あの日のジョブズは(19)

あの日のジョブズは
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19 孤独の惑星

 エア・ビー・アンド・ビー(Airbnb)などのマッチング・サイトがやっていることは、「余っているモノ」と「必要な人」をいかに結びつけるかということだ。インターネットの登場によって、こうしたマッチングが格段に容易になった。そこで様々なビジネスが生まれる。マッチング・サイトを構築する際に大切なことは、変数をできるだけ少なくすることだ。たとえばAirbnbなら「部屋の貸し借り」、ソーシャル・ファイナンスなら「資金運用」というように、テーマやキーワードを絞り込む。使われる変数は、せいぜい滞在期間と人数と予算、あるいは融資額と返済期間と利率くらいである。変数が少ないからマッチングが容易になる。人と人が結び付きやすくなる。

 ネット社会の到来によって、お互いを知らなくても、「持っているもの」と「欲しいもの」とが効率よく結びつくようになった。その際に、彼や彼女がどんな人間(人格)であるかといったこととは捨象されている。ソーシャル・ファイナンスの場合、交換される情報は融資が必要な背景や個人の信用度などである。全人的につながるのではなく、必要最低限のつながりが構築される。趣味を交換するのであれば、ワレリー・アファナシエフの演奏とか、エスニック料理のレシピとか、ある部分で無理なく弱くつながる。

 実際に相手と顔を合わせる必要はないから、「引きこもり」などは解消されるかもしれない。マイノリティ同士のつながりが顕在化することによって、マイノリティであることの意味は失われる。性格の悪さ、暗さ、消極性といった、個人を特徴づけるネガティブな要素は相対化されるだろう。これらはインターネットがもたらすプラスの面、ネットワークで人と人がつながった世界の光の部分と言えるかもしれない。

 ネットワーク化した世界で、ぼくたちは誰も何であるかを問われない。「である」は必要ない。動詞がなくなり接続詞だけになった世界。人が生きることは接続と切断、オンとオフだけになる。「私」はn個の変数に分解され、それぞれのつながりにおいて要請される変数として振舞う。これがさしあたり現在の世界、70数億の人類を粗視化する手法ということになりそうだ。現実世界へようこそ(byモーフィアス)。

 21世紀の現実世界のなかでは国家が消える。国民も消える。民主主義は微妙なところだが、国民国家を前提とした再配分の仕組みとしての民主主義は間違いなく消えるだろう。つまり「近代」と呼ばれてきたものが、ネットワーク化した世界のなかでは溶けてなくなる。国民国家という近代の枠組みでは、独立した主権をもつ国と国のあいだに地理的な国境が存在した。だから軍事力や経済力や国民力といった物理的な力がものを言ったわけだろう。今後は全球的なサイバー・スペース(電脳空間)のなかで、それらのものは徐々に力を失っていくと考えられる。

 たとえば「領土」という感覚は、いまでは政治家の古い頭のなかにしかない。もちろん物理的な国家や国境がすぐに消えてしまうわけではなにしても、ぼくたちの日常感覚のなかで国家はすでに希薄になっている。国民的な一体感もほとんどない。「日本国民は」などと言われると、かえって当惑してしまう。毎日、グーグルで世界のニュースを閲覧し、インターネットで国を跨いで本やCDやワインを注文し、フェイスブックで国を隔てて暮らす人たちと「Nice to meet you!」をやっていると、国境を意識することもなくなる。ぼくたちの感覚のなかで、国家や国民によって世界を粗視化する時代はもう終わっているのだ。

 地理的な国境に囲まれた領土があり、領土を守る軍隊と国民が存在し、リアルな経済活動が営まれている「近代」と呼ばれてきた空間の上に、21世紀的な現実世界として電脳空間が上書きされたと言ってもいいだろう。そして目下、ぼくたちの意識のなかでは後者のほうが前景化しつつある。二つの空間が働いている物理学は異なっており、ニュートンの古典物理学とアインシュタインの相対性理論みたいなものだ。

 近代とは言うまでもなくヨーロッパでつくられた仕組みであり、それが諸国に波及して世界システムになった。三十年戦(1618~1648年)をきっかけに生まれた国民国家と、その運営原理としての民主主義から成り立っている。このシステムに貫徹している物理学は「関係」と言っていいと思う。協調するにしても敵対するにしても関係が重要な意味をもつ。関係が良好であったり険悪であったりすることが、そのまま国際関係にも人間関係にも反映する。

 これにたいして、ネットワーク化した世界に働いている物理学は「接続」になるだろう。個人の場合を考えてみよう。ぼくたちがLINEやフェイスブックなどでつながっている相手は、趣味や職業や出身校などによってスライス状に切り分けられている。個人というよりは断片や要素と言ったほうがいいかもしれない。丸ごとの「その人」ではないから、関係と呼べるものは生まれようがない。またそこでのコミュニケーションは絶えずオンとオフを繰り返す瞬間的なものである。瞬間的なコミュニケーションをいくら寄せ集めても、やはり関係は生まれない。これは国家間でも同様である。

 要素的、瞬間的であることに加えて、接続の物理学のもう一つの特徴は「自己中心的」ということだ。関係の物理学では、人間関係も国際関係も相対的である。アメリカや中国のような大国が、強大な軍事力や経済力にものを言わせて小国を従えることはあっても、征服や併合といったかたちはとれない。いかなる支配も服従も諸国間の関係に規定された相対的なものでしかない。だからインターナショナルという世界観が成り立つのだろう。

 しかしグローバリゼーションという世界観は、自国を世界の中心とみなす視線をもたらす。つまり粗視化のあり方が変わるのだ。グローバリゼーションとは自国中心に世界を粗視化することであると言ってもいい。たとえばトランプは毎日のようにツイートをするし、その発言はメディアなどでも大きく取り上げられる。夜郎自大的な発言には目に余るものがあるが、それはネットワーク化した世界で誰もが多かれ少なかれ共有している傾向かもしれない。

 たとえばツイッターやフェイスブックのようなSNSを利用するとき、あるいはグーグルで検索したりアマゾンで買い物をしたりするとき、ぼくたちは間違いなく「自分が世界の中心」という感覚と味わっているはずだ。世界中の人や情報やコンテンツが、デジタル化を経てネットワークによってつながっており、それらを瞬時にデスクの上や手のひらの上に取り寄せることができる。アマゾンで音楽や映画や電子本などのデジタル・コンテンツを注文するときなどは、文字通りワン・クリックで欲しいものが手に入る。それはLSDなどによってもたらされる全能感に近いかもしれない。

 ツイートをするときのトランプも、おそらく似たような自己中心の感覚、ドラッグ体験にも似た全能感を味わっていると思われる。彼の政治的な文脈での自国第一主義的な発言は、ぼくたちのサイバー・スペースでの体験と無関係ではないだろう。つまり現在の世界は、70数億の自己中心的な「トランプ」によって構成されていると言ってもいい。70数億の「トランプ」がネットワークによってつながっている。これは前代未聞の異常な事態と言える。

 ぼくたちは「自分」を中心として、全球的に無際限につながっている。自己が世界の中心を占めているという全能感は、裏を返せば、その自己をめがけて世界が押し寄せてくるということでもある。あらゆるレイヤーからの膨大な情報が不断に、かつ瞬時に、世界の中心を占める「私」に向かって殺到する。有用な情報もあれば無用な情報もある。有益な情報もあれば有害な情報もある。いずれにしてもグローバルなネットワーク社会において、ぼくたちは常に情報のオーバーフロー状態に曝されている。

 すでに見たように、インターネットは戦時下に軍、大学、民間企業という三つのグループのパートナーシップから生まれた。当初の目的は攻撃を受けた際に早期警報を出し、迅速に応戦準備を整える防空システムの構築だった。これが一般市民と営利企業に公開されたわけである。防空システムがぼくたちの日常になった。四六時中敵から攻撃を受ける危険に曝されているため、24時間年内無休で応戦態勢を整えておかなければならない。

 そして敵が現れたとき一人きりで戦うしかない。ぼくたちは相互につながっているけれど、そのネットワークは「関係ない」というアーキテクチャーで設計されている。誰もが一つのモナドとして孤立無援である。しかもその行動は恐ろしいくらいに画一的なものになる。誰もが同じように考え、同じように判断、同じように行動する。そればぼくたちがみんな同じ環境、同じサイバー・スペースを生きているからだろう。

 ネットワーク化した世界で定義される自由とは、誰もが相応の自由度のなかでアクセス可能ということであり、平等はアクセスの機会がデモクラタイズされていることである。すると21世紀の現実世界のなかでは、国家や国民が消えたように「人生」や「体験」も消えていくかもしれない。遍在化したウェブが個人の人生や体験を吸い上げて、誰のどの人生も似たようなものになるかもしれない。

 人生や体験だけではない。ウェブは思考や傾向も吸い上げる。電脳空間では考える必要がない。アマゾンで買い物をしているうちに購入履歴から商品をレコメンドしてくれるようになる。人間関係はフェイスブックのアルゴリズムが構築してくれる。週末のレジャーや旅行先はグーグルが教えてくれる。旅先でランチをしようとするときには食べログの星の数を見て店を決める。どこかへ行こうとするときにはグーグルマップを開く。行き先を入力すれば、何も考えなくてもそこへたどり着く。途中の景色を見る必要もない。スマホの表示画面だけを見ていればいい。

 必要だと誰も思わなかったのに、ふと気づくとこれなしでは生きていけないとみんなが思ってしまうガジェットをつくり上げることにかけてジョブズは並外れた力をもっている。その端的な例はiPhoneだろう。スマートフォンという、それまで存在しなかったものを形にしてしまったわけだ。しかし彼がいなくなって十年、この画期的な発明もまたコモディティ化してしまった。いまや誰もが日用品として使えるものになり、実勢に富裕者と貧乏人を問わず誰もが使っている。生きていくための最低限のインフラになっている。これほど人類が平等に使える機器は、歴史がはじまってこのかた存在しなかったかもしれない。

 二十代のジョブズは「一人一台のコンピュータ」というコンセプトのもとにパーソナル・コンピュータを構想し、これによって世界を変えるという夢を描いた。ジョブズがパーソナル・コンピュータを構想したときから半世紀が過ぎようとしているいま、一人一台のコンピュータは現実になっている。しかも惑星規模の、人類規模の現実になった。いまや人種、民族、宗派、貧富の差にかかわらず、誰のポケットにも超高性能のパーソナル・コンピュータが入っている。これによってぼくたちはオンとオフによる瞬間的なコミュニケーションをつづけている。そして一人ひとりが分子レベルでデータ化され管理される生物学的シチズンとして、人的リソースや公共的身体として、ネットワーク化した世界の端末になっている。

 iPod、iPhone、iPad……21世紀の最初の10年間にジョブズと彼の会社が生み出した製品は、そのたびに「夢」の実現として熱狂的に迎え入れられてきた。彼と彼の会社は多くの人にとって夢をかなえてくれる存在だった。たしかに夢はかなえられた。そして失われた。いまぼくたちにいちばん困難なのは夢をもつことかもしれない。

 ぼくたちは孤独の惑星に住んでいる。ジョブズが自分一人の惑星に一人で住んでいたように、誰もが孤独の惑星に一人きりで住んでいる。そしてジョブズが生涯とらわれつづけた強い孤独感、孤立感にとらわれている。みんなジョブズになってしまった。スマートフォンなどのガジェットをとおして、彼は地球上の人々を自分の分身にしてしまったのだ。

 ただジョブズの場合と違うのは、彼にとっての孤独が70数億対一人というものであったとすれば、現在は70数億の孤独がネットワークによってつながっているということだ。ぼくたちは世界中の人たちとつながっているが、誰ともつながっていない。24時間年内無休で、ただ自分自身にしかアクセスすることができなくなっている。ぼくたちは「自分」を中心として無際限につながっている。この無際限さは自己という同一性へ向けての無際限さだ。

 たしかに世界は変わった。いいほうへも悪いほうへも、人間という入れ物が壊れてしまいそうなほど大きな振幅の変わり方だ。解放はそのまま隷属であり、果てしない自由は果てしない管理や監禁と直接に結び付く、そのような変わり方である。いまや70数億の人類すべてが自らを監禁し、宇宙ステーション的な生活を送っている。他者が消え、出会いが失われた。つまりぼくたちは世界を失ったのだ。少なくともサルトルが考えたような、人間が主体として働きかける「世界」というものは、もうなくなってしまった。

 世界はどこへ行ったのか? 薄いスマホやタブレットのなかに封入されている。それは手のひらの上で見渡せるものになっている。断片化し、スライス状になったフラットな世界が何層ものレイヤーをなして重なり合っている。だから世界は意味合いを変えたと言うべきかもしれない。いまや世界とぼくたちはほとんど区別がつかないほど同化している。

Photo©小平尚典