蒼い狼と薄紅色の鹿(36)

創作
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 土曜日だというのに、遊園地に人影はまばらだった。ジェットコースターにも機関車トーマスにも、数組の親子連れが乗っているだけだ。閉園時間が近づいているせいかもしれない。
「いまどき、こういうのって流行んないのかな」舗道を歩きながら藤井茜が言った。「ふわふわぞうさんとかブンブンコースターとか」
 レジャープールをはじめとして、いくつかの施設はすでに営業を終えている。夏休みの家族連れを見込んだものだからしょうがないのかもしれないが、いかにも閉園を控えた施設というわびしさが漂っている。

 とりあえず無難なところで観覧車に乗ることにした。二人ともこのレトロな乗り物ははじめてらしく、向かいの座席に並んで坐ると、ゴンドラのなかを物珍しそうに見まわしはじめた。藤井茜は薄い水色のデニムのスカートに、上は白の長袖のブラウスだった。高椋魁のほうはカーキ色のスウェット・パンツに、黄色のパーカーというラフな出で立ちだ。こうして見ると、どこにでもいそうなごく普通のカップルである。
「ほとんど貸し切りだね」箱が上昇しはじめると藤井茜が言った。
 たしかに十六台ほど付いているゴンドラには、わたしたちの他に客は乗ってないようだった。夏の名残をとどめた太陽は、海辺に立ち並ぶ高層マンションのまだかなり上のほうにあった。建物の向こうに少しだけ海が見える。度重なる埋め立てによって、いまでは運河か池のようになってしまった海だ。
「マンションばかりだな」わたしは落胆を声にあらわして言った。「いつのまにこんなことになってしまったんだろう」
「海も少しは見えますよ」藤井茜が慰めるように言った。

 時間が経てば人も街も様変わりしてしまう。昔の面影はどこにもない。こんなに大きく風景が変わってしまうと、かつてそこにいた自分たちまでも、現実のものとは思えなくなってくる。
「観覧車の住人ってことにしたらどうかなあ」藤井茜が言った。「心が折れまくった主人公は、こういう箱のなかで暮らしているの。上ったり下りたりしながら、惑星みたいに公転しつづける」
 高椋魁の小説のことらしい。
「トイレとかは?」
「そういうリアリズムは持ち込まないほうがいいと思う」

 ゴンドラには小さなスピーカーが付いていて、聞き覚えのあるバンドの曲がひどい音で流れていた。たしかメンバーの一人は地元出身だったはずだ。いかにも彼らの曲のフレーズにありそうだ……毎日、心がダース単位で折れていく。死の影から逃れるようにしてギターをかき鳴らしていた高校生のころを思い出した。

 二人は思いつくままに小説のアイデアを出し合っている。といっても喋っているのはほとんど藤井茜で、高椋魁のほうはときどき気のない相槌を打っているだけだ。食事はどうするとか、風呂はどうするとか、たわいないことで盛り上がっている。わたしは目を閉じて、彼らのやり取りを聞くともなしに聞いていた。現実の音や話し声が遠ざかり、その背後から、もう一つの声が聞こえてくる。自分の心がいつも遠いところにある。絶対に訪ねていけないところ、夢のなかでしか訪れることができないところ……。いったい誰がいつの時制で喋っているのだろう。それを聞いている者は、いまどこにいるのだろう。

「トビだ」藤井茜の声がした。

 目を開けると、ゴンドラは頂上部分に近づいている。高層マンションの向こうに少しだけ広がる海の上を、一羽の鳥が大きく輪を描くようにして飛んでいるのが見えた。遠くの空は赤とオレンジ色に染まりつつある。マンションの上には薄い雲がかかっていた。室内がいくらか暗くなったように感じられた。音の悪いスピーカーからは流れつづけている音楽は、かえって箱のなかのわびしさを際立たせた。

 二人は口を噤んで、じっと窓の外を見ていた。まるでトビのことで頭のなかをいっぱいにしたいと思っているかのように、空を舞う鳥の姿を追いつづけた。