蒼い狼と薄紅色の鹿(30)

創作
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 立秋を過ぎた八月の朝、父は亡くなった。昼前に遺体を自宅に連れて帰り、とりあえず父の弟妹と主だった仕事関係の人たちに連絡した。神奈川に住んでいる叔母は、次女か三女かが出産を控えていて参列できないということだった。自分の従妹にあたる女性が出産するというのは、ちょっとした驚きだった。もう一人の肉親、大阪の叔父は翌日の葬儀に来てくれることになった。

 夕方になって坊主がやって来た。おそらく葬儀会社が手配してくれたのだろう。家の宗旨など知らないし、気にとめたこともないので、どこの寺から来たのかわからない。般若心経を読んでいたから禅宗かもしれない。死者の傍らに控えているのは、喪主であるわたし一人だったが、彼は別に怪訝そうな顔も見せずに、お布施を受け取ると礼を言って帰っていった。差し迫ってやることもないので、故人のそばに腰を据えて酒を飲みはじめた。父親が死んだというのに、やっていることは普段とあまり変わらない。

 父の人生について、わたしが知っているのは表面的なことだけだ。ほとんど独学で法律を学び、法科系の大学を出た者にも難しいといわれる司法試験を突破し、自分たちで興した法律事務所を切り盛りしてきた。途中からは責任者のような地位にいたらしい。当然、仕事上の危機やトラブルもあっただろう。私生活では連れ合いを長いうつ病の末に自殺によって失い、ようやく安泰な余生がはじまろうという矢先に脳梗塞を患った。あとは坂を下りっぱなしで、リハビリテーション病院でも介護施設でも、最後となった緩和ケア病棟でも不満ばかり言っていた。

 生い立ちについても、詳しいことはほとんど知らない。本人が話したがらなかったし、母からも聞いたおぼえがない。乏しい情報を整理すれば、生まれたのは山口県の周防大島で、半農半漁の貧しい暮らしだったらしい。長男である父には、五つほど離れた弟と、さらに三つ下の妹がいた。農業は米とみかんが中心で、みかんはもともと日当たりのよい段畑に植えられていたが、父が子どものころから、少しずつ田地にも植えられるようになった。米にくらべて作業が楽だし、実入りもよかったのだろう。

 父親は漁師で、近海でタイ、アジ、サバ、タチウオなどを捕っていた。郷里の海は戦後しばらくまで、こうした魚たちの良い漁場だったらしい。網を引いて捕ったイワシが餌になった。しかし魚を売っての暮らしは、もともと楽ではなかった上に、魚は年を追って捕れなくなっていた。上の息子が中学生のとき、父親は漁業に見切りをつけて出稼ぎに行くことにした。当時は珍しいことではなかった。しばらくは岩国や広島あたりで働いていたらしいが、やがて大阪に出て、そのまま帰ってこなくなった。母親は子どもたちに「とうちゃんは家族を捨てた」と言っていたらしい。

 父は小学生のころから成績が良く、島の中学も首席で卒業するほどたった。担任は広島か呉の高校を受験することを勧めたが、家の経済状況からして到底かなわぬ話だった。本人も中学を卒業したら、島の水産加工か真珠養殖の会社で働くつもりだったらしい。不憫に思った母親は親類縁者の伝手を頼って、広島で法律事務所を開いている遠縁の者に息子を雇ってもらうことにした。最初は掃除や書類の整理などの雑用を任されていたが、若者が有能であることを見てとった所長は、通信教育などで司法試験をめざす道をひらいてくれた。その期待に応えて、父は二十代半ばで予備試験を突破し、三十代そこそこにして司法試験にも合格した。

 所長の紹介で母と結婚し、さらに十年ほど広島で働いたあと、福岡に出て仲間数人と自分たちの事務所を起こした。わたしが小学校低学年のときで、そのころには母の抑うつ症状は子どもの目にもあらわになっていた。「引っ越しうつ病」という言葉もあるくらいだから、転居が一つの誘因になったのかもしれない。加えて、事務所を立ち上げたことで仕事が忙しくなり、父のほうにも家庭を顧みる余裕がなくなった。母からすれば、この男もまた「家族を捨てた」と思えたかもしれない。

 とくに夫婦仲が悪いわけではなかった。もともと父は感情を表にあらわさない性格だったので、余計そう見えたのかもしれない。愛情はなかったかもしれないが、憎み合っているふうではなかった。むしろ愛情も憎悪もない男女が一緒に暮らすことが問題だったのかもしれない。そのことに父は慣れたが、母は慣れることができなかった。彼女にしてみれば、自分たちのような夫婦のあり方は、けっして慣れてはならないものだった。最後まで慣れることを拒み通した末に、死を選んだようにも見える。

 考えてみると、わたしと父の境遇は似ていたと言えるかもしれない。二人とも大切な人に先立たれた。父にとって母は最愛の人ではなかったかもしれないが、それでも特別な人ではあっただろう。父なりに母のことを想っていたのかもしれない。再婚のことは頭になかったようだ。結果的に父もわたしも、その後の短くはない人生を一人で生きることになった。

 残される家のことを考えた。遠い昔、親子三人で住んだ家だった。ある日、三人が二人になり、やがて父一人になり、いまや無人になってしまった。このままにしておくわけにはいかないが、かといって自分が住む気にはなれない。一人で住むには広すぎるし、わたしには西戸崎のマンションがある。いずれ始末しなければならないだろう。煩わしい手続のことや何かを考えると憂鬱な気分になった。

 母のいない空っぽな家に、父とわたしは何年間か一緒に暮らした。その後も父とは同じ市内で暮らしつづけた。遠く離れて暮らしたことは一度もない。空間的には、ほとんど同じ場所にいたことになる。しかしいまだに、自分が父と同じ場所にいたという気がしない。いつも別の場所にいたような気がしてしまう。一つ屋根の下に暮らしていたときもそうだった。いつもそこにいて、そこにいなかった。父は一緒にいると、わたしはいつも奇妙な不在感をおぼえたものだ。

 父は自分のことをほとんど話さなかった。仕事のことも、日常のことも。何を食べたか、どんなことをしたか、風邪気味だとか寝不足だとか、そういうことをまったくといっていいほど話さなかった。まして心の内がどうなっているのかなど、窺い知ることもできなかった。まるで父自身が、自分の内面を自分から隠しているかのようだった。おそらく父なりに孤独だったのだろうが、わたしは一瞬たりともその孤独に触れることができなかった。ただ外側から観察するしかなかった。いつも何かが閉ざされ、とらえどころがなかった。父のことがわからないというよりも、父のなかにもう一人別の人間が隠れているのに、それを見つけ出すことができないという感じだった。

 だから同じ家に住んでいたといっても、記憶に残っていることはほとんどない。はっきりおぼえているのは、一度だけ彼女が福岡に遊びに来たときのことくらいだ。ホテルではなく家に泊めた。父は何も言わなかった。もちろん彼女には客間を用意して、夜は別々に寝たわけだが、それにしても父の態度はあっさりしたものだった。簡単に初対面の挨拶を交わしたきり、さっさと自分の部屋に引き上げてしまった。わたしとしては父が寝入ったところで彼女の部屋へ忍んでいくつもりだった。しかし計画が実行に移されることはなかった。あまりにも淡白な父の態度に、わたしのなかで何かが萎えてしまったのだ。

 いま思い返しても、ちょっと不思議な気がする。いくら男親とはいえ、息子が連れくる異性に多少の興味くらいは示してもいいはずではないか。まして家に泊めようというのだから、なにか一言くらいあってしかるべきだろう。だが父はわたしが付き合っている相手にまるで興味を示さなかった。本心はどうであれ、表面的には不干渉というよりも無関心だった。他のことについても同様である。息子の進路についてもひとことも口を挟まなかった。ただ言われるままに学費を出し、修士課程と博士課程とあわせて六年間に及ぶ大学院時代の生活の面倒を見てくれた。

 母の死後、父は多くのことに興味や関心を失っていった。まるで連れ合いの病気をそっくり引き継いだかのようだった。毎週のように出かけていたゴルフにもほとんど行かなくなった。本人はグリーンを歩くのがきつくなったと言っていたが、父自身が軽い抑制症状にとらわれていたのかもしれない。わたしもそんな父の様子を見越して、彼女を自宅に泊めようという気になったのだろう。

 母の死によって父が変わった、と考えることはいくらか慰めにはなる。だが、果たしてそうだろうか。父はもともとそういう人だったのではないだろうか。母が生きていたころから、息子にも連れ合いにも興味や関心がなかった。おそらく父自身が、夫にも父親にも向いていなかったのだろう。夫たるべき能力も、父親たるべき能力も欠如していた。そんな自分と向き合うのを避けるために、ひたすら仕事に打ち込んだのかもしれない。弁護士としては有能だったのだろう。事務所も順調に大きくしていった。

 母にとって、それは大いに問題だったに違いない。連れ合いが自分と向き合ってくれず、逃げてばかりいるとしたら。たんに空間的に不在なだけでなく、感情的にも不在だったとしたら。何を話しても、相手はこれといった反応を示さない。たまに口を開けば、ただ機械的に感情を伴わない言葉が返ってくる。母としては、自分がネグレクトされている気がしたかもしれない。

 結婚にたいして肯定的になれないのは、自分の両親のせいだと思っていた。彼らを見ていると、一対の男女が長く一緒に暮らす理由があるとは思えなかった。下手をすると、双方にとって災厄になりかねない。そもそも結婚などしなければ、父も母ももっと幸せな人生を送ることができたのではないだろうか。母は厄介な病気を抱え込まずに済んだし、そうすれば死ぬこともなかっただろう。

 父と同じことを、わたしもまた自分が付き合う相手にたいしてしてきたのかもしれない。独り身の者が多かった。なかには離婚したばかりの女性もいた。無意識のうちに、深い仲になっても面倒のない相手を選んでいたのかもしれない。たいてい数年も付き合うと、あとくされもなく別れた。離れていくのはいつも女たちのほうだった。
「何を考えているの」とよく訊かれた。
「別に」とわたしは答える。

 実際、何を考えているわけでもなかった。ただ誰といても上の空になることがあった。そのことには自分でも気がついていた。愛を交わしているときも、関心は現在を離れている。終わってしまうと、先ほどまで肌を合わせていたことが、遠い昔の出来事のように振り返られる。同じ寝床で眠る女のことを、どうしても思い出せないような、心もとない気持ちになっている。
「一年付き合ったけれど、あなたのことは何もわからなかった」ある女は言った。「これ以上一緒にいても、何かわかるとは思えない」
 どうやら別れ話を切り出されているらしい、と他人事みたいに考えながら不思議な気がした。自分ほどわかりやすい男はいないと思っていたのに。
「そこにいない男を愛することなんて、できないもの」

 いつも終わったところからはじまるように思えた。たとえ進行中でも、それは過去からはじまった現在だった。誰といくら親密になっても同じである。終わったところからはじまる恋愛などというものが、果たして考えられるだろうか? 仮にありえたとしても長くつづくはずがない。

 一人でいることは、倫理的な意味合いでも懸命な選択だったのかもしれない。もし誰かと一緒に暮らしていたら、きっとその人を母と同じ境遇に追い込んだだろう。