蒼い狼と薄紅色の鹿(22)

創作
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 レシピには弱火でじっくり三十分くらい炒めると書いてある。なんと、三分ではなくて三十分である! 誰がそんな悠長なことをやっていられるものか。残された人生の時間は限られている。開けたワインはすぐにグラスに注いで飲むべきである。だいたいオープナーを使ってコルクを開けることさえ、最近は面倒くさくなっているくらいだ。

 まず温めたフライパンにオリーブ・オイルとニンニク、赤トウガラシを入れる。ニンニクがきつね色になったところで、みじん切りにした玉ねぎを加える。少し焦げ目がついたらシメジとポルチーニを加えて、さらに軽く炒める。ツナ、ケッパー、トマトを加えて煮詰め、塩と黒コショウで味を調える。最後にアルデンテに茹でたパスタを加えれば出来上がり。皿に盛りパセリを振ってテーブルに運んだ。

 二人とも音楽にはあまり興味はなさそうだったが、こちらは音楽なしには夜も日も明けない。いまは無難なところでショパンのマズルカをかけていた。
「味はどうかね?」
「おいしいです」
「それは結構」わたしは酒の用意をしながら、「ところできみたちは、おいしさの起源について考えたことがあるかな」とたずねた。
 藤井茜が皿の向こうからいささか閉口気味の顔を上げた。
「先生って、いつもそういうことを考えているんですか」
「まあね」と言って、二つのグラスにとりあえず「濃いめ」のレモン・サワーを注いだ。レッド・アイは頃合いを見てつくってやることにしよう。
 わたしのほうは赤ワインだ。ボルドー・タイプの安いイタリア・ワインで、1500円ほどだった。これならブーケを嗅いだりグラスをくるくるまわしたりする必要はない。

「そもそも動物たちにとっておいしいという感覚は不要なはずだ」ワインを一口飲んでから、おもむろに自説の開陳にとりかかった。「ライオンがシマウマを見つけて、あいつうまいかなあなどと考えていたら餌に逃げられてしまう。うまいとかおいしいとかいう感覚は、おそらく人間が独自に発明したものだろう。草原を歩きまわっていたおとうさんの話はしたよね?」
「聞いた気がします」藤井茜はフォークの先にパスタを巻き取りながらどうでもよさそうに答えた。
「持ち帰った木の実か果物かを奥さんや子どもたちが食べてにっこり笑った。それを見ておとうさんも思わずにっこり笑った。きっとミラー・ニューロンか何かが反応したんだろう。このときおとうさんのなかに原初の感覚が生まれた。これが美味しさの起源だ」

 一杯目はあっという間に空になった。ちょっとペースが速すぎる気もしたが、躊躇なく二杯目を注いだ。二人はレモン・サワーをそれぞれのペースで飲んでいる。

「最近の研究によれば、八万年ほど前にアフリカを出た小さなグループが、いま地球上に棲息している全人類のルーツになったらしい」ワインの酔いが話を加速させた。「多くの遺跡や壁画などから、このときアフリカを出てアジアやヨーロッパへ進出した連中は、歌い踊る人たちだったことがわかっている。ということは、すでに彼らはうれしいという感情をもっていたのだろう。また埋葬の痕跡から、初期人類の心には悲しみやそれに類する感情が芽生えていたことがうかがえる。なぜだろう? 不思議なことじゃないか」
 彼らはとくに不思議とも思っていない様子だった。非難するつもりはない。有り余るリビドーに翻弄される若い者たちには、他に考えることがたくさんあるのだろう。
「人間が通常の動物なら悲しいという感情は必要なかったはずだ」すでにエロスから遠く、リビドーの大半はタナトスとは言わないまでも思索に向けられがちなわたしはつづけた。「死んだ仲間の死体は、そのままほったらかしておけばよかった。ところがどうしたわけか、われわれの祖先は仲間の死骸を朽ち果てるにまかせようとしなかった。それは彼らが自分だけでは完結せずに、自分をはみ出す生き物だったからだ。ともに生きてきた者が、ある朝動かなくなっている。手を触れると冷たい。その冷たさを悲しいと感じた。昨日まで一緒に駆けたり笑ったりしていた相手の唐突な静まりを寂しいと感じた。こうして人間ははじまったのだ」

 さらにワインを飲んだ。

「われわれがものを食べるのは、たんに空腹を満たすためだけではない。もっと別のものも満たしている。その証拠に、食べることにはおいしいとかおいしくないとか、余分なものがくっついてくる。どうしてそんな面倒なことになっているのか? わかっているのはスマホを相手に一人で食べるよりも、気の合う仲間や恋人と一緒に食べるほうがおいしいということだ」
 喋りながら自分の普段の食生活が、まさにコンピュータやスマホを相手に一人で食べる味気ないものであることに思い至ったときには、さすがに胸にこみ上げてくるものがあった。
「何が言いたいかというとだね」気を取り直してつづけた。「喜怒哀楽をはじめとする人間の感情は、みんな他者に由来しているってことだ。そして幸不幸は、その人の感情生活と緊密に結びついている。ということは、幸せもまた他者に由来しているってことになる。人間は自分で自分を幸せにすることはできない。超大金持ちがみんな空疎で退屈そうな顔をしているのはそのためだ」

 わたしはグラスに残っていたワインを飲み干した。このままでは破滅だ。いくら残された人生の時間が短いといっても、こんなペースで飲んでいたら早晩依存症になって、さらに深刻な事態を招くことになるのは避けられない。これからワインは3000円以上のものにしよう。手軽なスクリューはやめて、コルクの栓をオープナーで開けるタイプのものにしよう。