あの日のジョブズは(3)

あの日のジョブズは
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3 とりあえずのバイオグラフィー(前半)

 というわけで、最初にジョブズの簡単なバイオグラフィーを見ておこう。基本的にはオフィシャルな自伝とされているウォルター・アイザックソンの『スティーブ・ジョブズ』に依り、さらに長年にわたりジョブズの取材をしてきたジャーナリスト、ブレントン・シュレンダーの手によるもう一冊の自伝(やはり『スティーブ・ジョブズ』というタイトル)も参照しながらまとめてみよう。いずれも翻訳は井口耕二さんである。
 スティーブ・ポール・ジョブズは1955年2月24日、サンフランシスコの病院で生を享けた。母親のジョアン・シーブルはウィスコンシン州の田舎町の出身で、ドイツ系移民の娘だった。父親のアブドゥルファー・ジョン・ジャンダーはシリアから来たイスラム教徒で、ウィスコンシン大学の大学院生だったときにジョアンと知り合う。やがてジョアンは妊娠していたけれど、結婚も中絶も難しいことから養子に出される。
 養父のポール・ジョブズはウィスコンシン州ジャーマンタウンの酪農家に生まれた。もともと機械が好きだったようで、ジョブズが生まれたころは中古車をレストアして販売する仕事をしていた。機械工だった。ニュージャージー州生まれのクララ・ハゴピアンはアルメニア移民の娘で、1946年にポールと知り合う。結婚したあとも長く子どもに恵まれなかった二人は、1955年ごろには養子を迎えることを考えるようになっていた。
 実の両親によって捨てられ、養父母によって選ばれた。自分は特別である。このような観念はジョブズの血肉となり、自分自身のとらえ方に大きな影響を与えた。長年の仕事仲間の一人は、「何かを作るとき、すべてをコントロールしようとするのは彼の個性そのもので、それは生まれたときに捨てられたという事実からくるものだと思う。環境をコントロールしたいと考えるし、製品は自分の延長だと感じているようだ」と語っている。また学生時代からの友人は、ジョブズがしばしば捨てられたことの辛さを口にしたと証言している。本人はどうかというと、養父母について「二人は1000パーセント、ぼくの両親だ」と強調する一方、実の両親のことは「ぼくを生んだ精子銀行と卵子銀行さ」とすげない。
 サンフランシスコ郊外で育ったジョブズは、やがて近くの小学校へ通いはじめる。悪戯好きで頭のいい子どもだったようだ。同時に、感受性が豊かでありながら無神経、短気で怒りっぽい性格なのに超然とした面も持ち合わせている、といった後年のジョブズを特徴づけるキャラクターも現れはじめていた。そういう子どもにとって、学校は居心地のいい場所であるはずがない。いじめられることの多かったジョブズは両親に「もっといい学校に行かせてくれ」と頼んだ。そのころジョブズ家はかつかつの生活をしていたが、両親は無理をしてサウス・ロス・アルトスの新しい家に引っ越す。ジョブズがスティーブ・ウォズニアックととものアップルを創業したといいう伝説のガレージが残る、「クリストド・ライブ2066番地」の家である。
 中学を卒業したジョブズはホームステッド・ハイスクールに進学する。ヒューレット・パッカード(HP)の工場で働きながら、マリファナをはじめたり、LSDやハシシを試したり、断眠による幻覚を試したりした。このころ後にアップルを共同で創業するスティーブ・ウォズニアックと出会っている。5歳上のウォズニアックはエレクトロニクスについてはジョブズなど足元にも及ばないほど詳しかった。またウォズニアックを通してディランの音楽とも出会っている。
 高校を卒業するころ、ジョブズは一学年下のクリスアン・ブレナンと付き合いはじめた。やがて二人はロス・アルウトス山の小屋で一緒に暮らしはじめる。1972年の夏に高校を卒業したジョブズは、オレゴン州ポートランドにあるリード・カレッジに入学する。ここはサイケデリックの導師、ティモシー・リアリーが学食にあぐらをかき、「ターン・オン(ドラッグで)、チューン・イン(意識を解放して)、ドロップ・アウト(社会に背を向けよ)」と訓戒を垂れるようなところだった。そんな時代の空気もあって、ジョブズや精神世界や悟りにかんする本を読み漁るようになる。また極端な菜食主義を実践しはじめたのもこのころだ。
 一方でジョブズは、必修単位を取るために興味のない授業を受けなければならない大学に嫌気がさしはじめていた。小学生のころから彼には、自分のやりたいこと以外はやらないという頑固なところがあった。結局、大学は中退したかたちになり、キャンパスの片隅でボヘミアン的な生活を送りながら、面白そうな授業にだけ出るという、見方によってはジョブズらしい学生時代を過ごすことになる。そのころ彼が興味をもったものの一つがカリグラフィーだった。この経験は後に、ジョブズが作る製品のデザインや外観、コンピュータに搭載されるフォントなどに活かさることになる。
 ジョブズの大学生活は18ヵ月で終止符を打たれる。1974年2月、ロス・アルトスの実家に戻った彼は、「ポン」というビデオ・ゲームをヒットさせていたアタリ社に潜り込む。この就職はインドへ行くための資金稼ぎが目的だったようだ。インドから帰ったジョブズは、日本人の老師について熱心に禅を学びはじめる。本気で出家を考えるほどだったという。アーサー・ヤノフの「原初療法(primal therapy)」まで試したというのは、ジョン・レノンの影響かもしれない。
 あとであらためて触れるけれど、ジョブズとレノンは生い立ちからしてよく似ている。レノンの父親は彼が生まれてすぐに蒸発、母親は別の男と暮らしはじめ、幼いレノンは伯母のところへ預けられる。実母のジュリアは、レノンが17歳のときに酒に酔った非番の警官が運転する車にはねられて死亡している。のちに彼は「ぼくは母を二度失った」と語っている。「一度目は叔母に預けられたとき。二度目は母が死んでしまったとき」。ジョブズと同じような心の傷を抱えていたレノンは、ヤノフの精神療法によって蘇った幼少期の体験をもとに「マザー(Mother)」という曲をつくっている。この曲を一時期、ジョブズはよく聴いていたという。過剰な自我を持て余す青年の姿が目に浮かぶ。

 スティーブ・ウォズニアックとの交流はつづいていた。HP社のエンジニアだったウォズは、プログラミングなどでしばしばジョブズに力を貸していた。個人用エレクトロニクス機器の情報を共有するためにつくられたホームブリュー・コンピュータ・クラブの例会にも、ジョブズはウォズと一緒に参加している。この例会がきっかけで、ウォズはのちに「アップルⅠ」と呼ばれることになる剥き出しのワンボード・マイコンを設計する。これをビジネスに結び付けたジョブズは「いける」と思ったのだろう。ウォズニアックと二人で自分たちのコンピュータ会社を立ち上げることを決意した。アップル・コンピュータである。1976年のことだった。
 翌年には、パーソナル・コンピュータの歴史を変えたとも言われるアップルⅡを発表し、大ヒットさせる。しかし社内ではしだいに専横がひどくなり、スタッフにもつらく当たることが多かったという。ウォズニアックもジョブズのやり方には疑問を感じ、最終的にアップルを離れることになる。衛生上の問題もあった。絶対菜食主義ならデオドラントは不要で、定期的にシャワーを浴びる必要もないと信じていたらしい。おかしな臭いを発するようなやつを会社のトップに据えておくわけにはいかないということで、外部からマイク・スコットが社長に迎えられる。
 それでも会社はうまくいっていた。アップルⅡはあちこちで絶賛され、パーソナル・コンピュータとしては一人勝ちの状態だった。その後、16年間にさまざまなモデルが総計600万台も販売されることになる。利益を生む会社とみなされたアップルには有力な投資家が参画し、取締役などに就任する。これがのちのジョブズ追放劇につながっていく。

 1980年12月、アップルは株式を公開する。1977年に5309ドルだった会社が、4年足らずのあいだに17億9000万ドルの市場価値をもつようになっていた。ジョブズは25歳にして2億5600万ドルの個人資産を手にした。このアップルIPOに際して、大学時代からの友人でインドにも一緒に行き、ガレージで起業したときからの仕事仲間であるダン・コトケに、一切のストックオプションを与えなかったことは、ジョブズの非情さを物語るエピソードとして語り草になっている。
 高校時代の恋人、クリスアン・ブレナンとのあいだに生まれた娘リサを、自分の娘として認知しなかった話も有名だ。クリスアンが妊娠したとき自分たちはそんなに親密ではなかった、彼女は他の男とも寝ていたから、というのがジョブズの言い分だ。1978年に女の子が生まれたとき、ジョブズもブレナンも23歳で、ジョブズをもうけたときのジョアン・シーブルとアブドゥルファー・ジャンダーリと同じ年齢だった。
 認知と養育費の支払いに応じないジョブズは、ブレナンとリサに生活保護を支給していたサンマテオ郡から訴えられる。これにたいしてジョブズは弁護士を雇って争い、裁定はDNA鑑定に持ち込まれる。その結果、ジョブズが父親である可能性は94.1%とされるが、それでも本人は「自分が父親でない可能性がかなりある」と取締役会などで主張していたらしい。ブレナンは「養子に出された結果、ジョブズの内面は壊れたガラスがぎっしりという状態になってしまった」と語っている。こうした常軌を逸したジョブズの行動は「現実歪曲フィールド」と呼ばれるようになる。
 アップルの成功に伴いジョブズは有名になっていく。タイム誌などが若手のアントレプレナーとして彼を取り上げる。「実家のガレージで起業」という伝説もこのころつくられたようだ。その一方、社内での確執や軋轢は大きくなっていった。アップルⅡのマニュアルを手掛け、マッキントッシュの名付け親でもあるジェフ・ラスキンのような優秀なエンジニアが、ジョブズとの対立からアップル社を去っていく。この時期のジョブズについては人間的な欠陥が目立つ。友人コトケにストックオプションを与えなかったことや、ブレナンとのあいだに生まれた娘を自分の子どもと認知しなかったこともそうだが、短気で怒りっぽい性格は無用の緊張やいざこざをもたらし、会社のなかにはジョブズのマネージャーとしての能力に疑問をもつ人が増えていく。

 1984年、ジェフ・ラスキンから乗っ取ったプロジェクトによる新製品としてマッキントッシュが発売され、スーパーボールで流された60秒のスポットCM(IBMにたいする敵意をむき出しにした内容で、『ブレードランナー』で大きな成功を収めたばかりのリドリー・スコットが監督を務めた)とともに話題になる。ジョブズはこれまで以上に有名人となり、アンディ・ウォーホルやキース・ヘリングといった現代美術のアーティストたちとの交流も生まれる。
 人格的な問題を抱えながらもアップル社内での立場は強くなった。一方で、自分が率いる開発チームのスタッフを無情に、ときには不公平に解雇することもあった。ジョブズとしては一流のプレイヤーだけをチームに残したいと考えたのだろうが、こうしたやり方は社内でも反感をもたれるようになる。また彼の異常なまでの美的情熱に愛想をつかして会社を辞める人も出てきた。どれほどエネルギーを費やしても、ジョブズの「愚行」を押しとどめるのは容易ではなかった。
 とにかく自分勝手で何をしても許されると考えていたらしい。自分のメルセデスにはナンバー・プレートをつけない。身障者用のパーキングに駐車する。2台分にまたがって止めてしまうこともある。世間一般のルールの自分は従う必要はないと本気で思っていたようだ。こうしたエピソードだけに目をやると、見かけは大人だが頭のなかは完全に子どもである。自分が選んだチームを率いていくことはできるかもしれないが、ビジネスの上で協力関係を築いていこうとする相手には、たんなる「育ちそこない」としか見えない。ジョブズに同行して尻拭いをさせられるスタッフはたまったものではない。
 それでもビジネスがうまくいっているあいだは、取締役たちもジョブズの専横な振舞いに目をつぶっていた。しかし彼が自信をもって世に送り出したマッキントッシュは、最初の発売に伴う興奮が収まると販売が急激に落ち込みはじめる。使いやすいGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)は、マッキントッシュの大きな魅力であるとともに弱点でもあった。大量のメモリーを必要とするために処理速度が遅くなってしまうからだ。静けさを損なうとしてジョブズが冷却用のファンを付けさせなかったことが災いして、動作がおかしくなることあった。肝心のコンピュータとしての限界が知られるにつれて、売れ行きが落ちていくのは当然だった。
 ジョブズのやり方に不満を感じて多くの人がアップルを離れていく。1985年にはとうとう共同創設者のスティーブ・ウォズニアックまで会社を辞める。マッキントッシュの売り上げが期待外れだったこともあり、ジョブズの言動もおかしくなっていく。彼がいては仕事に支障を来すという声が社内で大きくなっていく。取締役会はついにジョブズに会社の経営は無理と判断し、マッキントッシュをはじめとする製品部門から彼を外す決定を下す。
 会長として会社にとどまることはできたが、実権のないポストに就くことよりもジョブズは退社を選ぶ。実質的な追放だった。自分がつくった会社からジョブズは追い出されることになった。

                        Photo©小平尚典