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1990年代には、まだ多くの人が頻繁に手紙を書いていた。スマートフォンはおろか携帯電話もわたしのまわりでは目にしなかった。インターネットもほとんど普及していなかった。新しいテクノロジーの到来には間に合わなかった。わたしたちは携帯電話もメールも使うことがなかった。
二人のあいだの主な通信手段は手紙だった。毎日のように手紙を書いた。彼女からの返事は一週間か二週間に一度だったけれど、まったく気にならなかった。わたしのほうには書きたいことがあった。書きたいという衝動があった。手紙を書くことで、自分たちがつながっていることを確認したかったのかもしれない。
手紙を書いていないときも、フルタイムで彼女のことを考えつづけた。ともに過ごした秋の一日を思い返しては、すぐに列車に飛び乗りたい気持ちになった。夢だったのではないか。彼女は海と砂丘がつくり出した蜃気楼みたいなもので、本当は実在しないのではないか。考えはじめると、居ても立っても居られない気持ちになった。
なんとか衝動を抑えることができたのは、旅費の工面が難しかったことに加えて、学業のことが心配だったからだ。当時のわたしはまだ真面目な学生だった。小説に見切りをつけたかわりに、研究者になることを真剣に考えるようになっていた。ものを書くことは嫌いではない。本を読むのも小学生のころから習慣になっている。たくさん本を読んで、もっともらしい論文を何本か書けば、大学の先生くらいにはなれるだろうと高を括っていた。
彼女のほうも忙しそうだった。手紙では家族についてまったく触れられていなかったが、自分のことは少し書いてあった。女子大の音楽学部に籍を置いていること。器楽専攻で楽器はピアノだが、アパートにはピアノを置けないため、もっぱら大学で練習していること。大学には自習室が幾つかあって、それぞれの部屋にピアノが置いてある。毎週課題が出され、一つずつクリアしていかなければならない。バッハ、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェン……。
当時のわたしには想像もつかない世界だった。数年前まではバンドをやっていたくらいだから、音楽と無縁だったわけではない。しかし彼女がいる世界は、人生を悲観したガキが青臭い情念のはけ口に、大音量でギターをかき鳴らすようなものとはまるで様相を異にする。古典派とかロマン派とか、ソナタ形式とか、そういった世界である。
そのころテレビでたまたま、グレン・グールドがバッハを演奏している映像を観た。鍵盤の上にかがみこむようにして音を紡ぎ出す猫背のピアニストに、わたしは芸術家の至福と狂気を見る思いがした。彼女の手紙を読みながら、あのときの映像を思い浮かべた。まさか二十歳かそこらの音大生が、グールドと同じ密度や強度でピアノに立ち向かっていると思ったわけではないが、さほど遠からぬ世界にいることは想像がついた。そんなところへのこのこ顔を出すわけにはいかない。迷惑がられることはわかっている。彼女から疎んじられるくらい恐ろしいことはなかった。それはかつての自分と母との関係を再現することだった。
手紙を書くことは、会いに行けないことの代償行為でもあった。手紙のなかで、何度も彼女の存在を確かめた。分刻みで、秒刻みで、できるかぎり克明に言葉や仕草や表情を想い起こし、記憶に定着させようとした。夢のように儚く消えてしまわないように、自分の身体に彼女の存在を刻み込んでしまいたかった。
実際にどんなことを書いたのか、いまでは思い出すことができない。小さな段ボール箱に一杯分くらいは書いたはずだ。それらの手紙は、あの日、彼女と一緒に神戸の街に埋もれてしまった。