蒼い狼と薄紅色の鹿(8)

創作
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 大学二年生の秋に母が死んだ。入院先の病院から一時帰宅しているあいだの出来事だった。あまりに唐突だったので、何も感じなかった。感じることができなかった。ただ奇妙な既視感があった。予期せぬこととはいえ、その死は意外なものではなかった。

 日ごろから感情の起伏が激しかった母は、痼疾となった観のある抑制状態にとらわれそうになると、自分から進んで、かかりつけの個人病院に入院するようにしていた。長い付き合いなので、医者のほうでも対処の仕方はわかっていたようだ。刺激のない静かな環境のなかで、普段服用しているよりも強い薬が処方された。出された薬を母は嫌がらずに飲んだ。そうして何週間かやり過ごせば、もとの状態に戻ることを体験的に知っていたからだろう。長いトンネルに入るようなものだったのかもしれない。途中でうずくまってしまわないかぎり、かならず抜けることができる。そのための助力を、母は入院というかたちで得ていた。

 こうした病気に自殺念慮はつきものとはいえ、母にかんしては父もわたしもほとんど心配していなかった。周期的に抑制状態を繰り返しながらも病相は安定し、季節性のインフルエンザのようになっていたせいもあるだろう。通常のうつ病と同じように、母の場合も、最初の症状は不眠、食欲の減退、疲れやすさ、集中力の低下などとしてあらわれた。傍から見ていると、油の切れた歯車がきしんでまわらなくなるみたいだった。これが進行すると、ひたすら死にたいと思うようになるらしい。

 しかし母は自分の病気にかんしてベテランであり、ほとんど手練れと言っていいくらいだった。自分で初期の身体症状などをチェックしていて、抑うつの気分が強まる前に手を打った。退院に慎重だったのは、改善のきざしが見られるころに自殺企図が起こりやすくなることを、本人も自覚していたからだろう。わたしたちのほうも、一定の頻度で繰り返される病気には慣れていたし、今回にかぎって特別なところは何も見られなかった。

 気持ちの整理がつかないまま、葬儀が終わると早々に旅に出ることにした。人に会いたくなかった。めったに顔を合わせなることのない親類の者たちと、あらたまって話をするのも億劫だった。どこへ行くあてもないまま、漠然と海が見たいと思った。鹿児島本線で博多から門司まで行き、時間のかかる山陰本線に乗り換えて鳥取をめざした。閑散とした自由席を独り占めにして夜を明かし、寝不足と節々の痛みを抱えて、翌日の昼前には目的地に着いた。

 十一月になっていたにもかかわらず、日中は歩くと汗ばむほどの陽気だった。とりあえず砂丘へ行ってみることにした。月並みだが他に思いつかない。砂地を覆う草花や灌木のあいだを歩いていくと、前方に小高い砂の丘陵が見えてきた。向こう側は日本海らしい。砂に足を取られながら丘を登りはじめた。砂山は思ったよりも高く険しく、めざす場所へはなかなかたどり着けなった。途中からはシナイ砂漠を横断するロレンス少尉のような気分になった。

 ようやく登りきると、目の前に深い蒼を湛えた海が現れた。砂山の頂に立ったまま海を眺めつづけた。後ろには砂の丘陵が広がっている。風紋で覆われた砂丘は、いたるところ人の足跡で汚されていた。せめて自分のものだけでも消したかったが、そんなことをすればかえって多くの足跡を残すことになるだろう。そもそも人が足を踏み入れる場所ではないのかもしれない。

 しばらく砂の上でぼんやりしていた。いつのまにか近くに若い女がいて、同じように砂に腰を下ろして海を見ている。歳はわたしと同じくらいだろうか。外見からは学生のようだった。話しかけるつもりはなかった。向こうもそうだったと思う。

 さまざまな思いが脳裏に去来した。やはり死んだ母のことを考えずにいるのは難しかったが、あいかわらず何も感じなかった。悲しみや辛さを感じる以前に、感情そのものがなくなっていた。まるで自分の感情をすべて使い果たしてしまったかのようだった。母のことでは、子どものころからわたしなりに心配したり、気を遣ったりしてきた。長年の濫用で、井戸水のように汲み尽くされたのかもしれない。人間の感情に限りがあるのだとしたら、なくなったらなくなったままで残りの人生をやっていくしかない。喜怒哀楽とは無縁の人生。それもいいかもしれないと思った。

 わたし自身が軽い抑うつ状態にとらわれていたのかもしれない。人にも物にも関心が湧かず、ただ虚しさだけがあった。母の病気と付き合っているあいだに聞き知った「アンヘドニア」という医学用語を思い出した。感情の低下、意欲の減退などをいうらしい。母もよく本格的に調子が悪くなる前に、「何もやる気がしない」とか「何をやっても楽しくない」などと訴えていた。日常の何気ない行動に抑制がかかってしまうようだった。家事が投げやりになり、服装もだらしなくなった。一日家から出ずに、ただぼんやりと暗い顔をして坐っていた。食事はろくにとらず、父ともわたしともほとんど口をきかなかった。

 そんなことに思いをめぐらしながら、長い時間、わたしは砂の丘陵にいた。若い女も、やはりその場を動かなかった。観光客はひっきりなしにやって来るものの、ひととおり海を眺めたり写真を撮ったりすると、すぐに引き返していった。わたしたちのように長くとどまる者はいない。急に彼女のことが気になりだした。

 わたしの抑うつ状態は、母親にくらべると取るに足らないものだったらしい。失感情症も人や物への無関心も消え去り、いまやわたしは好奇心の塊になっていた。どこから来たのだろう? どうして長くここにとどまっているのだろう? 何か事情でもあるのだろうか? これほど近くにいる相手に話しかけずにいるほうが、かえって不自然な気がしてきた。

「こんにちは」

 声をかけると、彼女は振り向いて笑みを返した。親密な、と言ってもいいだろう。フィッツジェラルドの小説のなかでジェイ・ギャツビーが洩らす微笑みも、こんな感じだったかもしれない。挨拶だけで終わりにしたくはなかったが、初対面の相手に何を話せばいいかわからない。暗くなるまで二人でここにいませんか。そうすれば人間の足跡が消えた砂丘と、月の光に輝く海を見ることができるはずです。朝になったら、砂の表面には真新しい風紋が生まれているでしょう。

 もちろん、そんな気障で複雑なことが言えるわけがない。

「お茶でも飲みに行きませんか」
 意外なことに、彼女は快く頷いて腰を上げた。
「ちょうどおなかが空いてきたころだったの」ジーンズに付いた砂を払いながら言った。

 こんなふうにしてわたしたちは出会った。小春日和の砂丘の上で、まるでプレヴェールの詩のように。「恋する二人は誰にも見えない。夜より遠く、昼より高く。二人はいまや、めくるめく初恋の光のなか……。」世界を独り占めしたような気分だった。偶然とは思えない。彼女のことをずっと前から知っている気がした。きっと約束されていたに違いない。記憶の部屋の奥に秘密の小部屋があって、そこで二人は出会うようになっていたのだろう。