古代の人々の心情は、さまざまなかたちでわれわれのなかに痕跡をとどめている。彼らが生きた時間は、現代を生きる者たちのなかにも伏流している。それが歳をとることによって、しだいに大きくなり、強くなって表面に現れてくる。科学的知識といったうわべのものが剥がれて、下から古代の、太古の感覚が顔を覗かせる。
縦に流れる時間、垂直に流れる時間を想定できるように思う。時間は水平に流れるばかりでなく、垂直にも流れている。水平に流れる時間とは、過去から未来へ向かって一方向に流れている時間である。不可逆であり、過去も未来も現在からは切り離されている。これにたいして垂直に流れる時間では、一瞬のなかにすべてがある。「いま」と「ここ」に人類史が内包されている。
少し厭な話をする。海外のミステリー小説などで、グロテスクで猟奇的な犯罪が描かれているものがある。主人公の警部が追っている連続殺人犯は、何人もの若い女性を拉致し、監禁して激しい暴行を加え、殺したあとは遺体をバラバラにしてあちこちに埋める。そこにはなんの感情もない。快楽を感じているのかどうかさえわからない。そんな人間が実際にいるだろうか?
おそらくいるだろう。なんの恨みもない相手を、ただ偶然に出会ったというだけで、物をつかむようにためらいもなく殺してしまう。彼は罪も罰もない世界を生きている。人間的な感情は最初から介在していないので、厳罰などでは制御できない。どんな倫理も規範も歯が立たない。そういう化け物みたいな者が、平凡な日常に紛れて暮らしている。
小説だから誇張はあるだろう。しかし執拗なまでに残忍で暴力的な行為の背後には、「異常心理」といった言葉では片付かない、かなり根源的な世界が広がっているように思われる。現代社会では猟奇的な殺人犯として処罰の対象になる者は、なんらかの理由でヒトが人でなく、まだ動物であった時代に先祖返りしてしまったのではないだろうか。彼は特殊でも特別でもなく、人間のなかに深く眠っている獣性を生きているに過ぎない。本能に突き動かされた行動に、善悪が伴わないのは当然だろう。
動物一般がそうであるように、かつてヒトは当たり前に動物たちを殺し、食べていた。そこに良心の呵責やうしろめたさはなかっただろう。血や内臓や死体にたいする嫌悪もない。ライオンがシマウマやレイヨウを捉えて生きたまま貪り喰うように自然そのものだ。「うまい」と思って食べていたのかどうかさえわからない。たんに飢えを満たすために食べる。そんな時代を果てしなく長く、われわれの祖先は生きてきたに違いない。
ヒトとヒトのあいだでも、食べたり食べられたりすることはあっただろう。食人文化の存在は世界各地で確認されている。飢餓など特別な理由がなくても、食料としてヒトを食べる。だから家族を拡大して親族や部族をつくったのかもしれない。少なくとも同じ仲間からは食べられる心配がないように。だが食料事情によっては、仲間や身内であっても、死んだ者の肉を食べていたかもしれない。生き物たちのなかには、共喰いの例が数多く見られる。カマキリなどのように、交尾を終えた雄が雌に喰われる場合もあれば、ある種のクモのように孵化した幼虫が母親の身体に群がって食べてしまうこともある。ヒトの場合も、なんらかの事情で家族や仲間を食べていた可能性はある。
その者が、何かのきっかけで、自分の行為を自覚したとしよう。自分と自分がしていることのあいだが、薄い膜一つで隔てられる。このわずかな隙間に明りが射し込み、うっすらとした視界が開ける。新生児の目が見えはじめるようにして、遠近不明のぼんやりとした観念が生まれる。そうして自分がしている行為に焦点が合った瞬間、身の毛のよだつような恐怖と戦慄が流れ込んでくる。なんとその者は、仲間や親兄弟の死骸を貪り喰っているではないか。
現代のわれわれなら、錯乱や発狂に近い状態に陥るだろう。太古のヒトのなかにも、同じことが起こったと考えられる。凄まじい恐怖を打ち消し、身の凍る戦慄から逃れるために、ありとあらゆる残虐や倒錯に走っただろう。異族や奴隷の首を斬る、心臓を抉り出し天に捧げる、皮を剥いで身にまとう、自身の身体を切り刻む……すさまじい恐怖や打ち消し、身を苛む戦慄と渡り合うためには、同じだけの恐怖や戦慄を必要としたはずだ。彼らは自らの手でそれらをつくり出していっただろう。
古代の信仰の多くが、超自然的なシンボルや超越的存在を必要としたのは、人智を超えた強大な力によらなければ、自分たちのなかに潜在している激烈な衝動、そこから噴き出してくる狂乱と錯乱の野放図な奔流を、抑圧しきれないと考えられたからだろう。人々はその前に跪き、頭を垂れて供物を捧げることで、恐怖を鎮める術を見出した。やがて原始キリスト教や原始仏教が生まれ、人々は現世の聖人君子たちのもとで、絶えず自分たちのなかに眠っている獣性を意識し、飼いならすようになった。そうして各々の風土や気風に応じた「文明」を築き上げてきた。
だが世界中のあちこちで見られる犠牲や刑罰には、しばしば人間のなかに眠っている獣性が顔を出していないだろうか。動物でも人でも、犠牲にささげられるものたちは二つ割きにされ、肉を削がれ、骨を露わにされる。百刻みのような残酷刑にも、人間のなかに眠っているサディスティックな嗜好があらわれている気がする。こうした振る舞いは、人間のなかの動物性から生まれてくるわけではない。動物性それ自体は自然であってなんの問題もない。
人間のなかに眠っている獣性とは、太古の時代にヒトが自然から分かたれたときに刻まれた傷なのだ。ヒトが自然から引き離されたときに生じた深い亀裂と言ってもいい。この亀裂や空隙を、人間以外の動物たちは知らない。彼らは自然そのもの、それ自体であるからだ。自然から分かたれた人間だけにもたらされた恐怖と戦慄の体験。それはわれわれが想像する以上にすさまじいものだったに違いない。ジョゼフ・コンラッドの小説のなかで、象牙を得るためにコンゴ河を遡り、原住民たちの上に絶大な権力者として君臨する男が、死の間際に口にした言葉は「恐怖」だった。「地獄だ! 地獄だ!」。これこそヒトが自然と分かたれた場所まで遡ってしまった現代人が、ほとんど無意識のうちに発したうめきではなかっただろうか。
血なまぐさい獣性は、高度な消費社会で暮らす者たちのなかにも眠っている。地球上の誰のなかにも善悪の彼岸がある。民主的な国家や共同体の外には、いまでも身の凍る恐怖と戦慄の世界が広がっている。何かのきっかけで文明の薄い皮膜が破れれば、そこは容易に血と内臓の饗宴の場になる。紛争の現場でなされる残虐非道は、その顕著な例ではないだろうか。娯楽として提供されるミステリー小説のなかで起こる猟奇的な事件もまた。(2025.4.26)
きのうのさけびを読む