第2話 「いちねんせい」②
谷川俊太郎の「ぱん」という詩を流れている幸福な音色は、しかし一瞬にして人々の断末魔の声に暗転しうるものだ。食物連鎖といえば聞こえはいいけれど、要するに生存競争である。万物は食べるものと食べられるものに引き裂かれている。場面を変えれば人が人を食べることであり、そうした世界のありようは昔も今も変わらない。いまラッカやパレスチナで起こっていることは、それがわかりやすく可視化されているだけで、起こっていることの本質はグローバルに電脳化されたぼくたちの社会でも同じだろう。「偏在する地獄」と見田宗介さんは書いている(『宮沢賢治』)。食物連鎖を軸とする生命世界の相克を、賢治は偏在する地獄と見ていた。「賢治の時代の東北農村においても、人間が人間を食うという事は、たんなる隠喩のたぐいではなく、ほんの数世代前まではありえた事実として、語り伝えられ、また生まなましく感受されてもきたことであったにちがいない」(前掲書)。
そうした「偏在する地獄」をモチーフとした詩を、賢治はかなりの数残している。だが、それらは生前に刊行された唯一の詩集である『春と修羅』には入っていない。作者自身が周到に取り除いているようにも見える。賢治が見ていた「偏在する地獄」をうかがい知るために、ぼくたちは未刊の詩稿や異稿にあたってみなければならない。たとえば『春と修羅 第二集』に収録するつもりだったらしい「業の花びら」の異稿として、1924年10月5日の日付をもつ、こんな詩稿が残されている。
夜の湿気が風とさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくろく
空には暗い業の花びらがいっぱいで
わたくしは神々の名を録したことから
はげしく寒さにふるえてゐる
ああ誰か来てわたくしに云へ
億の巨匠が並んで生れ
しかも互ひに相犯さない
明るい世界はかならず来ると
どこかでさぎが鳴いてゐる
……遠くでさぎがないてゐる
夜どほし赤い眼を燃やして
つめたい沼に立ち通すのか……
また『春と修羅 第三集』のために準備稿とも言える、「詩ノート」と仮称されるノート用紙に記された一連の詩稿のなかには、1927年8月になったと思われるつぎのような作品が見える。
何をやっても間に合はない
世界ぜんたい間に合はない
その親愛な仲間のひとリ
また稲びかり
雑誌を読んで兎を飼って
その兎の眼が赤くうるんで
草もたべれば小鳥みたいに啼きもする
何といふ北の暗さだ
また一ぺんに叩くのだらう
そうしてそれも間に合わない
(中略)
世界ぜんたい何をやっても間に合はない
その親愛な近代文明と新たな文化の過渡期のひとよ
ほとんどぼくたち生きている世界と変わらない、この過酷な現実のなかに、宮沢賢治という「いちねんせい」が半ば途方に暮れてたたずんでいる。(2017年12月12日)