こうして自己の果てるところが「死」になる。死とはA=Aという自己の同一性が破綻してしまうことである。ゆえに自分の死は自分では解けない。かならず解けない部分を残してしまう。どこまで行っても、生まれることと死ぬことは不明でありつづける。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」(空海『秘蔵宝鑰』)。終命の冥さ、不明は恐怖や不安や虚しさや心残りなどを呼び寄せる。こうした濁りや残余が、最終的に宗教や国家といった共同性に預けられる。
しかし、どうやったところで、自己と死のあいだにはわずかな隙間が残りつづける。この隙間が、死を五段階にチャート化したE・キューブラー・ロスには、感情が欠落した「受容」の段階と見えたのではないだろうか。ここでロス女史もやはり、「自己」をA=Aとする短絡を免れていない。そのため瀕死の人間を見る彼女のまなざしは、冷たく無慈悲なものに感じられる。わたしたちは死にたいして、もっと別なまなざしを注ぐことはできないだろうか?(2024.11.19)