蒼い狼と薄紅色の鹿(33)

創作
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 海辺を旋回する鳶にも、さらに低いところを飛びまわるカモメにも、波打ち際に横たわるその動物が死んでいるのか生きているのかわからなかった。横たわっている本人にもわからなかったくらいだ。

 最初に感じたのは痛みだった。身体中が焼けるように痛かった。強い日差しを浴びて、むき出しの皮膚は海岸に転がる石ころと同じくらい熱くなっている。反射的に顔に手をやった。幸い蟹に喰われてはいない。皮膚は肉にくっついているし、水を吸った身体が風船のように膨らんでもいない。どうやら生きているらしい。安堵とともに、融解するような疲労に襲われて意識を失った。

 闇のなかを果てしなく漂っていた。海岸で感じた痛みは消えていたが、生きているという確信はもてなかった。生と死の潮目を漂っているらしい。どちらかというと死に向かって流されている気がした。生から遠ざかる離岸流にとらわれてしまったのかもしれない。

 目が覚めると見知らぬ部屋にいた。額に入れて鴨居に掛けてある何枚かの古い写真が目に入った。この家に暮らした者たちの遺影らしかった。
「気がついたか」
 部屋の隅に女がいた。
「もう大丈夫じゃよ。怪我はしとらん。肺にちょっと水が入っとるようやけどね」
 その声を聞き、自分と同じ年恰好の相手を見たとき、彼は激しい渇きをおぼえた。
「水を……水をくれんか」
「お水か。いま持ってくるけんね」

 女は部屋を出ていった。その後ろ姿を追いながら、彼は胸を締め付けられるような気持ちになった。懐かしい思いとともに、海岸で焚火をしていた少年の日々が甦ってくる。毎日想いつづけた少女。あのときの少女が、十年のときを隔ててここにいる。ここは朝な夕な海の彼方に眺望した島に違いない。だが一瞬の歓喜のあとには虚しさがやって来た。そんな夢みたいな話が通じるわけもない。肺に水が入って頭まで変になったと思われるのが落ちだ。

 女に世話をされて、体力は少しずつ回復していった。目覚めているときはずっと女のことを考えていた。眠っているあいだも考えつづけていた気がした。数日後には起き上がれるようになり、やがて屋外にも出られるようになった。家の裏は石垣を隔ててすぐ海になっていた。潮が満ちてくると、波のある日には石垣に当たって水しぶきを飛ばす。
「海が荒れた日は水が家のなかまで入ってきて大変なんよ」
「どうしてそんな近くに家を建てたのかの」彼がおかしそうに言うと、
「昔は潮が満ちてきても、家の裏には白い砂浜が残っておった」女は生真面目に受けた。「村の人らはそこを通って行き来できたし、石垣も必要なかった。うちが生まれたころに西の波止ができて、それで潮の流れが変わったんよ。少しずつ砂が削られて、いまみたいになってしもうた。波止ができたのはええけど、こんなことになるとは誰も思うてなかったんやろうね」

 その石垣の修理を手伝うことになった。女の父親は寡黙な男だった。彼が家に厄介になっていることに嫌な顔をしないかわりに、親しげに言葉をかけてくることもない。家の裏の石垣は粗末なものだった。近くの磯から石を拾ってきて築いたものらしい。石工でも雇って丈夫な石垣を造ればいいにと思ったが、口には出さなかった。

 暮らしが貧しいのは彼のところと同じだった。平地が少ないので山の斜面に段畑を築いて芋や麦などを作っている。山は狭隘なところまで拓かれていた。養っていけない子どもは間引きされた。そんな言い伝えが彼の島にはあり、供養のために彫られたという地蔵があちこちに残っていた。同じ地蔵がこの島でも見られた。
「わしらは間引かれずに生き残ったわけだな」冗談めかして言うと、
「馬鹿やね」女は呆れた口ぶりで答えた。「そんなのは大昔のことよ。お地蔵さんの後ろに字が彫ってあるやろ。消えかかって見えにくいけど、江戸時代のものらしいよ」

 女の家の畑は山の中腹の見晴らしのいいところにあった。途中で広々とした草地の脇を通った。草は短く刈られ、村の人たちによって大切に管理されているらしい。
「もったいないの、こんな広い土地を。畑にでもすればええのに」
「お墓を畑にはできん」女は事も無げに言った。
 彼ははっと胸を衝かれて足を止めた。しばらく呆然と草地を眺めていた。
「この島で亡くなった人はみんなここに埋められるんよ」女は言わずもがなのことを付け加えた。

 死んだ者は焼かねばならない、と彼の島では考えられていた。現に死者たちは寺の裏の丘で火葬にされた。野天に穴を掘り、周囲を煉瓦で囲っただけの簡単なものだったが、村で死んだ者はそこで荼毘に付された。穴のなかへ棺桶を降ろし、割き木と麦わらで焼き上げる。これを怠ると疫病が流行ると信じられていた。だからなおさらのこと、島の者たちは土葬の習慣を守りつづける者たちを忌諱していた。

 いつのころからか察していたのではなかったか。大人たちが海を隔てた島へ行くことを避けるのは、その島の者たちが代々受け継いでいるしきたりのせいであることを。
「おまえもここに埋められるのか」
「そうなるやろうね」女は遠い目をして呟いた。
 土のなかで腐っていく女の姿がちらりと頭をかすめ、そこから先はものを思えなくなった。女が振り向き、目を合わせたときにも感情を読み取ることはできなかった。
「おれの島に来ないか」うわごとのように言った。
「うちはこの島でしか暮らせん」
「どうして」
「昔からそうやった」突き放すような言い方をした。「島の女は島の男と結婚する。そして死ぬまで島で暮らす」
「そしてここに埋められるのか」
 女は答えなかった。彼もそれ以上は言葉を重ねなかった。
「島を出たくないのか」ようやく口にすると、
「きまりやけん」女は表情のない声で答えて歩きはじめた。