蒼い狼と薄紅色の鹿(24)

創作
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 ある日、地下のはるか深いところで異変が起こる。物理的にはごく小さな出来事、断層がほんの一メートルか二メートルずれるといった程度のことだ。この微小な動きが北東と西南へ向かって連動し、筋状に街を破壊していった。百五十万の都市で約三十万人が生き埋めになったといわれる。大半は自力で、または家族や隣人たちの協力で生還したが、最終的に六千人以上が亡くなった。

 最初のうちは映像ばかりが溢れていた。言葉は現実に追いつかないみたいだった。ほとんどの映像は、ヘリコプターで上空から撮られたものだった。高速道路が波打つように倒壊し、あちこちで発生した火災のために街は黒煙に覆われていた。民家が燃え上がり、小学校のグランドに避難している住民の姿が映し出された。まさにスペクタクルだった。言葉を失わせる壮大な見世物。音が伝わってこないことが、眼下の阿鼻叫喚を非現実的なものにしていた。ましてそのなかに彼女がいることには、まるで思いが及ばなかった。あまりにも想像を絶するようなことが起こると、思考は付いていけなくなるらしい。

 やがて地上の映像が入ってくるようになった。現場に入ったレポーターは「悪い夢を見ているみたいだ」と伝えた。壊れた車には血の跡が付いていた。被災者や救助隊の人たちの声も徐々に入ってきはじめた。数字も入ってきた。はじめのうちは行方不明者の数が多かった。それから徐々に死者が優勢になっていき、やがてその数は逆転した。

 初期情報で被害が集中していると伝えられる地域には、幸い彼女の住居は含まれていなかった。わたしは数日にわたり、大家のところに何十回となく電話をかけたけれど一向に通じる気配がなかった。郵便物は届いていると聞いたので速達で安否をたずねたが、やはり返事はなかった。居ても立っても居られない気持ちだった。無事ならなんらかの方法で連絡してきそうなものではないか。災害後の混乱のなか、そんな余裕もないのだろうか。

 想像は悪いほうへばかり膨らんだ。楽観的になれる理由は一つとして見当たらなかった。このままじっとしてもしょうがないので、とにかく現地へ向かうことにした。新幹線は姫路のあたりで折り返し運転していた。調べてみると、福知山線を通るブルー・トレインで京都まで行けることがわかった。そこから先はなんとかなるだろうと思い、午後四時くらいに博多駅を出る列車に乗った。

 地震が起こったのは一月十七日の早朝で、この日は火曜日だった。十四日の土曜日、十五日の日曜日、十六日の振替休日を利用して、彼女は福岡に来ると言ってくれていた。断念させたのはわたしだった。試験が近いので、終わってからゆっくり会おうと提案した。彼女のほうもあっさり了承した。ちょっとした思いつきを引っ込めるように。

 この何気ないやり取りが、呪詛のように後々まで取り憑くことになった。最初の計画通りに福岡に来ていれば、死なずに済んだのではないか。当初の予定では、十六日の夜には神戸に帰ったはずだから、翌朝はアパートにいて地震に遭遇した可能性が高い。だがひょっとすると、滞在を延ばしたかもしれない。あと一日一緒にいようと、どちらかが言い出すことは充分に考えられた。

 公共機関を使って街に入ることは不可能だった。通りすがりに募集していたボランティアに参加し、救援物資を積んだトラックで目的地を目指した。しかし路上の渋滞はひどく、消防車を含めて車両はほとんど動いていないようだった。わたしは途中でトラックを降り、私物のリュックを背負って歩きつづけた。そうして少しずつ瓦礫の街に入っていった。
 寒風が吹きすさび、紙切れや埃を巻き上げていた。倒壊した建物や押しつぶされた車が道を塞いで、行きたいところへ行くのは容易ではなかった。どこへ行けばいいのかわからないし、どこへ向かっているのかも定かではない。
 ボランティアの人たちがテントを張って炊き出しをしていたので、彼女のことをたずねてみようと思ったが、すぐに考え直した。街の様子はすっかり変わってしまっている。番地からアパートの所在をたずねても、もはやどこに何があったかわからないだろう。だいいちボランティアなら、外からやって来た人たちかもしれない。
 ぼんやりしていると、汁物の入った器を差し出された。いつのまにか食べ物をもらう人の列に紛れ込んでいたらしい。
「被災者ではありません」
「いいから」
 男は器を押し付けようとする。
「食料は持ってきています」
 わたしは肩を持ち上げて背中のリュックを示した。
「こういうときは温かいものを喰わないとだめなんだよ」額にバンダナを巻いた四十がらみの男は諭すように言った。「パンやビスケットじゃあ心の傷は癒えない。ごちそうを食べるのが大事なんだ。温かい豚汁が、ここではごちそうだ」
 受け取った器を持って、崩れたブロック塀に腰を下ろした。同じように瓦礫の上に坐って、じっと正面を見つめている中年の男がいた。表情はまったく動かない。まるで汚れた能面という感じだった。家族を亡くしたのかもしれないと思った。
 別の六十くらいの男が話しかけてきた。
「千年ものあいだ、地震のなかった土地なんやがなあ」
 炊き出しの豚汁をうまそうに食べているところを見ると被災者かもしれない。
「押しつぶされた家の下から、何人もの生存者を救出した」男は問わず語りにつづけた。「意識のない者や虫の息の者もおって、何人かはそのまま亡くなった。なにしろ救急車がきいへんのでな。兄ちゃんも焼け出されたんか?」
「人を探しに来ました」
「そりゃ難儀やなあ」
 男は何か考え込むように口をつぐんだ。
「幸いにもわしらは命拾いした」いくらか放心した声だった。「家はなくしたが命は助かった。悪いことばかりやない。みんなやさしゅうなっとる。こんなときにがめつく金儲けする者などおらんよ。家族がいて仲間がいて、地面が動かず鎮まっていてくれたらありがたいと、みんな思っとる。生まれ変わった気持ちで、なんとか頑張るしかないやろう」
 最後は自分に言い聞かせるようだった。わたしは生返事をしたものの、頑張る気力など自分のなかに露ほども残っているとは思えなかった。