きのうのさけび

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 更衣の死後、帝が藤壺を入内させるのは、彼女がまるで生き写しのように亡くなった更衣によく似ていると聞いたからだ。光源氏が藤壺を慕うようになるきっかけも、まわりから「亡くなった母上にそっくりですよ」と言われたからである。いずれもたんに類似ということではなくて、輪廻による生まれ変わりという観念を含んでいるように思われる。つまり生まれ変わりの理念にかなっていることが、寵愛や思慕の根拠になっている。

 これは近代文学ではちょっと考えられないことだ。たとえば夏目漱石の『それから』では、父親からの援助で何不自由なく暮らしていた代助が、破局を予想しながら、友人の奥さんである美千代との関係につき進んで行く。その心の揺れ動きが、読者にわかるように書かれている。あるいはドストエフスキーの『罪と罰』にしても、貧しい娼婦であるソーニャが、親しい友だちを殺した犯人であるラスコーリニコフを責め立てることもなく、自首を勧めたうえ、シベリアに送られる彼に付き従うのだが、彼女の内的な動機が、暗示的にではあれ、読者に伝わるようになっている。

 ところが『源氏物語』では、個人の心情とか内的な動機みたいなものが、ほとんど描かれていない。描かれていても、それは「前の世の定め」や「宿世」といった、より強い力によって押し切られてしまう。登場人物を衝き動かしている力は、その人個人のなかではなく、時間を超えた約束や定めのほうにある。このあたりが物語を跳梁する物の怪などとともに、『源氏物語』という作品がとどめている古代性と言えるかもしれない。

 この古代的と感じられるところが、作品の大きな魅力にもなっている。登場人物は個人的な動機や心情というよりは、「前の世」や「宿世」といった、過去と現在と未来を貫く目に見えない力に導かれて生きている。光源氏の藤壺女御にたいする恋慕も、紫の上にたいする執着も、前の世からの定めによって、あらかじめきめられている。

 だから本人の意思ではどうにもならないところが出てくる。その行動はしばしば強引だし、見方によっては幼児的とも言えるだろう。桐壺帝がまわりの状況も考えずに更衣を寵愛したこと、光源氏が藤壺との闇の恋に入り込んで不義の子をなしたこと、さらに若紫を略奪同然に引き取って理想の女性に育てようとしたこと。いずれも個人の力ではどうすることもできない不可避の振る舞いだった。そういう強い理念によって物語が制御されている印象を受ける。

 しかし考えてみると、ぼくたちだってそういうことはある気がする。先の代助にしても、どうして親に勘当されてまで友だちの奥さんを奪うのか。本人にもうまく説明できないところがあるはずだ。本気で人を好きになることは、かならずそうしたニュアンスを含みもつのかもしれない。どうしてこの人を好きになってしまったのか。自分でも理路整然と説明できない。そんなときぼくたちは、偶然を超えた必然みたいなところに引き寄せられるのではないだろうか。前の世の定めとは言わないまでも、「運命」くらいの言葉は使いかねない。「こうして出会ったのは運命なんだよ」とか。あまりいろんなところで使うと問題だけれど。(2025.5.7)