蒼い狼と薄紅色の鹿(18)

創作
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 最後に会ったのは十二月だった。クリスマスを過ぎて、大学は冬休みに入っていた。彼女のアパートは男子禁制で、六つある部屋には同じ女子大へ通う学生ばかりが住んでいた。わたしが訪れたときには彼女を含めて二、三人が残っているだけだったが、それでも用心のために昼間は市内のあちこちで時間を過ごし、アパートには暗くなってから戻った。

 その年の暮れは寒かった。日中でも街を歩いているとときおり粉雪が舞った。冬の日差しを浴びて、やわらかな雪は彼女の髪にも、ミントグリーンのマフラーにも、キャメルのコートにも降りかかった。もともと色の白い頬は寒さのせいで薄紅色に染まっていた。唇の色はひときわ赤かった。それらすべてがもぎたての果実のように新鮮で美しかった。

 歩いているだけで時間は苦もなく過ぎた。彼女はベートーヴェンのピアノ・ソナタのことを話していた。冬休みのあいだも大学の自習室へ通って練習しているという。番号は忘れたが、いわゆる三大ソナタではなかったと思う。タイトルが付いていたとすると、「テンペスト」か「ワルトシュタイン」あたりかもしれない。
 ベートーヴェンのピアノ曲には、技術的な難しさとは別の弾きにくさがある、と彼女は言った。
「指とピアノの関係に無理があるんだと思う。どこか力ずくで鍵盤を支配しようとしているみたいな。だから練習していると手が痛くなるの。あまり弾く人のことを考えていない気がする」 
「耳が聞こえなかったことと関係あるのかな」
「そうかもしれない。現実のピアノじゃなくて、自分の頭のなかにあるピアノで作曲していたのかもね」
「困った人だなあ」
「でもなんとか乗り越えたい、手が痛くなっても弾きこなしたいと思わせるところがすごいよね」
 まるで馬だ、とわたしは思った。名馬と呼ばれるほどの競走馬は、騎手でも乗っていて怖いと思わせられることがあるという。気性も荒かったり、神経質だったりすることが多いらしい。そんな馬を、彼女は懸命に乗りこなそうとしていた。

 部屋にはストーブがなかった。火災の心配をした大家が、アパート内でのストーブやファンヒーターなど火気の使用を禁止していたためだ。かわりに電気こたつと電気カーペットを使っていた。台所にはガスコンロがあって、簡単な調理くらいはできるようになっていた。食事は外で済ましてきていたのでココアを淹れてくれた。片手鍋で牛乳を沸かして本格的に作った。

 こたつに入ってココアを飲みながら音楽を聴いた。ショパンかドビュッシーだったと思う。何枚か聴いたレコードのなかに、ドビュッシーの「月の光」が含まれていたのは間違いない。わたしはその曲を気に入り、曲名をたずねただけでなく、何度か繰り返してかけてくれるようにたのんだからである。それからショパンのエチュードもあったはずだ。
「中学高校のときに習っていたピアノの先生から、ショパンのエチュードが弾ければ、それ以上の技術は必要ないってよく言われた。とにかく二十四のエチュードをちゃんと弾けるようにしなさいって」
 当時のわたしはエチュードが練習曲のことだということさえ知らなかった。「別れの曲」というタイトルを聞いて、なんとなくメロディを思い浮かべることができる程度だった。
「ショパンのエチュードって、本当によく書けているの」彼女はココアの入ったマグカップを両手で包むように持って言った。「第一曲は手を広げるためのアルペジオ、第二曲は指の独立、つぎの『別れの曲』はレガートというふうに、どの曲にもちゃんと目的がある。二十四曲でピアノを弾くための技術が全部揃っていて、しかも音楽として素晴らしい作品になっている」
「いつか弾いてほしいな」
「いつかね。ちゃんと弾けるようになったら」

 それから彼女は最近観た映画のことを話した。市内に住む友人が、クリスマス・イブに彼女を含む何人かを自宅に招待してくれたらしい。ピザやケーキを食べながらビデオを観ることになった。ジョニー・デップが主演のファンタジーだった。
「その子、ファンなの」
 わたしは夏休みに観た『ギルバート・グレイプ』のことを話した。やはり主演はジョニー・デップで、レオナルド・ディカプリオが知的障害のある弟の役で出ている。
「とてもいい映画だよ」
「今度観てみる」
 彼女が観た映画のほうは、何年か前に劇場で公開されたものらしかったが、わたしは観ていなかった。一人の年老いた発明家が人造人間の開発に成功する。エドワードと名付けられた青年の腕には、本物の手が完成するまでハサミで作った仮の手が装着される。ところが人間と同じ形をした手が出来上がった直後、発明家は急な発作を起こして死んでしまう。残された青年は不自由な手まま発明家の屋敷に一人で暮らしつづける。あるとき心優しい女性によって発見された彼は、彼女の自宅へ連れ帰られる。そして家の娘と恋に落ちる。だが両手が鋭い刃物でできているために、しばしば意図せずして人間を傷つけてしまう。
「両手がハサミだから、好きな人を抱きしめることもできない。それどころか誤って彼女に怪我をさせてしまったりするの。いろんなことがあって、とうとう街にいられなくなったエドワードは、彼女と別れて一人で屋敷に暮らしつづける」
「悲しい話だね」

 その夜は部屋に泊まることになっていた。一つの布団で一緒に眠るつもりだった。彼女はパジャマに着替えていた。わたしのほうはズボンとシャツを着けたままだった。
「ヘンなことはなし、ね?」彼女は念を押すように言った。
「わかった」
 着衣のままキスをし、抱き合って目を閉じた。パジャマの上からでも充分だった。彼女の身体のなかには、その日、二人で歩いた神戸の街がそっくり包み込まれていた。冬の弱い日差しや、ときおり降りかかる粉雪や、六甲山から吹いてくる冷たい風や、少し油臭い港や海の匂いや、異人館やカフェや教会のたたずまいなどが、みんな包み込まれていた。

 いつのまにかわたしのなかでは、彼女にたいする欲望と、神戸という街にたいする欲望は切り離せないものになっていた。街を歩き尽くし、細い路地の隅々まで知りたいと思った。それらの路地は、どこかで彼女の肉体につながっているはずだった。だが、そこへ至るには、ショパンのエチュードやベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾きこなすくらいの困難を伴った。
「シャツとズボンを脱いでもいいかな」
「裸になるってこと?」
「シャツとズボンだけ」
 いちばん難易度の低いエチュードを突破したといったところか。
「布団のなかは温かいから、パジャマは脱いでもいいんじゃないかな」
 彼女はしばらく考えて、「じゃあ靴下を脱ぐ」と言った。
「いつも靴下をはいて寝るの?」
「寒がりなんだ」
 この調子では夜が明けてしまう。肝心な場所へたどり着くためには、さらに幾夜もかかりそうだった。とりあえず服はそのままにして、わたしはパジャマの襟元から手を差し入れた。大きくはないけれど、形のいい乳房が手に触れた。頬に熱い息を感じた。神戸の街はどうでもよくなり、彼女の肉体だけが、やわらかい乳房の感触と熱い息だけがすべてになった。
「だめ」
 強い拒絶の口調に、思わず手を引っ込めた。彼女は襟元の乱れを直している。自分が何か卑劣な犯罪行為でもしでかしたような気がした。手にはやわらかい乳房の感触が残っている。何がいけなかったのだろう? わたしは自分の手に触って、それがハサミに変わっていないことを確かめた。
「今日はこのまま寝よう」と彼女は言った。
 寸前のところでお預けを食った気分だった。美味しそうな料理を前にして、これは食品サンプルなので食べられませんと言われたようなものだ。不貞腐れて黙っていると、彼女は自分からわたしの身体を抱いてくれた。好きな人に抱かれるのは気持ちがよかった。今日のところは、これでよしとすべきだろう。いくらか心が安らいだところでたずねた。
「いつか試してみてもいい?」
 すると意外なことに、彼女は小さく頷いて言った。
「今度会ったときにね」
 その一言で充分だと思った。彼女が約束してくれたことがうれしかった。なぜならわたしのなかでは、性的な欲望よりも、彼女にたいする欲望のほうがはるかに大きかったからだ。街にたいする欲望が甦ってきた。春が待ち遠しかった。春めいた神戸の街を、二人で歩きまわりたかった。北野の異人館街を歩き、張り出し窓の付いた萌黄色の館の前に彼女を置いてみたかった。暖かい春の日差しを浴びた白壁とブルーの窓枠の下に立たせてみたかった。春が待ち遠しかった。