あの日のジョブズは(16)

あの日のジョブズは
この記事は約15分で読めます。

16 消えた少年たち

 オースティン・スコット・カードの小説『消えた少年たち』の主人公、7歳の少年スティーヴィは毎日学校から帰るとスクリーンの前に坐り込んでコンピュータ・ゲームばかりしている。彼には一緒にゲームをする友だちがいて、ジャックやスコッティといった名前がついている。しかしその姿は両親にも弟や妹にも見えない。スティーヴィにだけ見える。両親はジャックやスコッティを息子の空想がつくり出したものと思っている。なぜなら息子は小学校で辛い目にあっているからだ。一家は父親の仕事の都合で南部の田舎町に引っ越してきた。長男のスティーヴィは転校生ということでいじめにあう。級友たちだけではなく担任の女性教師までが彼にひどいことをする。こうした辛さを乗り越えるために、息子には空想の友だちが必要だった。そんなふうに両親は推察する。

 辛い目にあっている子どもが、困難を乗り越えるために現実に手を加えるというのはよく見られることだ。大人でもしばしば自己防衛のために現実を捻じ曲げて解釈する。こうした傾向がジョブズにはひときわ強く見られたようだ。「現実歪曲フィールド」として有名な彼の偏執的なものの見方は、困難を乗り越えるための「歪曲」と言えなくもない。その威力と弊害はさまざまなかたちで現れる。

 手ごわい交渉相手に催眠術をかけて有利な条件で合意に至る。自らが率いているチームのスタッフに不可能を可能と思わせてしまう。困るのはジョブズ自身が催眠術にかかってしまうことだ。もっとも本人が自己暗示にかかって不可能を可能と信じているから、他人を自分のヴィジョンに引き込めるのかもしれない。しかし下手をすると現実を直視できずに会社を危機に陥らせてしまうことにもなる。彼がアップルを追われたのは、「現実歪曲フィールド」のマイナス面が膨らんで会社の負担になったからだろう。

 ファースト・ネームだけでなく性向からして、ジョブズは『消えた少年たち』の7歳の少年スティーヴィに似ている気がする。ぼくたちのスティーブにも見えていたのではないだろうか。普通の人には見えない大勢の「友だち」が。なぜ見えたのか? 『消えた少年たち』のスティーヴィと同様に必要だったからだろう。人は自らが必要とするものを見る。

 ジョブズは見えない「友だち」を必要とした。理由はあとから考えよう。ポイントはその「友だち」が、ただ空想として存在するだけではなく、たとえば「顧客」という姿で可視化し、実体化できるものであったことだ。IBMやマイクロソフトやHPには見えていない人たちが、ジョブズには「友だち」として見えていた。問題は見えない人たちをどうやって可視化するかだ。そこにジョブズのデザインの考え方が反映されてくる。

 いるのはわかっている。だが目に見えない。ただ気配だけが感じられる者たちに、「クールだ」とか「カッコいい」という声を上げさせて、そこに彼らがいることを確かなものにする。ジョブズにとってのデザインとは、見えない「友だち」に最初の通路なのである。デザインだけではない。彼が世に問う製品自体が、「友だち」を実在の世界に在らしめるためのツールでもあった。

 パーソナル・コンピュータというコンセプトを考えたとき、ジョブズが何よりも重視したのはユーザー・インターフェイスだった。エンジニアリングやデザインにかんしての貢献度を疑問視する声は根強くある。実際には何もしていないという人もいる。プログラムもできなかった。デザインの何たるかもわかっていなかった。しかし人とテクノロジーの接点にジョブズが着目したことは確かであり、加えて彼はそこに「友だち」という視点を持ち込んだ。彼にとってパーソナルなコンピュータとは、機能的にもデザインの面でも「フレンドリー」なものでなければならなかった。

 たとえばビル・ゲイツのマイクロソフトに「友だち」という発想はまったくない。彼らが相手にしているのは無人格的な顧客であり、企業や法人である。一方、友をもてなすという態度で個人にアクセスすることを考えたのはアップルであり、とりわけジョブズである。個人の心にアクセスできるのは「シンク・ディファレント」のような魅力的な物語であり、デザインという美である。ジョブズには両方の才能があった。物語と美を首尾よくビジネスに結び付けることができた。つまり彼のビジネス感覚は最初から個人へ向かうものだったと言える。

 だからジョブズにとって、自分たちが送り出す製品はただ売れればいいというものではなかった。本心から「友だち」に勧められるものでなければならない。アップルが製品の種類を増やすことに、ジョブズは一貫して反対したと言われる。大切な「友だち」に届ける製品が、そんなにいろいろな種類作れるわけがないということだろう。どの製品も自分(たち)が精魂を込めて作ったものでなければならない。販売店のニーズにあわせて作るようなものであってはならない。

 わかりやすいので、再びビル・ゲイツを引き合いに出そう。おそらくゲイツはそんなことは考えないだろう。彼にとって製品の種類はいくら多くてもいい。むしろハードウェアの選択肢は多いほどいい。現にIBMのPC互換機の登場をきっかけに、デルをはじめとするさまざまなハードウェア・メーカーが製造に乗り出すことで、パーソナル・コンピュータはあっという間にコモディティ化してしまう。これらのメーカーにオペレーティング・システムを積極的にライセンスすることで、ウィンドウズは一時期90%以上のシェアを占める。市場シェアの拡大だけを念頭に置けば、ジョブズのやり方はかならずしも正しいとは言えないのだ。

 にもかかわらず、ジョブズは頑ななまでに製品の細かなデザインや機能や仕様にこだわる。『消えた少年たち』のスティーヴィは、いくら親たちに注意されてもコンピュータ・ゲームをやめようとしない。スティーヴィにとってコンピュータ・ゲームは友だちとつながる唯一のツールなのだ。ジョブズがしばしば見せる頑なさも、スティーヴィの場合と似ているかもしれない。ぼくたちのスティーブにとっては、自分(たち)が作るコンピュータやガジェットは「友だち」とつながるための大切なツールである。けっしてコモディティ化していくようなものであってはならないのだ。

 ジョブズがハードウェアの製造にこだわったのも、ソフトウェアでは充分につながれないと考えたからだろう。彼は自分が直接つながりたかった。「友だち」が喜ぶエンド・ツー・エンドの素晴らしい製品によって。そのなかに自分以外のものが混入することは許しがたい。だから媒介的なものや第三者の介入を極端に嫌ったのだろう。またアップルという会社が提供するものは、自分が隅から隅まで管理したものでなければならなかった。その結果、製品を語ることはジョブズという人間を語ことにもなる。アップルのiPhoneやiPadを「アップルのデザイン」や「アップルの美学」といった文脈で語ることは可能だし、その背後にはいつもジョブズの存在が感じ取られるのだ。

 デザイナーのジョニー・アイブが言うように、たしかにジョブズは独占欲が強い。その欲望に少しニュアンスをつければ、彼は製品をあくまで自分の作品として届けたかったのではないだろうか。アイブをはじめとして、数々の画期的なアップル製品の開発やデザインに携わったスタッフからすれば、われわれのアイデアであり、われわれの製品である。だが「われわれ」とはアップルではないか。そしてアップルという会社はジョブズの作品であり、彼の延長である。「現実歪曲フィールド」として名高い(悪名高い)見方によればそうなる。したがってアップルの製品を届けることは、ジョブズにとっては自分の作品、しかも心づくしの作品を届けることなのだ。

 作品? たしかにジョブズが世に問うた製品には、どれも彼の「作品」といった趣がある。言うまでもなく作品と製品は違う。作品とは独特の精神的な内部をもち、その内部に作者との独特のきずなをもち、ある程度まで人格と似たようなあり方をしている個性的な作物のことである。ジョブズがかかわったアップルの製品は、現にそのようなものでありつづけたのではないだろうか。隅々にまでジョブズの神経が行き届いており、製品は「作品」として彼の内面や人格を映し出すようなものになった。

 こうしたジョブズの個性や作家性がもっとも反映されているのは、やはりiPhoneだろう。きっかけは携帯電話だったらしい。既存の携帯電話は複雑すぎる、とジョブズには思えたのだ。使い方のわからない機能がたくさんついている。こんなこともできます、こんな機能も付いています、とメーカーが上から目線で押し付けている。

 ジョブズが求めたのは友だちや仲間と共有できる魅力的なマシンだった。買った人が自分の友だちに見せびらかしたいと思うような、持っているだけで誇りを感じられるような、そういうマシンを彼は作りたかった。車ではありうる。ポルシェやフェラーリなどがそうだ。しかし携帯電話のようなガジェットで、ライフスタイル・ブランドと呼べるものを生み出したのはジョブズの他に誰がいるだろう?

 やり方を見てみよう。まずジョブズはキーボードもスタライス・ペンもないタブレットというコンセプトを提示する。最初はiPodに搭載されているホイールを使おうとしたがうまくいかない。曲目をスクロールするには便利だが、番号の入力には不向きだった。試行錯誤の末にマルチ・タッチのアイデアが生まれる。アイデアとしては素晴らしい。問題はいかに携帯電話に搭載するかだ。エンジニアリング的に可能なのか。実現すればゲインは大きいが、失敗するリスクも高い。会社の存続にかかわる大きな賭けだった。こうした場合、ジョブズはたいていリスクの高いほうに賭ける。そればかりではない。自らがハードルを高くして、より大きなリスクをとるように仕向ける。

 たとえばポケットに入れて歩くうちに誤って音楽が再生されたり、電話をかけてしまったりすることをどうやって防ぐか。オンとオフのスイッチを付ければ簡単だが、ジョブズはエレガントではないと言って付けたがらない。そこで画面に触れた状態で指を滑らせることによって、スリープ状態の画面が開く「スワイプ起動」が採用される。ガラスの問題も難題だった。彼はiPhoneのスクリーンをプラスチックではなくガラスにすることにこだわった。しかしポケットに入れて持ち歩く携帯電話では落とす可能性もあるから、傷がつきにくく強いガラスが必要になる。ここでもジョブズは頑なさを発揮して「ゴリラガラス」と呼ばれる特殊な強化ガラスの製造にこぎつける。

 こうして電話をかけたいときには数字のパッドが表示され、文字を入力したいときにはタイプライターのようなキーボードになり、別の何かをしたいときには必要となるボタンが表示されるという魔法のようなマシンが生まれた。しかも動画は画面いっぱいに楽しめる。いまでは誰もが普通に使っているものだが、そこに搭載されているシンプルな機能の一つひとつが、ジョブズのもとに集まったスタッフたちのクリエイティブなアイデアと技術の結晶だった。

 結局、賭けに勝ったのはジョブズだ。優秀なスタッフを限界以上に働かせて大きなリターンを手繰り寄せるというのは、たしかに彼にしかできない離れ業と言えるかもしれない。それにしてもなんのために、ジョブズは自らの命を縮めるような離れ業を演じたのだろう。演じつづけねばならなかったのだろう? ぼくたちの仮説によれば「友だち」を得るために、である。完成した製品を発表する。新しいガジェットを受け取って「めちゃくちゃすごい!」と言ってくれる。そうした「友だち」をジョブズは求めつづけた。

 ジョブズの矛盾した性格については多くの人が触れている。たとえば1997年にアップルに復帰したとき、仕事は自分のためではなく会社のためだと宣言して彼は年俸を1ドルとしたが、のちに会社への貢献からストック・オプションを提示されると、提示以上のオプションを要求して取締役たちを驚かせている。こうした人を混乱させるような言動は、しかし素直に受け取ればそれほど韜晦なものではない。

 会社のために年俸1ドルで働くというのは、ジョブズにとってアップルという会社がそうしたものだったからだろう。つまり会社は第一義的であり、カネは二義的である。IBMにもマイクロソフトにもライバル心をむき出しにすることの多かったジョブズだが、目標は競争に勝つことでもなければお金を儲けることでもない。可能な限りすごい製品を作ること、限界を超えてすごい製品を作ること。「すごい製品」が売れた結果として、お金が入ってくる。そういう順番になっている。

 とはいえ会社のトップが利益の出る製品を冷遇し、すごい製品を作りたいという情熱のほうを優先してしまうと、これはこれで問題だろう。殿のご乱心ということで、自分が作った会社から追放されることにもなる。だがアップルに復帰したあとも、彼がやり方を変えることはなかった。多少は大人になって「つぎはもっとうまくやろう」と思ったかもしれないが、その程度のことだった。このあたりがジョブズという人間の面白いところであり、強く興味を惹かれるところである。

 歪んだ一貫性とでも言えそうな彼の性格は、傍らに「友だち」というキーワードを置くとかなり見えやすくなる。常に「すごい製品」を作ることが第一義的だったのは、金儲けよりも「めちゃくちゃすごい!」と言ってくれる「友だち」を得ることのほうが大切だったからだろう。誰もが口を揃えるプライドの高さも、見方を変えれば孤独の裏返しのように思えてくる。ジョブズにとって矜持が満たされることと、孤独が癒されることは同じだった。だからこそ命を削ってまで「すごい製品」を作ろうとしたのだろう。

 顔の見えないユーザーの評価では事足りないのだ。ジョブズが求めたのはたんなるユーザーではなかった。このことはウォズニアックが作った「ブルー・ボックス」やアップルⅠを巧みに売りさばいたころから、おぼろげに見えていたことだ。ウォズニアックは根っからのマニアでありオタクであり、おまけに人柄もいいので、自分が作ったものを同好の士に無料でプレゼントしようと思った。しかしジョブズはこれをビジネスに結び付けた。商売して金を儲けようとは思ったのだろうが、そのとき彼の視野に入っていたのは一部のマニアではなかったはずだ。マニアやギークによってジョブズの孤独は癒されないからだ。

 1986年に買収したピクサーで、ジョブズは一般向けの般向けのコンピュータを販売したことがある。結果的に失敗だったわけだが、このあたりにも彼の人間性が出ているように思う。それまでピクサーのハードウェア販売先はアニメーターやグラフィック・デザイナーが中心だった。あるいは病院や国家情報保障局といった特殊な市場をターゲットにしていた。しかし法人やハイエンドの専門家を対象とする話には、ジョブズはあまり燃えない。こうしたユーザーは製品の機能を評価はしてくれても、「めちゃくちゃすごい!」と熱狂はしてくれないからである。つまり彼らはジョブズの矜持は満たしてくれるかもしれないが、孤独は癒してくれないのだ。

 孤独が癒されるためには、相手はたんなるユーザーではなく「友だち」でなければならなかった。このあたりからジョブズのビジネスのやり方は難しくなる。ときに強引で非情な面を見せながら、仕事上の駆け引きなどで卓越した手腕を発揮するジョブズだが、企業家としての判断や行動にはビジネス面からだけでは説明のつかないものがある。その感覚はどこか屈折していて、ときに人間臭いニュアンスを漂わせたり、深い陰影がついたりする。製品の種類を増やすことに反対したのも、その一つのあらわれだろう。

 もう一つ例をあげよう。iPodは同期を一方向にして違法ダウンロードを防ぐ設計になっている。つまりコンピュータからiPodに曲を送れるが、逆にiPodからコンピュータへは転送できない。こうすればiPodから別のコンピュータに曲をコピーするといった行為ができなくなる。かわりにシンプルで安全、かつ合法的な音楽ダウンロードを提供したいとジョブズは考える。そして生まれたのがiTunesストアだ。彼は自分の製品を使ってくれる「友だち」に音楽を盗むようなことをしてほしくなかったのではないだろうか。「盗みはいけないんだよ。他の人たちを傷つけるし、自分の人間性も傷つけてしまう」とのちに語っている。彼一流のメッセージは本心だったように思える。

 顧客をたんなるユーザーや消費者ではなく「友だち」として見たこと。少なくとも、そうしたニュアンスをビジネスのなかに持ち込んだこと。この点が他の企業リーダーと比べてみたとき、ジョブズの際立った特徴であり、それは総じていい結果をもたらしたと言える。たとえば1998年8月に発売されたiMacは、発売から6週間で27万8000台が、さらに年末までに80万台が売れたが、その32%がコンピュータをはじめて買う人だったと言われる。つまり彼は首尾よく新しい「友だち」をつくり出したわけだ。

 こんな具合にジョブズは新しい市場を生み出していった。しかも一度ではない。iPodでもiPhoneでも、それまで存在していなかった市場をつぎつぎと可視化し、実体化していった。ジョブズには市場をつくり出す能力があった。それはそうだろう。誰にも見えていない消費者や顧客が、彼には「友だち」として見えていたのだから。

 逆に考えてみよう。仮にジョブズが「友だち」というキーワードをビジネスに持ち込まなければ、たとえばiPhoneは生まれただろうか? 「友だち」に届けるというコンセプトを彼が頑なに守りつづけたからこそ、徹底したオブジェクト指向は生まれたと言えるし、それは結果的に子どもから老人まで面倒くさいマニュアルを見なくても、指一本で操作できる画期的なガジェットを生み出した。誰も考えたことさえなかった数十億規模の市場をつくり出したのである。

 なんともまわりくどく大仰な手を使ったものだ、と言えないこともない。ぼくたちなら一人の親密な友だちを得れば済むところを、ジョブズの場合はiPodやiPhoneやiPadといった「宇宙に衝撃を与えるような製品」をつぎつぎと生み出し、自分の会社を世界有数のテクノロジー企業に育て上げなければならなかったのである。彼に決定的に欠けているのはこうした自然さだろう。誰もが自然にやっていることが、彼には不可能に近いほど困難だった。普通のことを自然にやるために、世界をひっくり返してみなければならなかった。

 すでに見たように、ジョブズには強い孤独感がある。孤立感と言ったほうがいいかもしれない。たとえばレストランに入る。気に入らない料理には手も付けない。顔を背けるようにして下げさせる。一口味をみてダメなら、満足がいくまで何度でも取り替えさせる。ジョブズについて書かれた本を読むと、こうした話がぞろぞろ出てくる。それはぼくたちを戦慄させる。「こんな状態では、ひと月と生きていられそうにない」と冗談ではなく思う。

 まるで自分一人の惑星に彼一人が住んでいるかのようだ。あるいは彼以外の者はすべて異星人であるかのようだ。ひょっとするとジョブズのなかでは、70数億対一人というバランス感覚になっていたのかもしれない。孤独地獄をも想わせるほどのすさまじい孤立感が、普通の人には見えない「友だち」をつくり出した、とは言えないだろうか。

 アップルに復帰してからのプレゼンテーションで、ジョブズはこんなことを言っている。「アップルのコンピュータを買う人というのはちょっと変わっていると思う。アップルを買ってくれるのは、この世界のクリエイティブな側面を担う人、世界を変えようとしている人々なんだ。そういう人のために我々はツールを作っている。」あるいは「我々も常識とは違うことを考え、アップルの製品をずっと買い続けてくれている人々のためにいい仕事をしたいと思う。自分はおかしいんじゃないかと思う瞬間が人にはある。でも、その異常こそ天賦の才の表れなんだ。」(いずれもアイザックソン、2011)

 ぼくには「友だち」に向けてのメッセージのように聞こえるのだが、どうだろう? そのメッセージには、紛れもなく死を予感させるような寂し気なトーンが流れている。めちゃくちゃすごい製品によって彼らとつながることで、底なしの孤独から抜け出したいという思いは、限られた命を燃え尽くすまでに強かったのだろうか。

Photo©小平尚典