第1話 「いちねんせい」①
前から気になっている谷川俊太郎の詩に「ぱん」という作品がある。1988年に刊行された『いちねんせい』という詩集に入っている。このとき作者は56~57歳。50代半ばで「いちねんせい」。いいなあ。清々しい気持ちで読んでみよう。
ふんわり ふくらんでいます
そとはちゃいろ なかはしろ
いいにおいです わたしは ぱんです
むかし わたしは こむぎでした
おひさまが かがやいていました
あおぞらが ひろがっていました
そよかぜが ふいていました
ばたーを ぬってください
はちみつを つけてください
わたしを のこさず たべてください
わたしは ぱんです
誇らしげに自らの出自を語ってきたパンが、最後に食べられる幸せについて語る。「ばたーを ぬってください/はちみつを つけてください」と食べ方の指南があり、「わたしを のこさず たべてください」という祈りに近い願いの一行が来て、「わたしは ぱんです」と宣明される。欠如でも過剰でもなく凛としている。だから食べられる幸せの向こうに、食べる者たちの幸せそうな顔が浮かぶ。食べることと食べられることが一つになって、幸福な音色を奏でている。
なぜ、こんなことが可能なのだろう? 難しく言えば、いくらでも難しく言えそうだけれど、まずはこの詩を読んで「いいな」と感じる。「いいな」と感じることが重要だと思う。「自己犠牲」という言葉は浮かばない。「食物連鎖」ということでもない気がする。倫理や条理・非条理は漂白されている。「いちねんせい」の思考と感性によって超えられている。
「いちねんせい」とは何か? それはぼくたちが自己と他者、食べるものと食べられるもの、さらに言えば「男と女」に分かたれる前の、幸福なエロスの場所ではないだろうか。
このエロスの場所には傾斜がない。どちらかがどちらかに傾斜するという関係ではない。食べるものと食べられるもののあいだには遡行不可能な角度がついている。男と女のあいだも微妙に傾斜していて、取り替えることが難しい。そういう角度や傾斜が生じる以前の場所を、とりあえず「エロス」と呼んでみよう。ギリシア神話の愛の神が「いちねんせい」のなかに降り立つ。そんなふうにして「ぱん」という詩は出来上がっている。
食べるものと食べられるものも、男と女も、同一性の意識によって統覚されている。同一性の意識にとらわれたぼくたちは、食べることと食べられることが一体となった幸福感を生きることができない。関係が傾いているから、どうしても収奪になったり侵犯になったりする。取り返しがつかない。「いちねんせい」には、まだ同一性の意識が芽生えていない。食べることと食べられることは自在に変換できる。食べることは食べられることであり、食べるものは食べられるものである。この融通無碍が「いちねんせい」の幸福感の源泉になっている。
この変換の自在さは宮沢賢治の作品の大きな特徴でもある。たとえば「青森挽歌」は、「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車のまどはみんな水族館の窓になる」とはじまる。このとき詩人は汽車に乗っているのだけれど、同時にその汽車を外から見ている。『銀河鉄道の夜』では、ケンタウスル祭の夜にジョバンニは黒い丘の上で、「銀河ステーション、銀河ステーション」という不思議な声を聞く。
気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、ジョバンニの乗ってゐる小さな列車が走りつづけてゐたのでした。
ここでは丘の上にいたジョバンニが、いつのまにか列車の乗客になっている。内から外へ、外から内へ。賢治のなかで内部と外部はなだらかに順接している。ぼくたちは無意識に、この場面を逆説の接続詞や接続助詞を補って読んでしまう。ジョバンニは丘の上にいた。「ところが」いつのまにか列車の乗客になっている、というふうに。ところが賢治のなかでは、ここは順接なのである。ジョバンニは丘の上にいた。「それで」いつのまにか列車の乗客になっていた。この詩人は生涯にわたって「いちねんせい」を生きたのかもしれない。