二人がまだ子どものころに、両家の親たちがきめたことらしい。許嫁の家で世話になっている彼にたいして、男は屈託もなく親しげだった。何度か男の漁具の手入れを手伝った。長い時間、二人は黙って作業をつづけた。話すことがあるはずだった。この男にも、おれのほうにも。わかっているのだろう? おれたちのあいだには片付けなければならないことがある。だが彼自身、自分が考えたり感じたりしていることを口にするのは苦手だった。この男もそうなのだろう。長く海の上で暮らしてきたせいだ。おれたちは似ているのかもしれない。それは彼がいちばん認めたくないことだった。
ある日、二人は一緒に漁に出た。男が漁場に船を駆るあいだ、彼は針に餌をつけた。漁法までが同じだった。この男も同じやり方で魚を獲りつづけてきたのだ。まるでもう一人の自分がいるみたいだった。奇妙なことに、相手のほうが現実で、自分は夢か幻のように思えた。
「子どもが生まれたら、漁師にはさせるまいと考えとる」引き揚げるのを待つあいだに、男はそんなことを言った。「ここらの漁業は先が見えとる。わしらの代で終わりじゃ。もし男の子やったら街の学校にやって給料取りにする」
ふと彼の頭に「男の死」という観念が浮かんだ。あたかも雲間から顔を出した月の光が暗闇を照らしたかのように。紛れもなくそのとき、彼は男の死を願った。顔を蟹に喰われるような無残な死は望まないまでも、父親と同じように海で行方不明になってくれたらいいと思った。この男のいる場所には、本当はおれがいるべきなのだ。
「女やったら?」
相手はしばらく思案する素振りを見せた。
「やっぱり街の学校にやって給料取りと結婚させるやろうな」
屈託なく笑う男を憎いと思った。一方で、憎み切れないとも感じていた。この男を憎むことは、彼女を憎むことになる気がした。
「そろそろ揚げるか」
糸を手繰る男の様子を横目で見ながら、彼は心を決めた。一日も早く島を出よう。おれはこの男を殺した。心のなかで一度は殺したのだ。おれの心には男の血がついている。それは洗い落とすことのできない染みとなって一生残りつづけるだろう。
女の家で夜を過ごすことが、いまさらながら辛い苦行のように思えた。彼女には許婚がいる。これから先、数え切れぬほど夜をともに過ごすのはあの男だ。悪いやつではない。まっすぐな海の男のようだ。知らない者同士として出会ったら、気持ちよく手を貸し合う仲になれたかもしれない。彼女はその男のものだ。おれが入り込む余地はない。
なぜ、自分ではなかったのか。来る日も来る日も海岸で焚火をしながら彼女を想いつづけていた自分が、あの男の場所にいないのはなぜなのか? 不条理な思いを拭い去ることができなかった。本来の相手はおれだったはずではないか。おれたちは一緒に大きくなった。毎日、毎時間、ともに生きてきた。何かの手違いで入れ替わったのだ。おれとあの男が。それとも彼女のほうが間違った島に生まれたのだろうか。どっちにしても男一人が余分だった。
男が彼を島に送り届けてくれることになった。女の許婚の船で元の場所へ送り届けられることが、彼を一層屈辱的な気分にした。屈辱は自嘲にかたちを変えた。体よく厄介払いされるようではないか。それでいいのかもしれない。いまは一刻も早く女から離れたかった。これ以上一緒にいることはできない。彼女といると胸が苦しくなる。魂を絞り上げられるような、たまらない気持ちになる。
それでも最後にもう一度、女と二人きりになりたかった。夕暮れどき、家の裏の干潟に女を誘った。潮は遠くまで引き、砂は沖まで現れていた。
「ここらの砂には貝がたくさんおるんよ」
女の言葉に、彼は黙って頷いた。
「いよいよ明日、帰るんやね」
どこかにあるのではないか。足元の砂地に目を落としたまま、彼は縋るような気持ちで考えつづけた。きっとあるに違いない。ありったけの燃料を積んで、どこまでも船を進めれば見つかるはずだ。誰にも知られず二人で生きていける場所が。おれは自分の島と、この島のことしか知らない。あとは高校時代にしばらく過ごした街くらいだ。未知の場所が、世界中にはいくらでもあるはずだ。
「ここにいたことをおぼえておこう」歩きながら彼は言った。「この干潟、家の裏の石垣、裏山の段畑、死んだ者を埋めるための墓……」
「うちのことは?」女は悪戯っぽくたずねた。
甘い誘いにも聞こえる言葉に、彼は足を止めなかった。立ち止まれば抱き寄せたくなる。温かい顔に顔を近づけ、唇を押し当てたくなる。女の熱い息を吸い、かすかに塩の味がする舌に触れてみたくなる。自分の気持ちを打ち明けたくなる。それはもはや引き返せない過ちを犯すことだ。
「おれが海で死んだら、骨は笛にしてもらう」思い詰めた口調で言うと、
「縁起でもないことを言うもんやないよ」女は真顔でたしなめた。
これから何をしても、どんな人生を送っても、このひとときに勝るものは得られない。同じようなことは二度とは起こらない。おまえと別れれば、深い悲しみだけが永遠に残る。それを抱えて生きていくには、心を麻痺させるしかない。何も感じない心とともに生きていくしかない。寂しい心のなかに、一つくらい望みをもってもいいだろう?
「死んだ者の骨で笛を作る、そういう風習がどこかにあるらしい」
「うちは聞きとうない」
彼は胸のなかでつづけた。その骨笛を、おまえに届けたい。晴れた日、おれの島が見える丘の上でおまえは笛を吹く。おまえの息がおれのなかに入ってくる。そうしたらおれは白い大きな鳥となって、おまえのもとへ飛んでいこう。