きのうのさけび

 クラシック音楽を好きな人と、まったく興味のない人がいる。どれを聴いても同じに聞こえるとか、長くて退屈といった声をよく耳にする。ぼくもいまでこそクラシックを聴くけれど、大人になるまではほとんど興味がなかった。十代、二十代のころはもっぱらロックかジャズ、バッハやモーツァルトなどのクラシック音楽を「いいなあ」と思って聴きはじめたのは、30代半ばごろからである。つまり四半世紀の時間がかかっているのだ。

 剣豪小説で一家を成し、オーディオマニアとしても有名な五味康佑さんが、あるエッセーのなかで「名曲というものは作曲家がつくるものではなくて聴衆がつくる」と述べている。たしかにそうです。いくらベートーヴェンの『第九交響曲』が名曲といっても、「いいな」と思って聴く人がいなければ名曲になりようがない。それでも『第九』はシラーの詩も含めてまだわかりやすいほうで、クラシック音楽の最高峰と目されているバッハの『マタイ受難曲』などは、一度や二度聴いてわかるものではないだろう。ベートーヴェンも後期のピアノソナタや弦楽四重奏曲になると、かなりハードルは高いはずだ。それなりにクラシック音楽を聴き込み、長く彼の諸作品に親しみながら自身も年齢を重ね、あるとき「ああ、こんなに崇高な音楽だったのか」と気づくのではないだろうか。

 宮沢賢治はベートーヴェンの最後の三つの弦楽四重奏曲を、『第九』以上に偉大な作品と言っている。それは賢治の発見であり、さらに言えば「創造」である。彼がベートーヴェンの作品を偉大な作品として再創造したのである。ためしに作品131(第14番)を聴いてみよう。ほとんどシェーンベルクである。新ウィーン派の十二音階や無調音楽と一緒に聴いても違和感がない。そんなものがすぐにわかるわけはないし、まして生涯で至高の一曲と言い切る場合、大袈裟に言えば、その人の人生が賭けられている。

 何かを好きになることは、とてもクリエイティブな行為である。そうして好きになったものは、自分が創り出した「作品」だから、一生、その人を支えてくれる。ゆっくり時間をかけて、いろいろなものを好きになっていこう。(2019.4.20)