13 ホール・アースな問題
ロラン・バルトは写真の登場について、人々が鏡で見るのとは違ったふうに自分自身の姿を見るようになったのは、歴史的にはごく最近のことであると述べている(『明るい部屋』)。フランス人のニエプスによって写真が発明されたのは1827年、まさに近代の真っただ中である。近代的な自我や自己が確固なものになっていくうえで、写真は重要な役割を果たしたに違いない。
バルトの言い方に倣えば、1960年代は人類がはじめて自分たちの住む惑星の姿を目にするようになった時代と言える。それまで望遠鏡で宇宙を見ていた人間が、いまや宇宙から地球を見るようになった。ソ連のユーリイ・ガガーリンがボストーク1号で地球を一周し、「地球は青かった」という言葉を残したのは1961年のことだ。同年5月にはアメリカのケネディ大統領がアポロ計画を発表、1960年代中に人間を月に到達させると宣言する。計画は何度かの有人宇宙飛行を経て、1969年7月にアポロ11号が月面着陸したことによって実現する。このときケネディは生きていない。1963年に日米間で実験的に行われた初のテレビ衛星中継で、太平洋を越えた電波にのって送られてきたのはケネディ暗殺の悲報だった。
1957年にソ連が打ち上げたスプートニク以降、多くの人工衛星が地球のまわりを飛び回り、遠い国のニュースがリアルタイムで送られてくるようになる。おかげで1967年6月、ぼくたちは世界初の衛星中継番組で「愛こそすべて」をうたうビートルズのメンバーたちを目にすることができた。たしかに世界は全地球的なものになりつつあった。
ジョブズの伝記にかならず登場する『ホール・アース・カタログ』は、そんな時代の空気のなか、カウンター・カルチャーの代名詞的な存在とも言えるスチュアート・ブランドによって1968年に創刊された。バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」を連想させる雑誌の中身は文字通りのカタログで、当時あちこちに生まれつつあったコミューンで暮らすヒッピーたちの生活を支える情報や商品を掲載したものだった。彼が唱えた「Access to Tools」はDIYの精神にもつながり、まさにヒッピーたちのコミューンにふさわしいものだった。雑誌そのものは1974年に廃刊となるが、このとき裏表紙を飾った「Stay hungry, stay foolish.」というメッセージは、2005年にジョブズがスタンフォード大学の卒業式で自分の人生を決定づけた言葉として引用し、世界的に有名になった。
多くの人が認めるように、ブランドはカウンター・カルチャーとコンピュータの橋渡しをした人物だと言える。それは単にジョブズが『ホール・アース・カタログ』の愛読者だったからではない。創刊号の最初のページには、「自分だけの個人的な力の世界が生まれようとしている――個人が自らを教育する力、自らのインスピレーションを発見する力、自らの環境を形成する力、そして興味を示してくれる人、誰とでも自らの冒険的体験を共有する力の世界だ。このプロセスに資するツールを探し、世の中に普及させる――それがホール・アース・カタログである」というブランド自身の言葉が掲載されている。これはジョブズたちがコンピュータで実現しようとした理念そのものである。スタンフォードでブランドの言葉を引用したとき、ジョブズのなかにはブランドの意志を引き継ぐ者としての思いがあったに違いない。
そんな『ホール・アース・カタログ』は、最終号と創刊号の表紙だけで歴史に名を残してしまったという不思議な雑誌である。創刊号が有名なのは表紙に使われた一枚の写真のせいだ。そのころブランドは、いろいろなヒッピーのコミュニティを転々としながら気ままな暮らしをしていたらしい。当時、ヒッピーご用達のドラッグといえばLSDである。おそらくLSDの効果もあったのだろう、あるときブランドは地球がいかに小さいか、そして誰もがその小ささを理解することがいかに大切かを直観する。「これがあらゆる病気の原因だ。このことを広く知らしめなければならない」と考えた彼は、NASAを説得して1枚の写真を借り出すことに成功する。宇宙に浮かぶ地球のカラー写真である。これが創刊号の表紙を飾る。
この一枚の写真こそ、若い世代に芽生えつつあったグローバルな意識を象徴するものと言える。写真の登場が近代的な自己や自我の誕生を促したとすれば、宇宙から撮影された小さくて美しい地球の写真は、人工衛星や宇宙ロケットとともに成長した世代が、地球的に感じたり考えたりすることを促したに違いない。彼らは地球規模で感じたり考えたりするようになった最初の世代だった。ジョブズもその一人である。こうしたグローバルな意識が、時代を経てインターネットやオンラインやウェブといったソーシャル・メディアを生み出していくことになる。80年代以降に起こったソーシャル・テクノロジーにおける数々のイノベーションは、パーソナル・コンピュータとともに育った世代にとってのアポロ計画みたいなものだったのかもしれない。
1975年に公開されたミロス・フォアマン監督の映画『カッコーの巣の上で』は、精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れた男が、薬と権力によって患者たちを抑圧する病院の管理体制に疑問を感じ、持ち前の反逆心から入院患者らとともに人間の尊厳と自由を求めて闘うというストーリーだ。最後にロボトミー手術を受けて廃人にされてしまう主人公を、ジャック・ニコルソンが演じてアカデミー主演男優賞を手にしている。原作はケン・キージーが1962年に発表した同名のベストセラー小説(“One Flew Over the Cuckoo’s Nest”)で、彼はスタンフォード大学で学ぶかたわら、精神病院の夜間アルバイトで経験したことを生かして小説を書いたと言われている。
このキージーが、スチュアート・ブランドとともにコンピュータとカウンター・カルチャーの交差点に姿を現す。本がベストセラーになった後、彼は本の売り上げを資金にして「メリー・プランクスターズ(Merry Pranksters)」なるヒッピーのコミューンを設立、「ファーザー」という派手な虹色に塗り上げたバスに乗って大陸横断の旅に出る。当時は合法的だったLSDを普及するためというから、まさにカウンター・カルチャーを絵にかいたような人だ。ちなみにキージーたちのバス・ツアーはビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー』(1967年)のモデルになったと言われている。発案者はポールだったらしい。呑気そうな顔をしているけれど、なかなか目配りの行き届いた人である。
サイケデリックなツアーから戻ると、キージーは自宅で「アシッド・テスト」と称するLSDのパーティを開きはじめる。これは一種のトリップ・フェスティバルで、入場者にLSDを配り、ジミ・ヘンドリックスやグレイトフル・デッドが音楽を演奏し、アンディ・ウォーホルなどのアンダーグラウンド映画を放映したというから、おそろしくヒップなイベントである。キージーが主宰する「メリー・プランクスターズ」の常連の一人がスチュアート・ブランドだった。やがて彼はキージーとともにLSDのトリップ・フェスティバルをプロデュースするようになる。
日本では大麻取締法で厳しく規制されていることもあって、ドラッグというと「悪いもの」というイメージが強い。またぼくたちの世代だと、『イージー・ライダー』や『ウッドストック』などの映画の影響で、マリファナを吸って裸のおねえさんたちといろいろするという刷り込みが強い。もちろんそういう面も多分にあっただろうが、60年代末のアメリカにおいてドラッグ・カルチャーは、カウンター・カルチャーと緊密に強く結びついていた。
背景には、アメリカという肥大する消費社会を覆う不条理な現実があった。ケネディ兄弟やキング牧師などのあいつぐ暗殺、ベトナム戦争で戦地に送られて死んでいく若者たち。反戦運動に身を投じる学生や新左翼の活動家たちを含めて、この時代の対抗文化を担った人たちのなかには、ドラッグの助けを借りて既存の宗教やイデオロギーに依存しない世界観を打ち立てようとする人たちが数多くいた。とくにLSDは、感覚や感情、記憶、時間などが変化したり、拡張したりする体験を引き起こすとされる。つまりチベット仏教の修行などと似たモチーフがあったのだ。
ここからカウンター・カルチャーがドラッグ・カルチャーを媒介にしてコンピュータとつながっていく必然性が浮かび上がってくる。いまでは意外な気もするけれど、もともとカウンター・カルチャーの人たちの多くは、コンピュータをペンタゴンなど体制側に帰属するものととらえていた。たしかに世界で最初の電子式コンピュータといわれるENIACにしても、開発の動機はアメリカの第二次世界大戦への参戦でヨーロッパに配備される大砲の射表を作成するためだった。開発資金の提供も1943年に陸軍省が決定を下している。その後も大型コンピュータの製造と販売はIBMがほぼ独占しつづけ、ユーザーの多くは政府や大企業である。まさにコンピュータは権力の象徴だったわけだ。
1984年にマッキントッシュの発売にあたり、ジョブズがリドリー・スコットにディレクションを依頼して作らせた、「1984年」という有名な60秒のスポット広告がある。「1984年」は言うまでもなくジョージ・オーウェルの小説『1984年』を念頭に置いたものだ。巨大なスクリーンに映る独裁者風の男が、陰鬱な声で絶対服従による啓発の可能性を語る。その言葉に耳を傾けるゾンビのような大勢の男女。白黒で表現されている彼らのなかを、一人だけ色のついた女性が駆け抜けていき、最後に手に持っていた巨大なハンマーを放り投げてスクリーンを破壊する。そこに天啓のようにしてナレーションが入る。「1月24日、アップル・コンピュータがマッキントッシュを発売します。今年、1984年が『1984年』のようにならない理由がお判りでしょう。」
このCMのなかで、ジョブズはIBMをあからさまにオーウェルの小説に登場するビッグ・ブラザーになぞらえている。IBMによるコンピュータの寡占状態を許せば、やがてはコンピュータが独裁者のように人々を支配するようになるというわけだ。大人気なくIBMにたいして敵意をむき出しにするジョブズが憎めない。彼には遅れてきたヒッピーみたいなところがある。
それはともかく、当時のヒッピーやカウンター・カルチャー側のコンピュータにたいするイメージも、ジョブズが作ったCMに近いものだったかもしれない。要するにコンピュータとは官僚的管理のためのツール、中央集権の権化と考えられていた。こうしたコンピュータにたいする意識が70年代にさしかかるころからが変わりはじめる。マイクロ・プロセッサが小型化し安くなってきたことで、アマチュア無線やラジオの愛好家たちのなかから、自分で組み立てたコンピュータを使ってプログラムを書くことに熱中する者が出てくる。スティーブ・ウォズニアックのその一人だった。あるインタビューで彼は新しい表現手段を見つけたようだったと語っている。自分を表現するための新しい言語としてのプログラム言語。マイクロ・プロセッサの登場によって、社会的地位とは縁遠い人たちが世の中にたいして力をもてる可能性が出てきた。
1960年代に生まれた「パワー・トゥ・ザ・ピープル」という反体制的なスローガンは、平和運動や新左翼の政治運動としては68年の「サマー・オブ・ラブ」をピークに終息へ向かう。ヒッピーや反戦運動家にかわって、個人の表現と解放を象徴するものとしてコンピューティングをとらえる人たちが出てくる。人々に力をもたらしてくれるのは何か? 一つの可能性としてパーソナル・コンピュータがある。コンピュータは個人が力を得る本当のチャンスをもたらしてくれる。こうしてコンピュータはスチュアート・ブランドやケン・キージーのようはカウンター・カルチャー側の人たちのなかに浸透していき、個人の表現や解放のシンボルとしてとらえられていく。
そこにカウンター・カルチャーとはもともと相性の良かったドラッグが結び付く。ジョブズが一時在籍していたリード大学で、かつて「ターン・オン(ドラッグで)、チューン・イン(意識を開放し)、ドロップ・アウト(社会に背を向けよ)」と訓戒を垂れたティモシー・リアリーが、このころになるとパーソナル・コンピュータを新種のLSDとみなし「ターン・オン(スイッチオン)、ブート・アップ(起動)、ジャック・イン(仕事を放棄しろ)」と宣言するようになる。困った人だが、潮目を見ることには長けていた。たしかに初期のパーソナル・コンピュータの開発は、LSDによってもたらされる効果をコンピュータで置き換えようとする試みでもあった。シリコン・バレーとヘイト・アシュベリーが少しずつつながりはじめる。
いよいよダグラス・エンゲルバートの登場である。マウスの発明者として有名な彼は、バークレーでコンピュータ・サイエンスを専攻したのち、60年代にスタンフォード研究所(SRI)に職を得る。この研究所にはスチュアート・ブランドがいて、仲良くなった二人は一緒にLSDを試しながらその効果を学術的に研究しようと考えていたらしい。
当時のスタンフォードで盛んに行われていたのは、人間の脳のニューラル・ネットワークを模倣したシステムの開発という、このところ脚光を浴びている人工知能(AI)につながる研究だった。しかしエンゲルバート自身は人工知能の分野に興味をもてなかった。1950年代にマービン・ミンスキーやジョン・マッカーシーによってはじめられた研究は、人間の脳の機能を機械の上で再現しようとするものである。こうした考え方の延長線上に、いずれ人間の知能を超えるAIが生まれて世界を支配するようになる、といった現在のシンギュラリティ議論がある。
エンゲルバートが作りたいと考えたのは、人と密接に連携して情報を整理し、人間の知能を増強し拡張する機械であり、これは人と機械が協力し合うことを土台にしたノーバート・ウィーナーのサイバネティクス理論に近いものだ。エンゲルバート自身は、パーソナル・コンピュータというコンセプトを考案したヴァネヴァー・ブッシュの「人の労働と思考を支援する」という考え方を受け継いだと語っている(アイザックソン、2019)。
ブッシュは1945年の論文「我々が思考するように(As We May Think)」において、「メメックス(Memory Extender)」というパーソナル情報システムを構想している。その名のとおり人間の記憶を拡張するためのシステムで、必要な情報をキーワードで見つけ出し関連項目をすぐに探し出せるという、現在のグーグルなどの検索サイトが実現している機能をもつものだ。こうしたブッシュのアイデアを、エンゲルバートは「拡張知能」と呼ぶようになる。そして拡張知能を研究するために、国防総省の研究機関(ARPA)やNASAから資金提供を受けて自分の研究施設をつくり、オーグメンテーション・リサーチ・センター(ARC)と名づける。
エンゲルバートの考え方は「オーグメンテーション」という言葉によくあらわれている。つまり「拡張」である。機械を知的にするのではなく、人間の知能を拡張する。AI(Artificial Intelligence)ならぬIA(Intelligence Augmentation)というわけで、人工知能とは逆の発想である。こうしたエンゲルバートのアイデアには、ブッシュの論文とともに明らかにLSDの影響が認められるように思う。複雑な脳のニューラル・ネットワークを模倣して、人間の知能に匹敵するものを機械で作るよりも、機械と協力して人間の知能を増強し、拡張する方法を考えたほうが手っ取り早いし、はるかに効率的である。それはエンゲルバート自身がLSDの効果として体験済みだった。このLSDの効果を機械によって代行してやればいい。
彼は人間と機械がたやすく対話できる方法として、まずスクリーンに表示されたものを選択するデバイスを作ることにした。こうして生まれたのが「マウス」である。偉大な発明は得てしてシンプルな発想から生まれるようだ。マウスも原理は簡単で、机の上でデバイスを動かすと、二つのホイールがそれぞれの方向に回転して電圧が上下する。この電圧をコンピュータのスクリーンに送れば、カーソルを上下左右に動かすことができる。
この画期的なデバイスの発明によって、頭と手と目を連動させる人間の能力を利用して、コンピュータとの自然なインターフェイスを作ることが可能になる。独立して働くのではなく、人間と機械が一体になって動く。まさに人と機械の密接な連携である。エンゲルバートの発明したマウスがゼロックスのPARCを経由してアップルに持ち込まれ、ジョブズたちによってよりシンプルで洗練されたかたちでMacintoshに採用されることになるのはすでに触れたとおりだ。
エンゲルバートの発明はマウスだけではない。その概容を知るのには、1968年12月にサンフランシスコでおこなわれ、後に「あらゆるデモの母」と呼ばれるようになるデモンストレーションを見るのがいいだろう。これはコンピュータ業界の会議において、エンゲルバートが同年に完成させた「オンライン・システム(oN Line System)」を発表したもので、その様子はYouTubeで簡単に見ることができる。とはいえ画像が不鮮明なこともあり、ジョブズたちのショーアップされたプレゼンを見慣れたぼくたちには、1時間40分に及ぶデモはかなり退屈に感じられる。しかし当日、会場にいた聴衆はデモが終わると総立ちになり、なかにはステージに駆け寄る者までいて、まるでロック・スター並みの扱いだったという(アイザックソン、2019)。そしてエンゲルバートのデモを見た人たちの多くが、異口同音にコンピュータの新しい可能性を見たと証言することになる。
この歴史的なイベントを手伝ったのがLSD仲間のスチュアート・ブランドだった。カウンター・カルチャーとサイバー・カルチャーの結びつきがデジタル革命をもたらす、とブランドは考えていた。コンピュータ・サイエンスを構想したフリークたちが、カネと権力をもった組織から力をもぎ取ることになるだろうと……予想は当たったと言えるだろう。ジョブズたちはIBMをはじめとする由緒ある大企業から力をもぎ取り、結果的に巨万の富を得た。そして自らがカネと権力をもつ巨大な組織になった。ゲイツもグーグルもザッカーバーグも同様である。時代は変わるのか、変わらないのか。
デモの中身を簡単に紹介しておこう。薄暗い会場のステージには大型のスクリーンが設置されている。このスクリーンがコンピュータのディスプレイというわけだ。エンゲルバートは飛行機のパイロットが使うようなマイク付きのヘッドセットをつけて登場する。1968年はスタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』が公開された年でもある。エンゲルバートの声はどこかコンピュータの合成音みたいで、映画に登場するHAL9000の声を連想させる。
彼は抑揚のない声で説明をしながらマウスを操作しはじめる。するとスクリーンの上を動くカーソルが、文字や画像を貼り付けたり、グラフィカルな画面を開いたり、リンクを張ったり……つまり現在、ぼくたちがネットワークにつながったパソコンでやっているほとんどのことをやっていく。マルチ・ウィンドウ、ハイパーテキスト、ハイパーリンク、インスタント・メッセージ、さらにはブログやウィキペディアにつながっていくアイデアまで、1968年の時点でエンゲルバートはひととおり実演して見せたことになる。デモを見た研究者の一人は「両手で稲妻を操っているモーゼのように見えた」とエンゲルバートのことを書き残している。たしかに彼は21世紀からやって来たモーセのように見えたかもしれない。
このときケン・キージーも会場にいて、「これこそLSDのつぎに来るものだ」と思ったという。エンゲルバートのデモは、個人の意識や能力を高めるといったLSDがもたらす効果を、コンピュータによってつくり出せることを実証していた。これはジョブズにも大きな影響を与えたはずだ。すでに触れたように彼はドラッグとの親和性が強い。高校生のころからマリファナやLSD、ハシシなどをやっていたほか、断眠による幻覚を試したという人である。筋金入りなのである。ジョブズの世代のエンジニアたちの多くが、マイクロ・プロセッサとともに音楽や映像、さまざまなパフォーマンスをとおしてサイケデリックな文化に親しんでいた。ドラッグをコンピュータに置き換えるというエンゲルバートのデモは、後にベイエリア・イノベーターに育っていく若者たちに共感をもって迎えられたに違いない。
コンピュータはサイケデリックのつぎにやって来た福音だった。この福音には落とし穴があった。エンゲルバートのデモの当日会場にいたキージーも、また伝説的なデモから影響を受けたジョブズたちの世代も、おそらく一様にドラッグよりコンピュータのほうが「安全」と考えたはずだ。コンピュータにはドラッグのような習慣性も、脳や人格を破壊してしまう危険性もない。ところで近年、しだいに認識されつつあるのは、iPhoneのようなガジェットにもドラッグと同じような習慣性があり、年齢や使い方によってはユーザーにとって有害なものになるということだ。「スマホ依存症」という言葉も生まれている。さらにゲームやSNSは一種の仮想空間を体験させることで、ドラッグと同じように現実逃避の役割も果たし、人々の関心が日常のリアルな問題へ向かうのを妨げる。
これはエンゲルバートが提唱した「拡張知能」としてのコンピュータというコンセプトから外れるものであり、アラン・ケイが「パンクしたタイヤのような不十分なものを作っている」と言って、現在のコンピューティングのあり方を批判していることとも重なる。技術面でエンゲルバートの弟子とも言えるケイは、師と同様に「人間の思考の補助メディアとしてのコンピュータ」というコンセプトをもちつづけている。二人が共有するのは一種の使命感である。複雑化し、高速化していく世界で、つぎつぎに立ち現れる問題にいかに対処していくか。それを手助けするものがテクノロジーであり、さまざまな問題に迅速に対処するための強力な道具がコンピュータであるはずだった。
もともとコンピュータはそのような役割を担って誕生した。1943年に陸軍省がENIAC開発のための資金提供をきめたのも、ヨーロッパに配備される大砲の射表を作成するためだった。正確な射撃をするためには、温度や湿度、風速、高度、火薬の種類など多くの条件を考慮し、砲弾の種類ごとに一連の微分方程式を解いて何千もの弾道計算をしなくてはならない。こうした人間がやるにはあまりにも複雑で、時間も労力もかかる問題を処理するために開発されたのがコンピュータだった。その点で、エンゲルバートやケイはオーソドックスなコンピュータの研究者であると言える。ただし彼らの考えるコンピュータは軍事目的ではなく、マラリアの撲滅や食料の増産や地球温暖化の解決に使われるべきであり、そのためにコンピュータは人と緊密につながる必要があった。
現代、世界が抱えている問題の複雑さは、エンゲルバートたちが考えた複雑さとは性質を異にしているように思われる。ユヴァル・ノア・ハラリは最近の著書(『21 Lessons』)のなかで、人類が共通に直面している実存的脅威として、力の均衡が崩れることによる核戦争の危険性の増大、温暖化などの気候変動による生態系の崩壊、AIと生物工学による技術的破壊の三つをあげている。彼も指摘しているように、こうした問題はいずれもグローバルな規模の、まさにホール・アースな問題であり、国家レベルでは対処できない。
たとえば地球温暖化という複雑な問題に対処するために情報を集め、世界の研究者が情報を共有し、共同して対策を考えることは可能だろう。しかしアメリカも中国も、自国の経済成長を減速させてまで二酸化炭素の排出量を減らそうとはしない。トランプなどは気候変動そのものを否定している。あるいは遺伝子操作技術の人体への応用を、仮にアメリカやヨーロッパや日本で禁止しても、中国などは研究を進めるかもしれない。こうしたハイリスク・ハイリターンの技術開発は、他国がやっている以上は後れをとるわけにはいかない。中国がやるなら自分のところもやるべきだという圧力がかかり、それに応える人が大統領や首相を務めることになる。核兵器にかんする削減条約や実験禁止条約も同様である。イランや北朝鮮との核合意は国家間の駆け引きの材料にしかなっていない。
かつて黄河やナイル川のような大河の治水は一つの強大な国や王朝が行えばよかった。しかしながらインターネットという世界中に張り巡らされた川を高速で流れていく情報の管理や制御を、いったい誰がどのように行えばいいのか。すぐに思いつくのは、政治システムをグローバル化してグローバル・ガバナンスのようなものをつくるというものだ。ところが現実に見られるのは、経済のグローバル化を規制や停止して国家経済に回帰するという世界的な傾向だ。アメリカのトランプ現象やイギリスのブレグジットはその顕著な現れと言えるだろう。いまや深刻な対立はグローバルとナショナルのあいだにある。世界と国家や地域が分断され協調できなくなっているのだ。
人類がグローバルな問題に直面しているのは間違いない。一方にグローバルな自然環境があり、グローバルな経済や技術があり、グローバルなテロリズムの脅威がある。気候変動にしても技術的破壊にしても、また核兵器や細菌兵器の使用を含む戦争やテロの脅威にしても、世界的に懸念されている主だった問題はすべてグローバルな性格をもち、世界規模の合意や協力なしには解決できない。70数億の人類は単一な文明を生きており、ぼくたちは一年365日、朝から晩までホール・アースな問題に直面している。
しかし一人ひとりの人間のアイデンティティはあいかわらず国家や民族や宗教にあり、多くの場合、これらは相互に利害を異にして対立し、しばしば反目したり敵対したりする。世界規模の協力関係をどのようにしてつくっていけばいいのか。その前提となるグローバルなアイデンティティをいかに育てていくか。いまのところ「人類」は、国民や教徒にくらべると説得力のない虚構にとどまっている。一つの地球という惑星に住み、同じ運命と脅威を共有しているという意識を、ナショナルな意識に上書きすることは可能だろうか。それとも別の方法を模索するべきなのか。これがいまぼくたちの直面しているホール・アースな問題である。
Photo©小平尚典