あの日のジョブズは(7)

あの日のジョブズは
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7 神をポケットに入れて

 ジョブズのプレゼンテーションはすでに伝説になっている。製品の売上総額をプレゼンの時間で割った数字から「3分間で100億円を生む」とも言われた。1998年のiMac、2007年のiPhone、翌年のマックブック(Macbook Air)と、いずれも見事なパフォーマンスを披露している。

 スマートで視覚的な演出。自信に溢れた語り口。ときにユーモアを交えながら、カジュアルな服装で友だちみたいに振舞う。いつもユーザーの立場に立って語りかけている。彼の好きな「革命的なユーザー・インターフェイス(Revolutionary UI)」だ。

 常に率直な物言いをする。ときに他社の製品を具体的に名前をあげて攻撃する。彼には攻撃する理由があった。醜いからだ。ジョブズが「ugly」と言うとき、本当に醜い感じが伝わってくる。彼は醜いものを憎む。それは異教徒であり敵なのだ。アップルが送り出す製品は常に「cool」でなければならない。そこで自社製品を差別化する。自分たちが作ったものがいかにクールであるか、説得力のあるパフォーマンスで伝える。

「携帯からボタンを取ってしまって巨大な画面にするんだよ。じゃあ、どうやって操作するんだ? マウスは無理だよ。スタイラスなのかい? ダメだ。誰がスタイラスを欲しがる? すぐなくしてしまうよ。誰もが生まれたときから持っている世界最高のデバイス、そう指を使うんだよ。新しい技術を開発したんだ。名前はマルチ・タッチ」

 ジョブズの一挙手一投足に聴衆は熱狂し、拍手と歓声が上がる。ステージの上でiPhoneを操作して見せるジョブズは、まるで奇蹟を行うイエスのようだ。彼はいま福音を届けにきたのだ。iPhoneという物質的なかたちあるものとして。アップル・ストアは教会か伝道所のようだ。熱狂する聴衆は顧客やユーザーというよりは信者のように見える。

 もともとジョブズのプレゼンには伝道や布教のイメージがある。とくにがんを患ってからの彼には、ぼくたちの知っているイエスのイメージが重なる。イエスが神と人間のあいだを取り持ったように、ジョブズはテクノロジーと人間のあいだを取り持った。どうやって? テクノロジーをパーソナルなものにすることによって。そんなことはかつて誰も考えなかった。IBMに象徴されるテクノロジーは政府や企業のもので、パーソナルとは対極的なものだった。それは巨大で「醜い(ugly)」ものだった。

 このビッグ・ブラザーに齧りかけのリンゴが戦いを挑む。ジョブズにとって「パーソナル」とは何よりも小型化を意味した。コンピュータを持ち運びできるものにする。アップルを立ち上げたときから、彼がそこまで考えていたかどうかはわからない。だが現に彼は持ち運びできるコンピュータを作ってしまった。それはコンピュータからテクノロジーの匂いを消すということだ。いまやほとんどの人は、自分の上着やズボンのポケットに入っているスマホをスーパーコンピュータとは思っていないだろう。ではなんと思っているのか? なんとも思っていない。「何」と意識することさえないところまで、スマホからはテクノロジーの匂いが消えている。

 半導体の集積率が18ヵ月ごとに2倍になるというムーアの法則は、それ自体は量的な変化に過ぎない。この指数関数的な進歩は、だがどこかで質的な変化に転位した。それはコンピュータがテクノロジーから解放されたということであり、テクノロジーがテクノロジーを超越したということだ。考えてみよう。一台のiPhoneを持っているということは、大英博物館やルーブル美術館をポケットに入れて持ち歩いていることに等しいのだ。人類の叡智が、人類史そのものがポケットに入っている。神をポケットサイズにしてしまったと言ってもいい。いまでは誰もが神をポケットに入れて持ち歩いている。これがジョブズの成し遂げたもっとも革新的なことだ。

 新約聖書という書物を媒体としてイエスが行ったことは、神と人間のあいだを取り持ち、両者の関係を親密にしたということである。ジョブズの言葉を使えば、神と人間のあいだの革命的なインターフェイスを実現したわけだ。イエスをとおして人々は気軽にカジュアルに神にアクセスすることができるようになった。一人ひとりの人間が個人として「パーソナル」に神と対峙できるようになった。イエスは神を内面化したと言ってもいい。これは人間の歴史を覆すくらいショッキングなことだった。イエスの2000年後に現れたジョブズは、神を手のひらサイズにしてポケット化してしまった。これまたイエスに勝るとも劣らず衝撃的なことだと言える。

 イエスが生きた時代、神にアクセスできるのは神殿の祭司たちだけだった。彼らは研鑽を積んだ学者や祭司貴族だった。神は人々のものではなかった。旧約聖書に見られるように、それは超越的で絶対的なものだった。シナイ山でモーセがヤハウェから授かる十戒のはじめには、「おまえにはわたし以外に他の神々があってはならぬ」と記されている。以下、禁止と責務の記述が連なる。旧約聖書の神は何よりも厳しい戒律をもたらすものだった。ヨブが身をもって体験したように、神とは無慈悲な存在であり、その暴虐はときに不条理を極めた。だから王のような権力者を必要としたのだろう。絶対的な権力をもった王だけが神の暴虐を鎮めることができた。逆に言えば、神と交信することのできる王のみが、神との秘密の約束をとおして民を平定することができた。

 甲骨文字は3300年ほど前に、いまのところ実在が確認されている中国最古の王朝・殷の時代に生まれたとされている。牛の肩甲骨や亀の甲羅に刻んであることから甲骨文字と呼ばれる。殷の王は神の意志を問うことによって政治を行った。ここでも神にアクセスできるのは王ただ一人である。王は「貞人」と呼ばれる占い師の集団を率いて神の意志を質した。その前に盛大な祭事が催された。祭事には犠牲が捧げられる。犠牲は牛がいいか、羊がいいか、何匹がいいか。この占いの結果を記録したものが甲骨文である。

 遺された甲骨文を見ると、ときには百人の異族の首が犠牲として捧げられることもあったようだ。何百人もの人間を犠牲として捧げなければ、神へのアクセスはかなわなかったのだ。この神と人間との隔たり方は尋常ではない。王の絶対的な権力は、神との途方もない隔絶によって保障されていたとも言える。なにしろその声を聞くためには、百人の首を刎ねねばならないほど神は遠い存在だったのである。神に近づけるのは、牛でも羊でも人でも、神の要求に応じで犠牲を取り揃えることのできる王だけだった。甲骨文に刻まれた神は、「出エジプト記」や「ヨブ記」に描かれた神と同質の神を想わせる。それは人々の手に負えず、ただ畏怖するしかない存在である。

 イエスは自らの人格に神を縮約したと言える。もちろん本人が望んだわけではない。しかしイエスが実在したかどうかは、本当は二義的なことだ。人々が「神の子・イエス」という概念を必要としたことが重要なのだ。そこで何が起こったのか? イエスの死後、彼を愛し信仰することが神への回廊となった。パウロをはじめとする原始キリスト教の人たちは、イエスを「神の子」とする教団をつくり、神の国へ呼び入れられるための手引きとして、新約聖書に収められることになる受難の物語を著した。そこに描かれたイエスには、もはやモーセやヨブが遭遇した神のような横暴さや理不尽さはない。人類の罪を背負って十字架刑に処せられたいたわしい御方であり、そのキャラクターは物静かで慈愛に満ちている。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に描かれたような、やせ形の憂いを帯びた宗教的指導者である。

 ジョブズの生涯に起こったことも、イエスの伝承をめぐって起こったことに似ている。彼とアップルという会社の航跡は、イエスの物語を福音として告げ知らせようとしたパウロたちの足跡と重なる。新約聖書の物語をとおして、旧約の横暴で理不尽な神が、穏やかな羊飼いを想わせるイエスという人格に縮約されたように、ジョブズたちは「誰もが生まれときから持っている世界最高のデバイス、指を使って操作する」ことのできるポケットサイズのタブレットにまで、神を縮約してしまった。イエス・キリストという人格はiPhoneと呼ばれるスマートなガジェットに姿を変え、キリスト教と同じように世界中に多くの信者を生み出している。

 いまや何十億もの人々が、ジョブズたちのもたらしたものに帰依している。キリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒も使っている。ISやヒズボラの人たちも使っている。三大宗教を超えた、まさに正真正銘の世界宗教である。この新しい世界宗教の中核をなしているのがテクノロジーであることは間違いない。そしてテクノロジーは膨大なデータと結びついている。さらにテクノロジーもデータも、貨幣とのあいだに互換性がある。

 これらが現代の神なのだ。テクノロジーとデータと貨幣を三位一体とする神。全人類を統括し、平定する絶対的な神。モーセが遭遇した神は、なおウランの原石みたいなものだった。誰かが解放してしまったのだ。「神」という封印を解いてはならなかったのかもしれない。核エネルギーと同じように中身を解放してはならなかった。そこには私性と欲望が封じ込められているからだ。

 いまや神はテクノロジーとデータと貨幣として解放された。この神は1%と99%を望んでおられる。望んでいないまでも、選ばれた一握りの人たちが地上の富を独占することを是認している。その結果、マタイ伝にあるように、ぼくたちの世界には平和のかわりに剣がもたらされた。ジョブズ一人の責任ではないだろう。誰の責任というよりは、人間はもともとそうだったと言うべきかもしれない。少なくとも殷王が百人の首を刎ねて神に捧げていた時代には、すでに人間はぼくたちの知っているような仕様になっていた。そう考えると、甲骨文字が発明された時代から現在まで一瞬だったとも言える。

 モーセが神から授かった石板には、人として順守すべき戒めが書かれていた。強力な魔術を秘めているポケットサイズのタブレットに何が書かれているのか、まだ正確に読み解いた者はいない。

Photo©小平尚典