめどが立たない粗悪な技術と考えているわたしとしては気に入らないところだが、建物全体の仕様がそうなっているのだからしょうがない。IHヒーターにコーヒー・ポットをかけたところで藤井茜がたず...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(20)

午後三時に香椎駅で二人をピックアップした。車でアイランドシティへ向かい、途中のフード・マーケットで酒と食材を買っていくことにした。ここは酒も食材もたいしたものは置いていないのに、なぜかチーズだけは充実している。わたしは日本酒にもワインにも合...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(19)

8  マンションは西戸崎にある。海の中道線というJRの終着駅から少し行ったところで、目の前は博多湾だ。三階の部屋から眼下に見える砂浜には、いつも大小の波が打ち寄せており、朝や夕暮れ時には犬を散歩させたりジョギングしたりする人たちの姿が見られ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(18)

最後に会ったのは十二月だった。クリスマスを過ぎて、大学は冬休みに入っていた。彼女のアパートは男子禁制で、六つある部屋には同じ女子大へ通う学生ばかりが住んでいた。わたしが訪れたときには彼女を含めて二、三人が残っているだけだったが、それでも用心...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(17)

7  1990年代には、まだ多くの人が頻繁に手紙を書いていた。スマートフォンはおろか携帯電話もわたしのまわりでは目にしなかった。インターネットもほとんど普及していなかった。新しいテクノロジーの到来には間に合わなかった。わたしたちは携帯電話も...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(16)

日がすっかり落ちてから、二人は高椋魁のアパートを出た。最寄りの駅から藤井茜はJRで家に帰る。途中で公園に立ち寄った。小さな池のまわりに桜が植えられ、数分もあれば一周できるほどの遊歩道が整備されている。池の向こうに茶碗を伏せたような築山が見え...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(15)

話は六年前、彼が十三歳のときにさかのぼる。本人の言によれば自殺未遂だが、トラックの運転手からの通報を受けて現場に駆け付けた救急隊員も、また現場検証をした警察官たちも、少年が自転車の操縦を誤ったことによる事故とみなした。とくに両親は「事故」に...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(14)

6  オート・ハープという楽器をご存知だろうか。ハープという名前がついているけれど形状は洗濯板に近い。長方形の木箱に弦が張ってある。弦の数は三十六から七というから、このあたりはハープに近いだろうか。二十一のコード・バーが付いていて、バーを押...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(13)

あれから四半世紀のときが流れた。そのころは二十五年後の自分など考えてみることもなかった。けれども歳月は流れ、わたしは律儀に歳をとった。一方の彼女は十九歳のまま、薄紅色の鹿のままで、ブラウスはいまも雨に濡れて透き通っている。この写真のなかで生...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(12)

プルーストの長大な小説では、冒頭の眠りをめぐる長い記述に多くの人がうんざりさせられる。なかでも「就寝の悲劇」と呼ばれる母親とのエピソードは、読むのにかなりの忍耐を要する。マルセルという名の幼い主人公は、母親が「おやすみのキス」のために二階の...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(11)

5  父の仕事は、いわゆる顧問弁護士というものだった。企業法務に精通した十人ほどの若手弁護士を率いて事務所を立ち上げ、どこか後ろ暗いところのある会社のための訴訟対応や紛争解決によって、けっこうな報酬を得ていたようだ。仕事一筋で、妻のことも家...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(10)

鳥取から中国山地を抜けて岡山まで出て新幹線で神戸に戻る、というのが彼女の予定している帰路だった。少しでも長く一緒にいたかったので、わたしも岡山まで同じルートで行くことにした。山間を走るローカル線に揺られているうちに天気が崩れ、日が沈むころに...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(9)

喫茶店で軽い昼食を済まし、コーヒーを飲みながら、わたしはほとんど無節操に自分のことを話しはじめていた。数日前に母親を亡くしたこと。長く患っていた病気のこと。ほんの一、二時間前に会ったばかりだというのに。彼女は告解を聞く司祭のように、見ず知ら...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(8)

大学二年生の秋に母が死んだ。入院先の病院から一時帰宅しているあいだの出来事だった。あまりに唐突だったので、何も感じなかった。感じることができなかった。ただ奇妙な既視感があった。予期せぬこととはいえ、その死は意外なものではなかった。  日ごろ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(7)

4  色の褪せかけたプリントに、十九歳の彼女が写っている。三月末、大学の春休みにはじめて神戸を訪れたときに撮ったものだ。父から借りたオリンパスの一眼レフだったと思う。いくらか露出が不足しているのは雨のせいだろう。とはいえ出来の悪い写真ではな...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(6)

藤井茜がハンバーガーを睨んでいるあいだに、高椋魁はスマートフォンを取り出して素早く操作した。「いまネットで調べてみたけど、この店のビーフパティにはちゃんとニュージーランド産とオーストラリア産の牛肉が使ってある。ちなみにポークはアメリカ産」 ...