きのうのさけび

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 わたしたちはなぜ、さまざまな共同幻想を生み出してしまうのだろう。人間の営みが不可避的に共同性を疎外してしまうのはなぜなのか? 「自己」のとらえ方が間違っているのだと思う。自己が自己であることを、短絡的にA=Aと考えてしまうと、わたしたちは否応なしに『ハーモニー』の世界に誘導されてしまう。たしかに肉体や身体という物質的な部分にかぎって言えば、人は「自己」という同一性をはみ出さない。胃袋は一つきりであり、自分の空腹は他人の空腹と交換できない。この圧倒的にリアルな現実のまえで、自己をA=Aという同一性とみなしてしまうことは、ごく自然に起こる。

 こうして自己の果てるところが「死」になる。死とはA=Aという自己の同一性が破綻してしまうことである。ゆえに自分の死は自分では解けない。かならず解けない部分を残してしまう。どこまで行っても、生まれることと死ぬことは不明でありつづける。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」(空海『秘蔵宝鑰』)。終命の冥さ、不明は恐怖や不安や虚しさや心残りなどを呼び寄せる。こうした濁りや残余が、最終的に宗教や国家といった共同性に預けられる。

 しかし、どうやったところで、自己と死のあいだにはわずかな隙間が残りつづける。この隙間が、死を五段階にチャート化したE・キューブラー・ロスには、感情が欠落した「受容」の段階と見えたのではないだろうか。ここでロス女史もやはり、「自己」をA=Aとする短絡を免れていない。そのため瀕死の人間を見る彼女のまなざしは、冷たく無慈悲なものに感じられる。わたしたちは死にたいして、もっと別なまなざしを注ぐことはできないだろうか?(2024.11.19)