蒼い狼と薄紅色の鹿(7)

創作
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 色の褪せかけたプリントに、十九歳の彼女が写っている。三月末、大学の春休みにはじめて神戸を訪れたときに撮ったものだ。父から借りたオリンパスの一眼レフだったと思う。いくらか露出が不足しているのは雨のせいだろう。とはいえ出来の悪い写真ではない。少なくともそこには、わたしの記憶どおりの彼女が映っている。

 街には午前の早い時間に着いた。おそらく始発に近い新幹線に乗ったのだろう。彼女は駅まで向かえに来てくれていた。新幹線の駅は街から外れた少し不便なところにあり、彼女のアパートは西宮のほうだったから、出てくるのは結構面倒だったはずだ。どうやって落ち合う手はずを調えたのだろう? 携帯電話はまだ普及していなかった。固定電話は大家を通して呼び出してもらわなければならないから使ったことはない。すると手紙だろうか。電報でも打ったのかもしれない。

 とりあえず三宮のほうへ移動して、北野の異人館街あたりを歩いた。途中で雨が降り出したのだろう。天気のことはまったくおぼえていないけれど、ブラウスが濡れているからそう考えるしかない。どうして彼女は傘を持ってこなかったのだろう? 家を出るときには天気の崩れは予想できなかったのだろうか。急に降りだしたにわか雨だったのだろうか。

 手のひらサイズの一枚の写真。それがすべてだった。彼女とわたしと雨。他には誰もいない。何ものも存在しない。物音さえ聞こえてこない。まるで雨が消してしまったかのように。「三月の雨」というアントニオ・カルロス・ジョビンの曲がある。南半球のブラジルでは三月は夏の終わりだ。日本では冬の終わり。春の訪れとともに、わたしたちの恋もまたはじまろうとしていた。

 ブラウスが雨に濡れて透き通っているのが写真でもわかる。そのせいかカメラのほうを向いた彼女は、ちょっと困ったように微笑んでいる。心なしか寂しげで、悲しみと呼べそうなものが笑顔に微妙な陰影をつけている。この謎めいた表情こそ、わたしが一生をかけて解き明かしたいと願ったものだった。

 かつて彼女はそこにいた。現実のある場所に、ある日のある時間。いまも彼女はそこにいる。そこにいる彼女が、ここにいるわたしに触れにやって来る。遠く離れた星の光のように。写真を見ていると、四半世紀の時間が流れたという気がしない。いまも自分が十九歳のままそこにいる気がする。父から借りたカメラを構えて、「はい、笑って」などと言いながら。彼女との距離はせいぜい数メートルといったところだろう。言葉を交わすことはもちろん、何歩か足を動かせば触れることもできる。

 だが、それはあくまでも「写真」というフィクションのなかだけのことだ。一歩外に出れば、彼女はたちまち手の届かないところへ行ってしまう。何十億光年もの距離を隔てた星の光になる。この落差が、めまいにも似た感覚を惹き起こす。どうして彼女はそこにいて、わたしはここにいるのか?

 写真を眺めていると、いまでもどこかにいる気がする。わたしと同じように律儀に歳をとって、どこかで生きている気がする。しかし彼女が生きているのはフレームのなかだけだ。外に出た途端、一人のありふれた死者になる。わたしもまた写真のなかでだけ、永遠の十九歳の恋を生きる。