蒼い狼と薄紅色の鹿(10)

創作
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 鳥取から中国山地を抜けて岡山まで出て新幹線で神戸に戻る、というのが彼女の予定している帰路だった。少しでも長く一緒にいたかったので、わたしも岡山まで同じルートで行くことにした。山間を走るローカル線に揺られているうちに天気が崩れ、日が沈むころには雨が降りはじめた。雨脚が強くなると、雨は車窓にも降りかかった。津山を過ぎるあたりから、外はほとんど真っ暗になった。寂しい山間の町の明りを遠くに見ながら列車は進んだ。

 乗り降りする客も少ないので、四人掛けの座席に向かい合って坐った。膝が触れ合う位置にいたけれど、彼女に触れることはなかった。二人とも口を噤んだまま、雨に濡れる暗い窓を眺めつづけた。どう見てもわびしい風景だったが、わたしは長く自分を取り巻いていた荒涼が、いつのまにか消えていることに気づいた。かわって心地よいものに包まれていた。世界は柔らかく温かみのあるものになっていた。抑うつ症の母親と暮らした日々は降りつづく雨とともに暗い夜の闇に沈み込み、その死でさえも、いまでは遠い街の景色のように眺められた。

 少し時間があったので、駅内のうらびれた喫茶店に入った。客はわたしたちだけだった。店をやっているくたびれた中年の婦人が注文を訊きにきた。午後から二人ともコーヒーばかり飲んでいる。わたしはコーヒーのかわりに瓶ビールを注文した。

「お酒、よく飲むの?」ビールを注ぐ手つきを見て彼女がたずねた。
「ときどきビールくらいは」

 酒にかんしては、まだそんなかわいい時期だった。彼女のことはたずねなかった。軽い禁忌の気持ちがはたらいていたのかもしれない。多くを知るのはまだ早い。あまり見つめると、彼女はシャボン玉のように弾けて消えてしまいそうな気がした。

「手紙を書いてもいいかな」

 彼女は小さくうなずいて、紙ナプキンにボールペンで住所を書いてくれた。アパート住まいらしかった。グラスについた水滴で少しインクの滲んだ紙ナプキンを、わたしは大切にポケットにしまった。自分の住所も書いて渡した。親の家に住んでいることにいわれのない負い目を感じたが、もちろん彼女は何も言わなかった。

 ぎりぎりの時間になってから、店を出て改札へ向かった。雨はもはや取り返しがつかないくらい激しく降っていた。雨に濡れたプラットフォームが、白い蛍光灯の明りを反射して光っている。時間が遅いこともあって、列車を待っている客の姿はほとんどない。発車時刻は彼女のほうが三十分ほど早かった。行先は神戸だ。こちらは福岡なので、それぞれ上りと下りの列車に乗らなければならない。

「また会える?」わたしはたずねた。
「遊びにいらっしゃいよ」彼女は言った。
「神戸に?」
「いい街よ」

 それまで神戸には行ったことがなかったけれど、彼女が住んでいる街ならいいところに違いないと思った。

「手紙を書くよ。帰ったらすぐに」

 わたしたちは互いの手を握り合って、雨の降り込む閑散としたプラットフォームに立っていた。列車が入ってくるというアナウンスがあったとき、どちらからともなく相手を抱き寄せた。不思議な既視感にとらわれていた。同じことが以前にもあったような気がした。しかも一度ではなく、何度もあった気がした。

 降りしきる雨のなかを列車がプラットフォームに入ってきた。車輪が完全に止まりドアが開くまで、わたしたちはずっと抱き合っていた。それは永遠につづくように思えた。