蒼い狼と薄紅色の鹿(12)

創作
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 プルーストの長大な小説では、冒頭の眠りをめぐる長い記述に多くの人がうんざりさせられる。なかでも「就寝の悲劇」と呼ばれる母親とのエピソードは、読むのにかなりの忍耐を要する。マルセルという名の幼い主人公は、母親が「おやすみのキス」のために二階の部屋に来てくれるのをひたすら待っている。ある夜、来客があって来ることができないので、子どもは策を弄して母親と二人になる機会をつくる。ようやく願いがかなった途端、緊張から解き放たれた主人公は泣き出してしまう。母親は当惑気味にわが子を慰める。子どもの嗚咽はますます激しくなり、その涙が伝わって、彼女のほうも泣きそうになる。

 この母と息子を入れ替えれば、わたしたちのケースになったはずだ。物心ついたころから、母は突然泣き出すことがあった。そんな彼女を慰めるのは幼いわたしの役割だった。何度も繰り返されるうちに、それは母親という存在に付随する生理現象と思えるようになったが、涙とともに忍び寄ってくる恐怖には慣れることができなかった。どうやら彼女はわたしを道連れに死ぬつもりらしいのだ。

 死ぬなら一人で勝手に死んでくれ、と突き放せるようになったのは中学生のころからで、それまでは母が死のうと決心すれば抗えないだろうと思っていた。だから母が泣きだすことは、わたしにとって死のサインだった。ウルトラマンの胸のライトみたいに、死が点滅しはじめるのである。

 母親を喜ばせるために、できることはなんでもしようと思った。いい成績をとるというのは、心根のやさしい子どもなら誰もが思いつくことだ。おかげで小学校を通して成績は常にクラスでトップだった。しかしいくらテストでいい点をとっても、母は喜ばなかった。それどころか悲しそうな顔さえするのだった。

「ごめんね。うれしい気持ちになれなくて。何をしても楽しくないの」

 そんなことを母親に言われたら、子どもは絶望するしかない。家事を手伝っても、ふざけて笑わせようとしても無駄だった。あまりに不幸そうな母の様子を見ていると、こっちがパニックを起こしそうになる。実際、そのころわたしはしばしば過呼吸症候群と思われる状態に陥った。突然、心臓の拍動が速くなり、いくら息を吸っても空気が入ってこない。ひどいときには全身が痙攣したようになる。母には告げず、できるだけ隠すようにしていた。そのうち身体が順応したのか、発作は起こらなくなった。

 とりわけ幼いわたしを不安がらせたのは、母親がときどきもらす、「おかあさん、バカになっちゃった」という一言だった。後年になって、物事が頭に入らなくなったり思考が前に進まなくなったりするのは、抑うつ状態で普通にあらわれる症状であることを知った。しかし当時はそんなことはわからないから、自分もいずれバカになるのではないかと怯えた。この場合の「バカ」は文字通り痴呆状態で、字が読めなくなったり計算ができなくなったりすることを意味した。

 家はストレスに満ちた場所でしかなかった。口を開けば「苦しい」とか「辛い」とか言っている母親と二人きりでいる状況は、子どもを過呼吸症候群に陥らせるほど危険な場所だった。自分は何ものにも護られていないと感じた。無防備そのものだ。なにしろ常に母親という身近な脅威に曝されているのだから。小学校はわたしにとって安息の地であり、ときにはシェルターですらあった。正門を潜ると安心した。いくら母でも、ここまでは追いかけてこない。

 わたしは母という星のまわりを回りつづける小惑星みたいなものだった。その引力圏から抜け出すのは容易ではない。母はけっしてわたしを放そうとしなかった。おそらく自分の寂しさを息子によって紛らわせようとしていたのだろう。どうやって抜け出すか? どうやって生き延びるか? そんなことばかりを考えていた。

 中学生になってからは、家のなかで暗い顔ばかりしている母親にたいして、ときどき強い憎しみをおぼえるようになった。そんなに苦しいのなら一思いに殺してやろうか。もちろん頭のなかで空想するだけで、口に出して言ったことはない。一時的な発作みたいなものだったのだろう。激昂はすぐに収まった。本当は怖かったのかもしれない。自分も母親のようになってしまうことが。「遺伝」という言葉は知っていたし、正確な意味を理解していなくても、子が親に似ているのは自然なことに思えた。なにしろ母親の胎内で十ヵ月も過ごして生まれてくるのだから。

 しばらく前に、女優のアンジェリーナ・ジョリーががんになるリスクの高い臓器を予防的に切除したというニュースに接したとき、子どものころに感じた恐怖が甦ってきた。彼女の母親は乳がんのために五十代の若さで命を落としている。遺伝子検査を受けると、自分も発がん性の高い遺伝子を受け継いでいることがわかった。その後、彼女は同じようにリスクを抱えた卵巣と卵管の摘出手術も受ける。

 わたしも母親から受け継いだものを恐れていた。自分のなかには何か制御しがたいものが埋まっている。それは時限爆弾のように休みなく時を刻みつづけ、あるとき予告もなしに爆発してしまう。身体という宇宙の内奥で超新星爆発みたいなことが起こり、突如出現したブラックホールのなかに落ち込んでしまう。できればわたしもアンジェリーナのようにリスクの源を除去してしまいたかった。しかしどこに何が仕掛けられているのかわからない。いったいどの部位を切除し、何を摘出すればいいのだろう? 唯一確実な方法は、自分をまるごと除去してしまうことだ。まさに生誕の災厄である。

 逃げるようにして音楽にのめり込んだ。もちろんクラシックなどではない。モーツァルトやショパンでは災厄からは逃げられない。誕生日に買ってもらったギターをアンプにつなぎ、エフェクターで思い切り音を歪ませて大音量でかき鳴らした。母は耳を覆って泣きわめいたけれど知ったことではない。こっちはこっちで必死だったのだ。自分のなかに、絶えず得体の知れない生き物の存在を感じた。それが突然暴れ出しそうで恐ろしかった。不安や恐怖と闘いながら、爆音のなかで、なんとか精神のバランスを保っていた。感動もなく、安堵も希望もなかったけれど、ギターをかき鳴らしているあいだは、暴発しそうな自分をとりあえず封じ込めておくことができた。

 一応、進学校とされる高校へ進んだものの、勉強そっちのけでバンド活動にのめり込んだ。当時のロック・ミュージックのなかから、青臭い情念を仮託できそうなバンドを選んでコピーに励んだ。陰鬱なメロディと暴力的なサウンドの曲ばかりだった。『マクベス』の台詞ではないが、しょせん人生は歩く影、響きと怒りに満ちている。わたしは自分が破裂し、ぶっ倒れてしまうまでギターをかき鳴らしたかった。咽喉を嗄らして叫びたかった。円周のない、中心だけの音楽をやりたかった。

 おかげで学力は停滞し、とくに数学は完全にわからなくなっていた。浪人はしたくなかったので、合格できそうな大学のなかでも、数学なしで受験できるところを探した。文学部を選んだのは漠然と小説を書いてみたいと思ったからだ。大学に入るとともにバンド熱は嘘みたいに冷めた。きっと麻疹みたいなものだったのだろう。その後もロックやジャズを中心に音楽は聴きつづけたけれど、楽器を手にすることはなかった。

 かわりに小説らしきものを書きはじめていた。自宅の勉強部屋で、ほとんど巣ごもり状態になって書いた。黎明期のデスクトップ型パソコンを使い、ローマ字入力のキーを一日中叩きつづけた。わたしのなかには書きたいことが山ほどあった。それがパニックを起こしたネズミみたいに出口を求めてひしめき合っていた。ほとばしり出る言葉を文章にしていけば、世間を刮目させる作品が生まれると信じていた。

 まったくの見込み違いだった。誤解も甚だしい。はじめはうまくいっているように思えた。これこそ自分が求めていたものだ。バカみたいにギターをかき鳴らし、わめき散らしているのとは違う。理性的な創作であり創造である。ほどなくあることに気づいた。どれも同じではないか。一年ほどのあいだに書き溜めた十篇ほどの小説が、見事にみんな同じ顔つきをしている。あたかも一つの主題を何通りにも変奏したみたいに。

 意図的に登場人物や舞台設定を変えてみたけれど、何をどう書いても、わたしの耳には同じメロディ、同じ和音、同じ音色しか聞こえなかった。変奏曲にすらなっていない。単純な四つのコードからなる曲を、リズムやテンポを変えて奏でているようなものだった。どうあがいても退屈な循環コードから自由になることができない。無理に逃れようとすると、物語は道筋を見失ってばらばらになってしまう。

 何事にも向き不向きがあるのだろう。いまでは冷静にそう振り返ることができる。しかし当時のわたしにとって、それは致命的なことだった。未来から門前払いをくわせられたようなものである。生まれつきの音痴が声楽家になるのは無理だろう。創作にかんして、わたしは完全に音痴だった。一つの単純なメロディしか歌えなかった。自分を託せるものを見つけたと思ったら、たちまち挫折し、したたかに絶望した。この絶望は誰のせいにもできないだけに、余計に苦しかった。

 母親から受け継いだものはこれだったのかと思った。不幸な運命をもたらす忌まわしい遺伝子。どう抗ったところで抜け出せない宿命を背負っているのなら、いっそ死んでしまおうと思った。しかし思うことと実行することは天と地ほども違う。天と地のあいだで逡巡しているあいだに、母のほうが先にやってしまった。こうなると自殺は選択外だ。母親を模倣することには耐えられない。結果的に、母は自分の命を犠牲にして息子を救ったと言えるかもしれない。

 途方に暮れるようにして旅に出た。旅先で彼女と出会った。そのときから死ぬ理由はなくなった。死は砂丘の上で一瞬にして蒸発してしまった。何もかもが過去になった。それまでに起こったことは、みんな別の惑星の出来事のように思えた。はじめて自分が受け入れられていると感じた。小春日和の砂丘で出会った一人の人間が、わたしに生きる意味を与えてくれた。不幸な母親から生まれた子どもは、かならずしも母親と同じように不幸になるわけではない。悲劇的な物語に用意されたハッピーエンド、それがわたしだった。