蒼い狼と薄紅色の鹿(39)

創作
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 レストランは営業を終えていたので、まだ開いているカフェのほうに入った。こちらもラスト・オーダーの時間が迫っている。水を持って注文を訊きにきた学生アルバイト風の男の店員に、わたしはホット・コーヒ―をたのんだ。二人はカフェ・ラテである。
「ホットにしますか、アイスにしますか?」
「アイス」と藤井茜が答えた。
 高椋魁のほうもそれでよかったらしい。店内には舌足らずな若い女性の歌が流れていた。薄っぺらで華やいだ音楽は、かえって店のうらぶれた感じを際立たせた。
 子どものころから遊園地って苦手だったなあ」グラスの水を一口飲むと藤井茜は言った。「小学生のとき東京ディズニーランドに連れて行ってもらったけど、全然楽しくなくて、早く帰ろう、帰ろうって言うんで、最後には親が怒りだした」
 おいおい、遊園地に行こうと言いだしたのはきみではないか。おかげでわたしのほうは取り返しのつかないほど感傷的な気分になっている。
「高校を卒業したときには、友だちと一緒にUSJに行ったけど、やっぱりちっとも面白いとは思わなかった」彼女は呪詛めいた口ぶりでつづけた。「ただ騒々しくて疲れただけ。あちこちにぬいぐるみを着た人がいて、緑や青やピンクや黄色で気持ち悪いんだ。紙コップは間抜けな白とオレンジのストライプだし。食べ物も飲み物も、みんな高くて不味い!」

 店員が飲み物を持ってきた。幸い、コーヒーは白い陶器のカップに入っている。カフェ・ラテのほうも透明なガラスのタンブラーである。咽喉が乾いていたのか、二人は底のほうに溜まったミルクをストローでかきまわして飲みはじめた。店にはわたしたちの他に客はいなかった。窓の外の舗道を若いスタッフが箒で掃いている。入園者がいないから、ゴミなどほとんど落ちていないのに。
「猫のお腹のなかで暮らす男の話って、どうかな?」一息ついたところで藤井茜が言った。
「それって小説?」高椋魁がたずねる。
「毎日、心がダース単位で折れていく男の話だよ」
「ヨナみたいだな」とわたしは言った。
「誰ですか、それ?」藤井茜がたずねた。
「旧約聖書の『ヨナ書』、鯨に呑み込まれる男の話だ」
「なんか聞いたことがある」
 ピノキオのゼペット爺さんと間違えているのではないか? いや、この世代はピノキオを知らない可能性もある。
「男はスマホで猫の写真を撮っている」藤井茜は来るべき小説の話をつづけた。「道端で寝ころんでいる野良猫かなんか。こうやってスマホを構えていると猫が退屈そうにあくびをする。その口がどんどん大きくなって、画面からはみ出しそうになる。なんだ、これは! 気がつくと男は猫のなかに入っている」
「どうして?」
「猫に呑み込まれてしまったんだよ」
「う~ん、っていうか」

 発達障害の診断書にタグ付けされて、二次元女子にしか欲望を感じないという高椋魁。恋愛にも結婚にも興味がないという藤井茜。ときに通報案件の対象になりそうな二人が、これからどうなっていくのかわからない。われわれの人生は、自然数のように整然としたものでもなければ、きれいに割り切れるものでもない。何をやって端数が出てきてしまう。それを切り捨てたり切り上げたりしながらやっている。だから四捨五入でいいのだ。いろいろあったけれど、四捨五入すると、生まれてきてよかった。それでいいのではないだろうか。