蒼い狼と薄紅色の鹿(13)

創作
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 あれから四半世紀のときが流れた。そのころは二十五年後の自分など考えてみることもなかった。けれども歳月は流れ、わたしは律儀に歳をとった。一方の彼女は十九歳のまま、薄紅色の鹿のままで、ブラウスはいまも雨に濡れて透き通っている。この写真のなかで生きたかった。写真のなかの自分を生きたかった。蒼い狼のままの、永遠の十九歳を生きたかった。

 断ち切るようにして写真を片付けると、急に酒が飲みたくなった。禁断症状にでも襲われたみたいに、アルコールへの欲求は強くて性急だった。時計を見ると、午前零時をまわっている。いつの間にこんなに時間が経ってしまったのだろう。わたしのなかではせいぜい数十分の感覚しかなかった。実際には三時間以上も経っている。まるで催眠術にでもかかっていたかのようだ。そろそろ寝る時間だが、すっかり頭がさえて眠れそうにない。

 ボトルに半分ほど残っていたウイスキーをグラスに注ぎ、氷を多めに入れた。わたしは大酒飲みではないつもりだが、ときどき無性に飲みたくなる。飲んでいけないということはないだろう。人生ではしばしばアルコールを必要とするときがある。気持ちを高揚させるために、鬱屈した気分を紛らわすために、波立った心を落ち着かせるために。人生を忘れ、自分を忘れるために。

 大学院生のころは研究室に安物のウイスキーを常備していた。夜遅くまで本を読んだり、批評ともエッセーともつかないものを書き散らしたりするときなど、机の引き出しからボトルを取り出してはちびちびすすったものだ。これは仕事や研究ではなく、夜の自由な時間だと思っていたので、背徳的な気分になることはなかった。普通の人が家でテレビを観たり音楽を聴いたりしている時間に、わたしなりのやり方で自分を寛がせている。誰からも文句を言われる筋合いはない。

 いまこれをやると、さすがにまずいだろう。学生たちにたいしては、学内での飲酒を禁ずるというお触れが出ている。教員はとくに何も言われていないが、学生に準ずべしというのが不文律になっている。だから研究室には酒瓶を置かないことにしている。休み時間にちょっと一杯、という誘惑を退ける自信がないせいもあるが、無理して大学で飲む必要もないからだ。大学院時代に研究室で飲んでいたのは、たんに居心地がよかったからだ。あのころはまだ父の家に住んでいた。

 いまは酒が飲みたくなれば、少し早めに大学を抜け出せばいいだけの話だ。自宅のマンションに戻って風呂にでも入り、身も心もリフレッシュしてからゆっくり飲みはじめる。今日は途中でスーパーに立ち寄り、焼きビーフンとスモーク・サーモンとサラダを買った。赤ワイン二杯で手早く夕食を済ませると、ショパンのノクターンを小さな音で流しながら本を読みはじめた。読書のほうはいくらも進まず、いままたウイスキーを飲んでいる。

 ゆっくり飲んだつもりなのに、グラスのなかはあっというまに氷だけになっていた。自分ではそう思っていなくても、他人から見れば充分に大酒飲みかもしれない。新しい氷とウイスキーを入れ、今度はもっと時間をかけて飲んだ。シングル・モルトのスコッチ・ウイスキーだった。おかげで気持ちのささくれは修復され、二杯目が空になるころには、心は赤ん坊の皮膚のように滑らかになっていた。妙に浮き上がった気分で、久しぶりにアダルト・サイトを閲覧してみることにした。

 この惑星のモラルはいまや地に落ちている。インターネットはヘイトとトラッシュとセクシュアリティに溢れている。おかげでわれわれの人生にヴァギナというものがあることを再発見した。正確な発音はヴァジャイナ。昨今はウイミンズ・セクシュアル・オーガンというらしい。男のほうはメイル・オーガン。ペニスは下品とされる。ディックなんて人前ではけっして使っちゃいけない、とアメリカから来ている同僚の英語教師は言っていた。リチャードを迂闊に愛称で呼べないということだ。

 まだ十代と思えるような若い娘たちが嬉々として大股開きして、見せなくてもいいところを見せていた。わたしはコクトーの小説のことを思い出し、いつか文芸創作の授業で取り上げようかとちらりと考えたが、誰も興味をもたないだろうと思ってやめた。いったいなんのために、彼女たちはこんなことをしているのだろう? カネのためか? そんなにカネが欲しいのだろうか。

 いまの若い世代の道徳観念を、わたしはそれほど信頼しているわけではない。というか、まったく信用していない。この社会に暮らす人々の善悪や公正不正の感覚は、老若男女を問わず年単位で劣化している。二十歳かそこらの連中にとって、「道徳」や「倫理」という言葉はもはや死語に等しいだろう。だからといってAVに出演するのは短慮に過ぎるのではないか。そもそもインターネットというのは公共の場ではないか。いわばグローバルな公道である。こうした映像を流すことは公然わいせつにあたる、と言いながら見てしまうんだからしょうがないな。

 パソコン上で気前よくディスプレイされるセクシュアル・オーガンは、ちっともセクシュアルではなかった。ただの割れ目であり器官に過ぎない。きれいに毛が剃られたものは見ていて痛々しかった。ドストエフスキーならちょっとした短編か、長編に挿入するエピソードの一つもものするかもしれないが、小才すら持ち合わせない者としては、ただ荒涼とした寂寥感をおぼえるだけだ。

 わたしのオーガンは最後まで勃起も投票もしなかった。虚しさと孤独感が一層強まった。完全に逆効果だ。いったい誰が、なんの目的でこんなものを見ているのだろう。無数のドットを眺めて何が面白いのか。これなら酒を飲んで寝てしまったほうがましだ。うんざりしてサイトを閉じた。

 結局、一つのことが明らかになった。わたしはAVにたいして不感症になりはじめているらしい。以前はそんなことはなかった。しかるべき画像を目にすれば、きちんとエレクションしていた。少し早すぎる気もするが、そういう歳なのかもしれない。

 性をめぐる問題にかんしては近年、大学側も非常にデリケートになっている。教員は性的多様性をテーマにした講義を受けることを強く勧められ、不承不承に受けたことがある。ジェンダーがないと感じる人はアジェンダ―、性的欲求をもたない人はアセクシュアル、両性の性自認をもつ人はバイジェンダー、複数の性役割を生きる人はトゥースピリット……まだいくらでも出てくるが、それらはたんに言葉だけの知識に過ぎない。いわば職業上のテクニカルタームで、クラスにトランスジェンダーの子がいれば、教員としてマニュアルに従って対処するまでのことだ。

 わたしは自分をアセクシュアル、他者に性的に惹かれない人ではないかと疑いはじめている。生まれつきそうだったわけではない。恋愛感情とは無縁の、いわゆるアロマンティックな人生を長く歩きつづけてきた結果、いつのまにか健康な性欲まで消えってしまったのだ。寂しいとも残念だとも思わなかった。むしろさっぱりした気分だった。若い女のセクシュアル・オーガンは、もはやわたしにとってシーチキンの缶詰と変わらない。