きのうのさけび

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 動物一般がそうであるように、かつてはヒトも当たり前に動物たちを殺し、食べていた。そこに良心の呵責やうしろめたさはなかっただろう。血や内臓や死体にたいする嫌悪もない。ライオンがシマウマやレイヨウを捉えて生きたまま貪り喰うように自然そのものだ。「うまい」と思って食べていたのかどうかさえわからない。たんに飢えを満たすために食べる。そんな時代を果てしなく長く、われわれの祖先は生きてきたに違いない。

 ヒトとヒトのあいだでも、食べたり食べられたりすることはあっただろう。食人文化の存在は世界各地で確認されている。食料としてヒトを食べる。だから家族を拡大して、部族や氏族をつくったのかもしれない。家族のような小さなグループだと、別の集団に襲われて食べられるおそれがあった。百人の集団なら、十人のグループを打ち負かして食べることができる。

 飢餓など食料事情によっては、仲間や身内であっても、死んだ者の肉を食べていたかもしれない。生き物たちのなかには、共喰いの例が数多く見られる。カマキリなどのように、交尾を終えた雄が雌に喰われる場合もあれば、ある種のクモのように孵化した幼虫が母親の身体に群がって食べてしまうこともある。ヒトの場合も、なんらかの事情で家族や仲間を食べていた可能性はある。

 その者が、何かのきっかけで、自分の行為を自覚したとしよう。自分と自分がしていることのあいだが、薄い膜一つで隔てられる。このわずかな隙間に明りが射し込み、うっすらとした視界が開ける。新生児の目が見えはじめるようにして、遠近不明のぼんやりとした観念が生まれる。そうして自分がしている行為に焦点が合った瞬間、身の毛のよだつような恐怖と戦慄が流れ込んでくる。なんとその者は、自分の仲間や親兄弟を貪り喰っているではないか。

 現代のわたしたちなら、錯乱や発狂に近い状態に陥るだろう。太古のヒトのなかにも、同じことが起こったと考えられる。凄まじい恐怖を打ち消し、身の凍る戦慄から逃れるために、ありとあらゆる残虐や倒錯に走っただろう。異族や奴隷の首を斬る、心臓を抉り出し天に捧げる、皮を剥いで身にまとう、自身の身体を切り刻む……すさまじい恐怖や打ち消し、身を苛む戦慄と渡り合うためには、同じだけの恐怖や戦慄を必要とした。彼らは自らの手でそれらをつくり出していった。(2025.8.10)