蒼い狼と薄紅色の鹿(9)

創作
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 喫茶店で軽い昼食を済まし、コーヒーを飲みながら、わたしはほとんど無節操に自分のことを話しはじめていた。数日前に母親を亡くしたこと。長く患っていた病気のこと。ほんの一、二時間前に会ったばかりだというのに。彼女は告解を聞く司祭のように、見ず知らずの男の話に辛抱強く耳を傾けてくれた。途中で言葉をさしはさむこともない。ただ黙って聞いているだけだった。過度に同情的な素振りを見せなかったことが、かえってわたしにはありがたかった。

「年齢とともに病気があらわれる頻度は増してきていたから、そのことを悲観して死んだのかもしれない。このまま生きていたってしょうがないってね。でも、どうしてその日だったのか。何かあったんじゃないか。気づいていれば自殺は防げたんじゃないか。考えはじめるときりがない」

 彼女はただ静かに相槌を打ちながら、けっして楽しくはないはずの話を聞いてくれた。おかげで圧縮されていたデータが解凍されるように、言葉はとめどなく溢れ出してきた。澱のように溜まっていたものを吐き出すことは快感ですらあった。相手の気持ちを思いやる余裕などなかった。若かったとはいえ、ほとんど歳の変わらない彼女にくらべると、わたしのほうははるかに愚昧で身勝手だった。

「いちばん辛いのは、母が幸せそうにしている姿が思い浮かばないってことだ。記憶に残っているのは、暗い顔をして塞ぎ込んでいる母の姿ばかり。とにかく口を開けば、辛いとか苦しいとかいった言葉ばかり出てくる。母にとって父と結婚したのは間違いだったのだろう。子どもから見ても、お互いにいいことなんて何もなかった。もちろん不幸な結婚をした者が、みんな自殺するわけじゃない。別れるとか慣れるとか、いろいろ選択肢はあるだろうに……とにかく人はあるときなんの理由もなく死んでしまう。他人に理解できるようなものは残さずに、突然目の前から消えてしまう。そう考えるしかないんだろうな。理由のわからない死は遺された者を呪縛するっていうけど、自分を生んでくれた人のことが理解できないのは、不安定で落ち着かない気分だよ。母親のことがわからないなら、この世界にわかることなど何もないって気がしてくる」

 店を出たあとは砂丘に戻ってひたすら砂の上を歩いた。疲れると手ごろな場所に腰を下ろして休んだ。ときどき靴を脱いではひっくり返し、サラサラと流れる砂を掻き出した。途中からは面倒くさくなって、二人とも靴を手に持って裸足で砂の上を歩いた。

「足跡って匿名的だと思わない?」歩きながら彼女は言った。「誰のどんな足跡も、ただ靴の形とサイズの違いでしかない。一晩のうちにすっかり消えてしまって、あとには何も残らない」

 生まれたばかりの言葉を風がさらっていった。いつのまにか二人きりになっていた。まわりには砂丘と海と匿名の足跡があるだけだ。もはや言葉は交わさず、ときどき意味もなく見つめ合った。彼女の瞳にわたしが映っている。そこに映っているのは、いまこの瞬間に生まれたばかりの自分だった。母の目に映っていたのとも、父の目に映っていたのとも違う。彼女の瞳に映った自分を生きたいと思った。それこそが、はじめて心から生きたいと思える自分だった。