あの日のジョブズは(2)

あの日のジョブズは
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2 Where Are You ?

 男を探している。どこにいるのかわからない。どこを探せばいいのか見当もつかない。重要なやつなのか? おそらくキリスト教徒にとってのイエスと同じくらい重要だ。イエスと同じように、彼も後の人々からは歴史を大きく変えることになった人物と評されるだろう。ぼくたちはいま、その男がもたらした現実を人類規模で生きている。

 まわりを見てみるがいい。誰もがうつむいてスマートフォンを操作しているだろう。タッチパネルに指を触れ、縦や横にスクロールしたり、指先で小刻みに叩いたり……すでに当たり前になっている光景をつくり出したのは、おそらく彼、ぼくが探している男だ。

 その男は何をしたのか? コンピュータと人間を近づけた。コンピュータをパーソナルなもの、パーソナルよりもっとパーソナルなものにした。人間的な魅力を備えたコンピュータ、友だちや相棒としてのコンピュータ。コンピュータに愛を持ち込んだ? コンピュータを愛されるプロダクトにした。アップル・エクスペリエンス。イエスが神と人間のあいだを取り持ったように。新しい世界宗教を生み出したと言ってもいいかもしれない。

 二千年前にイエスが発したメッセージはシンプルなものだ。「神の国」はすぐそこに来ている。主なる神は貧しい人々や持たざる人々の苦労を見ておられ、彼らの苦悶の叫びに耳を傾けておられ、いま、そのために何かをなされようとしている。このシンプルなメッセージは、だがイエスの時代にはローマ帝国への宣戦布告に他ならなかった。極めて危険なメッセージだったのだ。自らを「メシア」と名乗るものは、ただちに捕らえられ処刑された。支配者たちが恐れたのは、イエスが行う奇蹟行為ではなく、彼が発するメッセージだった。

 一方、ぼくの探している男が発したメッセージはこうだ。「コンピュータの向こうに未知なる未来がある」。あるいは「誰もがコンピュータに触れることによって未知と未来にアクセスできる」。パスワードは「アップル」。神話的ではないか。「アマゾン」が未開や野生なら、「リンゴ」は神話的であり旧約聖書的だ。旧約聖書のなかで神がモーセにもたらした石板は、いまやポケットのなかに入るスマートな携帯端末に姿を変えた。彼はイエスのように迫害され、捕らえられて処刑されることはなかった。それどころか世界に受け入れられ、巨万の富を手にした。だが最期は病に斃れた。膵臓癌だったという。いかにも現代的な病だ。ほとんど殉教と言いたいくらいだ。

 十字架にかかったイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んだ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。この挿話は最初に成立したマルコによる福音書にも出ている。ぼくは男の伝記を書こうとしているのだろうか。マルコのように? いったい何を書くつもりだ。さっき自分で言ったばかりじゃないか。すでに彼については多くの本が書かれていると。いまさら何を書こうというのか。会ったこともない男の伝記を書くつもりなのか。

 だが伝説の多くは、実際にまみえることのなかった者たちによって紡がれたものだ。一人の人間が伝説になるには、おそらく物語る者とのあいだに時間的、空間的、心理的な距離が必要なのだろう。そうして生まれた物語が、後世の者たちにとって都合のいい虚構という面をもつのは確かだ。だが一方で、事実に即した伝記よりも、より本質的にその人物を描き出すこともある。だから伝説として長く残っていくのだろう。

 マルコの物語はイエスが死んでから約40年後、紀元70年以降にはじめて書かれた。伝記作者としてのマルコは、イエスの信奉者によって数十年の間にあちこちに広められていた口伝や、わずかではあるが文書化された伝承などを集めて、その中から思いのままに取捨選択した。彼は年代記的な物語に、こうした伝承の寄せ集めを加えることによって、「福音書」(それは古代英語のgod-spellからきた「良い知らせ」を意味する)と呼ばれるまったく新しい文学ジャンルを生み出したのだ。(アスラン、2014)

 ぼくが探している男も、やがてイエスと同じように脚色され、伝説化されていくだろう。彼が起こした会社や、その会社が世に送り出した多くのプロダクトとともに、彼の存在そのものが歴史のなかに位置づけられるはずだ。そうした流れに加わる者の一人になろうということなのか?

 いや、そうではない。描いてみたいのだ。ぼくなりの視点で描いてみたい。ぼくと男のあいだに横たわる時間的、空間的、心理的な距離によってストーリーを組み立ててみたい。それは伝記や評伝というよりは創作に近いものになるだろう。一人の男を創作したいのだ。ぼくの心の風景のなかに彼を立たせてみたい。現実の物理的な世界を生き、人々の心をつかむメッセージを発し、数多くの魅力的なプロダクトを世に送り出し、巨万の富を手にし、最期は癌に斃れた男がいた。その男を、ぼくの心の空間でもう一度生かしたいのだ。遠いともだちとして……彼の名前はスティーブ・ジョブズ。

 きみがつくり出した世界は、いまやひどいことになろうとしている。(またしても馴れ馴れしい言い方だ。「きみ」だなんて!)この世界のありさまを見てどう思うのか。たずねたいところだけれど、きみはもういない。「この世」という場所を立ち去ってしまった。それでもぼくは知りたいのだ、なぜこんな世界をつくり出したのか。きみのなかにあったヴィジョンを、触れると火傷するような情動を、やむにやまれぬ思いを。

 きみはヴィジョナリーと言われていた。ぼくたちがほしいのはヴィジョンだ。未来の世界をどう思い描けばいいのか。新しい物語をどのように紡げばいいのか。きみは有能な物語作者でもあった。「シンク・ディファレント」をはじめとして魅力的な物語を数多く生み出した。いまは物語の代わりにデータだけがある。物語は過去にしかない。ぼくがきみを探しているのも過去への郷愁なのだろうか。

 きみはぼくたちの世界にあらわれたメシアなのか? ぼくたちが何かを求めていたのは間違いない。それはIBMにも、ビル・ゲイツのマイクロソフトにも求めえないものだった。きみだけがかたちにできた。若者を中心に世界中の多くの人たちが求めていたものを。なぜだろう? その答えを探すために、きみの生涯をたどってみる必要がありそうだ。

Photo©小平尚典