蒼い狼と薄紅色の鹿(5)

創作
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 研究室で小一時間ほど過ごしたあと、二人は部屋を出て二号館の通路をとぼとぼ歩き、エレベーターで六階から一階まで降りる。そこには乙女心をくすぐるこぎれいな庭園が広がっている。手入れの行き届いた芝生とつつじの植え込み、噴水のある池、誰かの無粋な銅像……などを抜けて正門までやって来たところで藤井茜がたずねる。
「これからどうする?」
「さあ」
「おなか空かない?」
「別に」
「ちょっとハンバーガーでも食べていこうか」
 高椋魁は早くも主体性のなさを発揮して、藤井茜に先導されるまま、たいして腹も減っていないのに大学の近くの国道に面した某ハンバーガー・チェーンに連れていかれる。
「いまお肉を食べる訓練をしているんだ」
 品物を注文して席についたところで藤井茜が謎めいたことを口にした。
「ハンバーガーなら食べられるんじゃないかと思って」それから彼女はテーブルの上に身を乗り出すようにして、「もっともここのビーフパティに本物の肉が使われているかどうか怪しいけど」と声をひそめた。
「どういうこと」
「あら、知らないの。これからわたしたちが食そうとしているハンバーガーに使用されているひき肉は、大豆などの穀物でできているっていうもっぱらの噂だよ。たしかにヘルシーかもしれないけれど、お肉を食べる訓練にはならないよね。はははっ……きみも笑ったら? わたしたちは笑いなしには生きられないんだし、笑いを忘れるべきではないと思うの」
 注文したハンバーガーとコーラを持ってきた店員に、高椋魁はナイフとフォークをたのんだ。それから藤井茜に向かって、「どうしてそんな訓練をしているの」とたずねた。
「ああ、そのこと」
 彼女はストローでコーラを一口すすると、小学生のとき学校で飼われていた鶏の話をはじめた。
「義経っていうオスの鶏でね、わたしはたまたま飼育当番で毎朝義経に餌をやっていたんだ。トウモロコシとか油かすとか入ったやつ。あるとき給食にささみのソテーみたいなのが出た。そしたらクラスの悪ガキがふざけて、こいつは義経だぜって」
 二人は顔を見合わせた。藤井茜は鶏用の配合飼料を食べたような顔をしている。高椋魁のほうはほとんど無表情だった。
「お皿の上の肉がコケコッコーって言いそうな気がして、思わずオエッとなった」彼女は吐き気をこらえるように顔をしかめた。「それから鶏肉が食べられなくなった。ほどなくして牛肉や豚肉も。牧場で草をはむかわいい牛たちと、スーパーで売られているパック入りの肉が同じものだなんて! そんなものを平然と食べているわたしたちって悪魔か怪物? お皿に出された肉を見るたびに、これは彼なのか彼女なのか考えてしまう。お皿の肉の性別なんか意識しはじめたら絶対に食べられないよ。つまり肉になった牛や豚を、友だちや家族として見てしまうんだな。きみはそんなことない?」
「たぶん、ないと思う」
「幸せね」素っ気なく言って、彼女は再びコーラをすすった。「当然のことながら魚も食べられなくなった。アジやタイが彼や彼女になってしまったわけ。こうなるともう完全な菜食主義者だね。健康かつダイエットの観点からは結構なことだという意見もあるとは思うけど、考えてみて、ある日突然、カボチャが隣のおばさんの顔に見えてきたり、大根が母の足に見えてきたりしたら? あらゆる根菜類が食べられなくなったら? ネギやホウレン草があの人やこの人に見えてきて、最後にはなんにも食べるものがなくなって、拒食症の少女みたいにやせ衰えて死んでいくとしたら? これはもう全然結構じゃないわけで、そういう悲劇的な未来を回避するために、自分をトレーニングすることにしたの。まずジャコからはじめて、魚はお刺身以外だいたい食べられるようになった。ちょっとしたコツがあってね。彼か彼女かわからないように、身をほぐしてぐちゃぐちゃにしちゃうんだ。いまは挽肉に挑戦中。そうやって少しずつハードルを上げていってるわけ」
 藤井茜は腕組みをしてテーブルの上のハンバーガーを睨みつけた。まるで一人の敬虔なイスラム教徒が、食べるべきか食べざるべきか、ハラームなのかノン・ハラームなのか思案しているみたいだった。
「ここのハンバーガーなら食べられる」彼女は自分に暗示をかけるように言った。「本物の肉じゃないんだから。トウモロコシとか大豆とか、そういうものでできているんだから」