蒼い狼と薄紅色の鹿(29)

創作
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 高椋魁は革細工職人が財布か定期券入れの仕上げでもするような手つきでパンにバターを塗っている。塗り終わったパンの端を一口齧ると、それとなく藤井茜のほうを見た。彼女は蚕が桑の葉を齧るようにレタスを齧っている。

「どこか遠いところへ行きたいな」ひとりごとみたいに言った。「誰もわたしのことを知らなくて、気にもかけないところ……いっそ生まれる前の世界に。ねえ、生まれる前のほうがよかったって思うこと、ない?」
「生まれる前のことなんておぼえてないから」高椋魁はあっさりと言った。
「そんな気がすることってあるじゃない。生まれる前に郷愁を感じとか」彼女は自分の心の内を探るように言った。「生まれる前も寂しかったり落ち込んだりしたと思うけど、いまとくらべると古き良き時代だった気がする」
 齧りかけのレタスを皿に戻してからたずねた。
「カミュの『ペスト』って、読んだことある?」
「『異邦人』なら途中まで」
「ママンが死んだところでしょう?」
「なんで知ってるの」
「自分で言ってなかった?」
「そうだっけ」
「不条理って言葉が気になったんだ」藤井茜は話を先へ進めた。「購買部でけっこう厚い文庫本を買ってきて、さっそく読みはじめたんだけど、何ページか読むと飽きてしまう。翌日、また同じところから読みはじめると、やっぱり二、三ページで飽きる。だから『ペスト』については、階段でネズミが死んでるところまでしか知らない」

 彼女は死んだネズミをつまみ上げるようにトーストを手に取った。

「わたしたちの人生も同じ気がする。朝起きてご飯を食べて、服を選んで大学に行って、毎日同じことの繰り返し。来る日も来る日も同じページを読んでるようなもの。それも階段でネズミが死んでるとこばかり」
 藤井茜は浮かない顔で紅茶を一口飲んだ。それから椅子の上で居心地悪そうに身じろぎをしてたずねた。
「魁くんって、性欲とかないの?」
「あるよ」彼はニュートラルな声で答えた。「食欲と同じように」
「でも二次元女子限定なんでしょ?」
「まあね」
「やっぱり変わってる」

 しばらく言葉が途切れた。二人はそれぞれの思いにふけっているようだった。かなり長い沈黙のあとで、珍しく高椋魁が言葉を投げた。

「バナナが嫌いな人って変わってると思う?」
 藤井茜は不思議そうに彼の顔を見た。
「どうしてバナナが出てくるわけ?」
「同じだと思わない? 生身の女子とバナナ」
「かなり違うと思うけど」
「パン、もう一枚食べる?」
「いらない」

 高椋魁は立ち上がり、台所のほうへ歩いていった。

「バナナが好きな人もいれば苦手な人もいる」パンをオーブン・トースターに入れながら言った。「それといっしょ」
「何が?」
「生身の女子が好きな人もいれば苦手な人もいる」
「比較するものを間違ってる気がする」
「どっちでもないというケースも考えられる」彼はかまわずにつづけた。「たとえば麩とか」
「ふ?」思わず藤井茜の口からパンのかけらが飛び出しそうになった。
「味噌汁なんかに入れる」
「お麩のこと?」
「あれって、ぼくは好きでもなければ嫌いでもない。強いて言えば興味がない。それと同じかも」

 彼はトースターからパンを取り出した。

「でもさあ、お麩が好きでも嫌いでも、あるいはどちらでもなくても、投獄されたりはしないしょう?」戻ってきた高椋魁に彼女は言った。「でも女の子に興味がなっていうのは、ちょっとまずいかも」
「投獄はされないと思うけど」彼はほどよく焼けたパンにバターを塗りながら答えた。「たぶん逮捕もされないはず」
「広い意味で処罰の対象にはなるんじゃない」藤井茜は気鬱な口ぶりで控えめに異を唱えた。「白い目で見られたり、仲間外れにされたり」
「いじめられたり」
「イグザクトリー」そう言って、カップに残っている紅茶を少しだけ飲んだ。「きっとイデオロギーのせいだね」
「それって、地球温暖化と関係ある?」
 彼女は聞こえなかったふりをした。
「生き物のいちばん大切な仕事ってなんだと思う?」
「食べることと寝ること」
「幸せだね、きみは」
「どういたしまして」
「正解は子孫を残すこと」面白くもなさそうに言った。「つまり恋愛とセックス」

 高椋魁は猥褻な言葉でも耳にしたかのように顔をしかめた。

「いつか自分に子どもができるかもしれないって考えたことある?」
「二次元専門のぼくには無理でしょう」
「するとわたしたちって生きている意味がないってことにならない?」
「なんで」
「いま説明したじゃない。すべての生き物は交尾をして子孫を残すために生まれてくる。多くの虫や魚は交尾が終われば死んでしまう。カマキリのオスなんて交尾の最中にメスに食べられてしまう。交尾をしないわたしたちは、生き物としての使命を果たせないんだから、生きている意味がない。そうでしょう?」

 高椋魁は難しい公案でも出されたような顔をしている。

「もはや死ぬしかないかも」わざとらしい口調で藤井茜は言った。
「自殺ってこと?」
「生きている理由がないなら、生きていたってしょうがないじゃない」彼女は一呼吸おいて、「魁くん、一緒に死んでくれる?」とたずねた。
「ぼくも死ぬの?」高椋魁は目を白黒させた。
「いやなの?」
「ちょっと考えてみる」
「もう、冷たいなあ」

 彼は腕組みをして、なんとか生き延びる算段をしているみたいだった。

「ぼくたちが死んだら、先生が迷惑するかも」
「いいのよ、あの人のことは」藤井茜は素っ気なく言った。「もう大人なんだから」
 まるでサナギへの擬態を図ろうとするかのように身体を固くしている高椋魁を、彼女は冷ややかな目で見ている。そこへ折よく電話が入る。
「電話だ」高椋魁はいそいそとスマートフォンに手を伸ばす。
「ほっとけば」
「もう取っちゃった」そう言ってスマートフォンを耳に当てる。「もしもし?」

 藤井茜はわざとらしいため息をついた。高椋魁は神妙な面持ちで頷いている。やがて電話を切ると、

「先生から」と言った。
「わかってるよ」
「帰るときはちゃんと戸締りをして、鍵は下の郵便受けに入れとけって。それと火の始末だけはくれぐれもよろしくって」
「まったく」彼女は吐き捨てるように言った。「せっかく自殺する気分が高まっていたのに、魁くんがぐずぐずしているから水を差されちゃったじゃない」
「気分を変えて寝ようか」
「さっき起きたばかりでしょ?」
「なんかまた眠くなってきた」

 彼には嗜眠症の気があるのかもしれない。

「少し眠ってから考えよう」
「何を考えるのよ」
「自殺のこととか」
「目が覚めたときには死にたくなくなっているかもね」藤井茜は冷ややかに言った。
「それならそれでいいんじゃない?」
「よくない」彼女はきっぱりと言った。「死にたいっていう、いまの気持ちを大切にしなきゃ」

 藤井茜は獲物を追い詰めるような目で高椋魁を見ている。

「目が覚めてもわたしの決意は変わらないから」
「わかった」高椋魁は不承不承に頷いた。「そのときは付き合う」
「一緒に死んでくれるの?」
 彼は強いられたように頷いた。
「逃げるつもりでしょう」
「そんなことしないって。すでに一回やりそこなっているわけだし」
「またやりそこなうかも」
「確実な方法を考えよう」
「たとえば?」
「痛くないのがいいな。血とかもあまり出なくて」
「やっぱり失敗しそうだ」
「そんなことないって。薬を使う」
「どうやって手に入れるのよ。自殺に使えるような薬って、ドラッグストアでは売ってないんだよ」
「インターネットならたいていの薬は手に入る」高椋魁は意外と現実的なことを言った。「アマゾンでは無理だけど、アマゾンだけがオンライン・ショップではないわけだし」

 藤井茜はしばらく考えているようだった。

「その前に試してみない?」
「なにを?」
「生き物のいちばん大切な仕事」
 高椋魁は判読しがたい表情で相手を見ていた。
「それって、交尾ってこと?」
「こういうデリケートな状況であまりあからさまな表現は使わないでね」
「言っとくけど、三次元には興味がないから」
「わかってる。興味がなくても、一度くらいやってみる価値はあると思わない?」
 思っていないようだ。
「誰とでもってわけじゃないけど、魁くんとなら試してみてもいい気がする」
 彼はしばらく考えて、「お試し価格みたいな?」と言った。
「副作用とか少なそうだし」
 というわけで二人はおもむろに居間のソファへ移動する。寝室のベッドを使わなかったのは、生々しすぎると思ったからかもしれない。腰を下ろし、ぎこちなく手を握りあったものの、口づけは二人のあいだをさまよっている。
「わたしの名前、知ってるよね」
「藤井茜さん」
「こんにちは、高椋魁くん」
「ファイン・サンキュー」

 いったい何をやっているんだ、きみたちは? いたずらにソファの上で固まって、まるでロダンの彫刻のようではないか。もちろん「接吻」ではなく「考える人」のほうだ。

「やっぱり服とか脱いだほうがいいかも」しばらくして藤井茜が言った。
「それって裸になるってこと?」
「完全な裸じゃなくてもいいと思う」
「寒くないかな」
「七月だから大丈夫じゃない」
「服を着たままじゃだめ?」

 だめにきまっているだろう。まず服を脱がすんだ。それが手順ってもんだ。慌てる必要はない。落ち着いて、カメのようにゆっくり着実に彼女を脱がせちゃうんだ。手際の悪さを恥じてはならない。最初から手際よく女の服を脱がせられるような男など、かえって信用ならない。人生の神秘にたいする謙虚さが欠けている。さしずめきみがめざすところは、不完全でもいいから彼女を脱がせちゃうことだ。つぎにきみ自身が、生まれたばかりのホモ・サピエンスのオスに立ち返る。

「ちょっと質問していい?」藤井茜が言った
「なに」
「靴下なんか脱がせてどうするつもり」
「お風呂入るとき、最初に靴下を脱がない?」
「魁くん、わたしに何を求めているの」

 おそらく彼らが交尾に至るには、万里の長城を築くほどの時間がかかるだろう。行き詰った二人は、仲良く手をつないでソファに横になっている。

「このまま何世紀も眠りつづけたい気分……」夢見るように藤井茜は呟いた。