現代文学として『源氏物語』を読む……第4回 物の怪(2)

源氏物語講義
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 今日は物の怪の二回目、六条の御息所の物の怪が源氏の正妻である葵の上を取り殺すシーンを見てみましょう。「葵」という章で、数字でいうと第9章ということになります。葵の上は妊娠しています。結婚して10年目の懐妊ですから、ようやくといったところですね。どうやら二人は折り合いの悪い夫婦だったようです。しかし待望の第一子ですから、もちろん源氏は喜んでいます。

 ときを同じくして、新しい斎院(賀茂神社に奉仕する未婚の皇女または女王)がきまり、賀茂の河原で禊が執り行われることになります。この神事の行列には源氏も加わるので、妊娠中の葵の上は女房たちにせがまれて見物に出かけます。六条の御息所もまた恋人の晴れ姿を一目見たいという思いを抑えきれず、人目を避けて網代車で出かけます。このとき一条大路の雑踏のなかで葵の上が乗った左大臣家の車と、六条の御息所の車のあいだに車争いの不祥事が起こります。

 そんなことがあってから、御息所はもの思いに心乱れる日々を送っています。なにしろ名家の生まれで、東宮(皇太子)の后にまでなった人ですからね。プライドを傷つけられたわけです。一方、左大臣家では懐妊中の葵の上が物の怪に苦しめられている。その場面を見てみましょう。

 大殿には、御物の怪いたう起こりていみじうわづらひたまふ。この御生霊、故父大臣の御霊など言ふものありと聞きたまふにつけて、思しつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに人をあしかれなどと思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむと思し知らるることもあり。

 「大殿」というのは葵の上の実家、左大臣家のことです。「生霊」は「いきすだま」と訓みます。「この」は「自分の」という意味ですね。それから「故父大臣」とは御息所の亡くなった父大臣のことです。つまり葵の上に取り憑いている生霊が、自分や自分の亡父と関連付けられていることを御息所は気に病んでいるわけです。この箇所は瀬戸内寂聴訳では以下のようになっています。

 左大臣家では、葵の上に物の怪がさかんに現れて、その度、御病人はたいそうお苦しみになります。六条の御息所は、それを御自身の生霊とか、亡き父大臣の死霊などと、噂している者があるとお聞きになるにつけて、あれこれと考えつづけてごらんになります。いつでも自分ひとりの不幸を嘆くばかりで、それよりほかに他人の身の上を悪くなれなど、呪う心はさらさらなかった。けれども人はあまり悩みつづけると自分で知らない間に、魂が体から抜け出してさ迷い離れていくといわれているから、もしかしたら自分にもそういうこともあて、あの方にとり憑いていたのかもしれないと、思い当たる節もあるのでした。

 訳文のなかで「いつでも自分ひとりの……」以下のところは、六条の御息所の心のなかをそのまま描写する書き方になっていますね。あたかも語り手が、登場人物の心のなかを覗き込んでいるかのようです。こうした手法は、ヨーロッパの文学では近代に至るまで見られなかったものです。「三人称客観描写」と呼ばれる叙述のスタイルは、フローベールが『感情教育』(1869年刊行)で確立したとされます。近代小説の特徴の一つで、19世紀になってさかんに試みられるようになる手法ですが、それを1000年も前の女性がやっていたというのは不思議な気がしますね。

 「葵」の巻では、葵の上と六条の御息所という名門に生まれた二人の誇り高い女たちの情念が、源氏という一人の男をめぐってぶつかり合います。『源氏物語』のなかでも、とりわけドラマチックな場面を含んでいるのですが、その緊迫感は源氏が物の怪の正体を知ることで一気に高まります。

 まださるべきほどにもあらず、と皆人もたゆみたまへるに、にはかに御気色ありて悩みたまへば、いとどしき御祈祷数を尽くしてさせせたまへれど、例の執念き御物の怪ひとつさらに動かず。やむごとなき験者ども、めづらかなりともてなやむ。さすがにいみじう調ぜられて、心苦しげに泣きわびて、「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆるべきことあり」とのたまふ。

 源氏の正妻である葵の上が、物の怪に取り憑かれて苦しんでいる。いろいろ修法や祈祷をやってみると、物の怪や生霊のようなものがたくさん出てきた。ところが一つだけ、しつこく取り憑いて離れない物の怪がいます。験者(げんざ)たちも「どうも普通のことじゃない」などと言っています。それでもしつこくやっているうちに、さすがに苦しがって、「どうぞ調伏を緩めてくれ。大将(源氏)に申し上げることがある」と訴えます。

 源氏はあくまで自分の妻(葵の上)だと思って看病しています。その回復が思わしくない。ひょっとすると死別もありうる。そんな相手の胸中を推し量って、「いかなりとも必ず逢ふ瀬あれなば、対面はありなむ」(夫婦の縁は二世にわたるというから、きっとまたお目にかかれるでしょう)などと慰めています。ところが目の前の葵の上は、ここではっきり六条の御息所の生霊として発言しはじめるのです。

「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」となつかしげに言ひて、「なげきわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしかがひのつま」とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず変りためへり。いとあやしと思しめぐらすに、ただかの御息所なりけり。

 「いや、そうではないのです。わたし自身が苦しくてたまらないので、しばらく加持をやめていただきたいのです。こんふうに参上するつもりはなかったのに、もの思いをする者の魂は、身を離れてさまよい出るもののようです」と懐かしそうに言って、「嘆きに嘆いてわが身を離れて宙を迷っている魂を、どうかつなぎとめておいてください」という歌を口にする。嘆願しているのは葵の上ですが、その声も顔も六条の御息所にそっくりになっていきます。

 ここは相当に不気味な場面です。ホラー系の小説を書こうと思っている人は参考になるのではないでしょうか。

 物の怪に苦しめられながらも、葵の上はなんとか無事に男児(夕霧)を出産します。その様子を聞くにつけても、六条の御息所は平静な気持ちでいられない。自分が執着する男(源氏)が、別の女の子どもを産んだことが妬ましくて素直に受け入れられないのですね。

 かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。かねてはいとあやふく聞こえしを、たひらかにもはた、とふち思しけり、あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたる、あやしさに、御泔参り、御衣着かへなどしたまひて試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらにうとましう思さるるに、まして人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変りもまさりゆく。

 「我にもあらぬ御心地を思しつづくるに」というのは、魂が抜けだしていくような心地がして、しばらくぼんやりしていた、ということでしょう。ふと気がつくと、御息所の着物に祈祷の護摩に焚く芥子の匂いが染み込んでいる。「泔(ゆする)」というのは髪の毛を洗う水のことです。不審に思って髪を洗い、着物も替えるけれど匂いは消えない。わがことながら、いかにも気味が悪い。こんなことはとても人には話せない。胸に秘めて思い嘆いているうちにも錯乱は深まるばかりだった。

 御息所が精神に変調をきたしそうになるのも無理はありませんね。芥子の匂いは、彼女の生霊が葵の上にとり憑いて調伏の修法を受けたことを証明するものですから。しかも匂いは身体に染み付いているらしい。この身が葵の上のもとへ行ったことは明白である。わが身のあさましさをつくづく持て余している、という感じでしょうか。

 この場面は本当に見事で、ポーなどの怪奇小説を読んでいるみたいです。近代のゴシック・ロマンにも通じるもので、平安時代の女性が書いたとはにわかに信じられません。語り手はまず葵の上が産気づいて苦しんでいるところ、祈祷で物の怪を調伏する場面について物語ります。とりあえず男の子を無事に出産したところで場面が変わり、今度は六条の御息所の着物に芥子の匂いが染み込んでいたというエピソードが物語られる。場面の転換、構成が秀逸です。

 もう一つ感心するのは、物の怪の場面は詳細に書き込んでいるのに、葵の上が亡くなるシーンはごくあっさり済ませている点です。邸内がひっそりしているあいだに、女君は急に苦しみはじめる。以前のように胸を詰まらせて苦悶している。「内裏に御消息聞こえたまふほどもなく絶え入りたまひぬ」(宮中にいる人たちに知らせる間もなく亡くなった)と、ただこれだけなのです。葵の上の死をあっさり書くことで、かえって物の怪の不気味さが余韻となって残るわけですね。(2021.10.20)