Senior Moter Drive ~ ただいまカリフォルニアを走行中

Senior Moter Drive
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Scene9 ヨセミテ国立公園

 モーテルは朝食付きだが、不味いのでスルーして近くのスタバでコーヒーとベーグル、というのが旅の日課になりつつある私たちだが、今日はできるだけ早く出たいので、モーテルの食堂に用意してあるもので済ませる。シリアルに牛乳をかけてサクサク。リンゴを一つポケットに入れて出発だ。おっと、スタバでテイクアウトのコーヒーも忘れずに。どっちにしてもご厄介になるんじゃないか。

 「最初にモノ湖に寄っていこう」

 何度か訪れているボブは、この湖がとても気に入っている。今回もいい写真を撮るつもりだ。さっそく地図で確認する。ビショップのモーテルを出て、私たちの車は395号線を北上する。昨日、間違ってモーテルを予約したマンモスを過ぎてさらに行くと、東側にMONO LAKEが広がっている。

 車は快調に走りつづける。道の両側は短い草の生えた乾燥した大地だ。中学校の社会科で習ったステップ気候というのは、こういうところのことを言うのではないだろうか。山頂付近に雪の残るシエラネバダ山脈が遠くに見える。今日も真っ青な空に、白い雲が気持ちよさそうに浮かんでいる。空も大地も果てしなく大きくて、光が溢れている。風景は穏やかに静まり返ったまま、どこまでも広がっている。

 昨夜見た夢のことを思い出す。短いわりに、夢の余韻が妙に生々しく残っている。夢だけど、夢じゃなかった、みたいな? 目が覚めたあとも、私は夢のなかの現実に文句を言いたい気分だった。なんてモーテルだ。いきなり金髪の女性が訪ねてきたかと思うと、彼女を追って男が乱入してくる。そしていきなりパンチとは、道義をわきまえないモスキートよりもひどい。

 その一方で、なお未練がましく考えている。ひょっとして戻ってくるのではないか。男を振りきって。女の名前はルーシー。
「一緒に逃げて」
 いいとも。地の果てまでも逃げよう。
「ねえボブ、人間の顔は魚の鰓が発達したものらしいですね」
「なんの話?」
「なかでも唇と舌は、もっとも敏感に発達したところなんです」
「悪い夢でもみたんじゃないのか」
 そう、夢を見たんだ。悪い夢でも、いい夢でもない、スリルングな夢を。私はポーチから手帳を取り出し、シャープペンシルで素早く言葉を書き付ける。

 キスをしよう、古代の鰓のいちばん敏感な部位で。
 あなたとぼく。人は素敵な生き物。

 モノ湖。たしかに美しいところだが、暑い。鏡面のように広がる湖、その背後になだらかな丘陵が連なっている。ボブはさっそく写真を撮りに湖畔のほうへ下りていった。私は上で待っている。砂地に生えた植物や、地面に自分の影を写真に撮る。ピース!
「なんだか前に来たときと印象が違うな」などと言いながら、やがてボブが戻ってくる。「塩の柱みたいなのがいっぱいあったんだけど、それが見当たらないんだ。もっと幻想的な感じだったんだけど」
「天気のせいですかね」
「湖の水が減っちゃった気がするな」
 やや期待はずれのモノ湖をあとにして、車を西に向ける。今日の宿はベイエリアに近いGILROYという街にとってある。あまりぐずぐずしてはいられない。

 車はヨセミテ国立公園の入口に差し掛かっている。面積は3081平方キロメートル、と言われてもどのくらいの広さなのか見当がつかない。ちょっと地図帳を開いて調べてみよう。私が住んでいる福岡県の面積は4976平方キロメートル。勝った! でも東京都の2187平方キロメートル、神奈川県の2416平方キロメートルよりは広い。鳥取県が3507平方キロメートルで佐賀県が2440平方キロメートルだから、その中間くらい。まあ、日本の小さめの県ってところだ。ここには年間350万人以上が訪れるが、ほとんどが集まるのは公園全体の1パーセントにも満たないヨセミテ渓谷(約18平方キロメートル)である。そのヨセミテ渓谷の、さらに一部分を私たちの車は通過していく。
 入口のところに料金所があり、車一台につき30ドルの入場料を徴収される。
「けっこう高いね」とボブ。
 それでも多くの車が列をなしている。まだ6月下旬、しかも平日なのにこの混雑ぶりだ。数珠つなぎの車の列を、私たちものろのろと進む。途中で車を降りて、少しだけ自然のなかへ入ってみる。このあたりの標高は2000メートルを超えているので、日差しはあってもそれほど暑さを感じない。

 針葉樹の森のあいだを川が流れている。背後に雪をいただいた山々が見える。ヘミングウェイの初期の短編に出てくるような風景。

 ニックは荷物をおろして木陰に寝ころんだ。仰向けに寝て松の木立ちを見あげた。からだをのばすと、首や背中や腰の筋肉がゆるんだ。背中にあたる大地の感じが気持ちよかった。彼は枝をすかして空を見あげていたが、やがて目を閉じた。それからまた目をあけて上を見た。高い枝のあいだを風が吹き渡っていった。彼は、ふたたび目を閉じて眠った。
                          (「心が二つある大きな川」大久保康雄訳)

 そそり立つ花崗岩の絶壁、何百メートルもの高低差を一気に流れ落ちる多くの滝、谷や木々の間を流れる澄んだ大小の川、ジャイアントセコイアの巨木の林。すべてが一つのランドスケープとして収まっている。砂漠から数十マイルのところに、こんな豊かな自然が広がっている。(2016.6.22)