蒼い狼と薄紅色の鹿(23)

創作
この記事は約7分で読めます。

 二人はまるで事前にブリーフィングでもしてきたみたいに、ぴったり歩調を合わせてシメジとポルチーノのトマト・パスタを食べ終えた。いまは点心系の中華総菜を細々とつついている。ウーロン茶でも淹れてやるべきなのだろうか、あいにくそんな健全なものは置いていない。

 かわりに藤井茜にレッド・アイを作ってやることにした。教えられたとおり、やや大きめのグラスにビールとトマト・ジュースを半分ずつ注ぐと、見るからに粗野で粗忽そうな飲み物ができあがった。最近の若い連中にファンが多いという話は耳にしているが、とても口にする気にはなれない。高椋魁のグラスにはレモン・サワーを注ぎ足した。

 しばらくして藤井茜が言った。
「小説ってちょっとヘンじゃないですか」脈絡もなく話を切り出すのは彼女の流儀らしい。
「どういうところが?」
「だって恋愛のことばかり。他に書くことはないのかと思って」
 なかなか鋭い見解である。わたしは時間稼ぎに高椋魁のグラスにレモン・サワーを注ぎ足そうとしたが、いつの間にか彼はテーブルに突っ伏したまま動かなくなっている。仕方がないので自分のグラスに飲み物を注いだ。身の破滅を避けるため、先ほどからノンアルコール・ビールに切り替えている。同僚の結婚祝いのお返しにもらったスヴァロフスキのシャンパン・グラスに注いで、大吟醸でも味わうように飲んでいる。
「小説に出てくる人たちって、みんな誰かを好きになって、そのために苦しんだり自殺しちゃったりするでしょう?」藤井茜は獲物を追い詰めるような口調で言った。
「みんなってことはないと思うけど」
 だが言われてみれば、このところ授業で取り上げている漱石の『それから』や『門』や『こころ』は、どれも「誰かを好きになって、そのために苦しんだり自殺しちゃったりする」タイプのものではある。
「小説を書く人って、そういうのが好きなのかな」
「別に好きってわけじゃないんだろうが」わたしはいささか弱腰になって、「たぶん題材として小説に向いているんだろうね」と言った。
「苦しんだり自殺したりすることが?」
「楽しかったり喜ばしかったりすることは、別のジャンルで表現したほうがいいかもしれない。音楽とか絵画とか映像とか」

 彼女に指摘されるまでもなく、この国の文学は古来恋愛のことばかり書いてきた。それこそ『古今和歌集』の仮名序の昔から、和歌を中心とする日本の文芸は男女の仲をもっぱらの主題としてきた。恋愛と四季、ほとんどそれだけをモチーフにしてきたといっても過言ではない。政治も思想も宗教も哲学も、性愛と花鳥風月の前に消し飛んでいる。世界的に見ても、隣国の漢詩などとくらべても、かなり偏りをもったものと言えるだろう。

 この傾向は明治以降の近代文学に至っても変わらない。「恋愛は人世の秘やくなり」と言って自殺した北村透谷をはじめ、漱石も、芥川も、島崎藤村も有島武郎もみんなそうだ。いい歳をした男が郊外の雑木林の黄葉に陶然としたり、眷恋する女の布団に顔を押し付けて泣いたり、はたまた恋女房を精神病にしたり、愛人と情死を遂げたり、といった類の文学作品を愛好し、嬉々として講義をするわたしは、学生たちから見ると異常な性癖をもった気味の悪い中年男ということになりはしないだろうか?

「なぜ恋愛とか、その手のことがみんな好きなのかなあ」いかにも嘆かわしいという口ぶりで彼女は言った。「付き合うとか別れるとか。はじまりがあって終わりがあって、独占欲とか嫉妬心とか、そんなことに夢中になれるのが不思議。ひたすら面倒くさいって気がするけど」
「たしかに恋愛っていうのは面倒くさいもんだな」この言い方は意図せずして反語のニュアンスを含んでしまったらしい。
「でも先生は好きなんでしょう?」レッド・アイの向こうから彼女は詰問するように言った。
「恋愛が嫌いな人間はいないだろう」
「別に嫌いってわけじゃないけど」彼女はいくらか不本意そうに言葉を補った。「たんに興味がないっていうか。恋愛にも性的なことにも。友だちの話でも、恋愛やデートの話とか退屈で、自分には関係ないと思ってしまう。恋人がほしいと思ったことはないし、結婚も考えていない。性的な話にはついていけないものを感じるし、セックス・アピールとかも苦手……地球最後の日が来ても、たぶんセックスはしないと思う」それから口調をあらためて、「わたしってヘンですか」とたずねた。
「いや、ヘンじゃない」
「でも先生の話を聞いていると、なんだか自分が非難されているみたい」
 謂れのない誤解を受けた気分だった。彼女はわたしの顔をまじまじと十秒くらい見つめた。それから挑発的に言った。
「直立歩行をはじめたおとうさんとかおいしさの起源とか、そういうのって全然わかんないから」
 わたしはシャンパン・グラスに残ったオールフリーを飲み干した。強い酒が飲みたい気分だった。藤井茜は下を向いて口を噤んでいる。沈黙が長くなった。部屋には小さな音量でショパンのマズルカが流れている。そのメロディにオブリガートをつけるように、高椋魁の気持ちよさそうな寝息が聞こえている。

「善し悪しの問題じゃないんだ」わたしはできるだけ親身な口調で言った。「優劣の問題でもない。結局、人は自分のことしか喋れないってことなんだろう。誰もが自分の生まれ育った時代の思考や感性にとらわれている。特定の価値観のなかでしかものを感じたり、考えたりすることができない。いかに中立で客観的なふりをしていても、それを後ろから支えている価値構造みたいなものがある。イデオロギーと言ってもいいかもしれない。誰もがその時代のイデオロギーにとらわれているんだ。恋愛や家族も、ある時代の社会権力の維持に貢献しているという意味では、一つのイデオロギーには違いない。きみたちがそうしたものから自由になりつつあるとすれば、それは社会がもはや恋愛や家族を必要としていないからだろう。恋愛や家族によって維持される社会権力は解体した、もしくは解体しつつある」
 話しながら、なぜか哀切な思いが込み上げてきた。
「かつてはわたしも若者だった」そう言った途端、自分が一挙に五十歳くらい年老いた気がした。「苦悩や不安を抱えながら夢もあった。いつのまにかいろんなことに無関心になった。歳とともにリビドーが涸渇していったのだろう。昔はそうじゃなかった。出会いもあった。ちょうどきみくらいのときだ。その人がいなければ生きていけないと思った。愛と言っても恋と言っても違う気がするが、まあそういうものだったのだろう」
 彼女は反発とも戸惑いともつかない目でわたしを見ていた。その目を見つめ返して言った。
「どんなかたちであれ人と人の関係は終わってしまう。それは避けがたいことだ。しかし二人で過ごした時間や、そこで受け取ったものは生涯消えることがない。自分のなかに残りつづけるものといかに向き合い、その人がいない人生をどう生きるか。たしかに悲劇的なことかもしれないが、それだけではない気がする」

 わたしは太宰治の『お伽草子』に収められた「カチカチ山」の話を思い出していた。オリジナルの昔話のほうは、悪いタヌキに騙されておばあさんを殺され、悲しみに暮れるおじいさんを見かねたウサギが仇を討つという内容だ。太宰版のカチカチ山では、ウサギは十代の美少女に置き換えられる。タヌキは醜い中年男だ。このタヌキはウサギに恋をしているから、どんな目にあっても彼女に従いつづける。ウサギのほうは純真で潔癖だが、冷酷なところもあって、最後にはタヌキを泥の舟に乗せて溺死させてしまう。湖面に沈んでいくタヌキが最後にウサギに向かって言う。「おれは、お前にどんな悪いことをした。惚れたが悪いか?」
 不意に藤井茜がたずねた。
「どうなったんですか、その人とは?」
 何気ない質問は、鋭い刃物のようにわたしの胸を貫いた。まるで心筋梗塞か何かのまえぶれみたいに、心臓のあたりがきりきりと痛んだ。深く息を吸い込むと、彼女がつけているらしい香水の匂いがした。甘いフローラル系の匂いだった。
「死んでしまった」
「うそ」
「信じようと信じまいときみの勝手だ」わたしは冷静に言った。「フィクションとして聞いてもらってもかまわない。その人とはもう二度と会えない。突然、いなくなってしまった。そのとき受けたショックや喪失感や不在感は時間とともに薄らいでいった。だが問題は、いなくなったその人ではなくて自分なんだ」

 罪なのだろうか? タヌキがウサギに惚れることは。

「その人に出会うまで、自分というものはあちこちに散らばっている感じだった。それぞれの時間、それぞれの場所に、いろんなことを思ったり感じたりしている自分がばらばらに存在している。まるで統一感がなかった。そんな無数の断片的な自分が、彼女と出会った瞬間、一つに寄り集まって、何か有機的な手ごたえのある存在になった。自分というものが、はじめて一個の人格として組み立てられたみたいだった」

 やはり「罪」ではあるのだろう。人を好きになることは。タヌキのように溺れ死ぬことはないにしても、善悪を超えたところで、「罪」に近い所業なのだろう。それは目に見えない。見えないものを、わたしたちは悲しみや、孤独や、空虚といったかたちで背負いつづける。

「突然、彼女はいなくなった。わたしを一つに束ねてくれていたものがなくなった。中心が抜け落ちて、自分のなかにぽっかり穴があいてしまったようだった。この欠落した感じは、いくら時間が経っても埋まらない。たぶん埋まりようがないのだろう。わたしは魂を抜かれた人形みたいになった。まわりの人間もやはり人形と同じになった。きみがいま見ているのは、そういう人間なんだ」