あの日のジョブズは(14)

あの日のジョブズは
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14 ウォーホル、ベートーヴェン、ドストエフスキー、そしてジョブズ

 何年か前のこと、ある街のアップル・ストアに立ち寄った。新型のiPhoneが発売されたばかりだったのだろう。店内の壁一面に、色とりどりのスマートフォンが整然とディスプレイしてある。それが一枚のタブローを思わせ、近くにいたスタッフに「ウォーホルみたいだね」と話しかけていた。あいにく意味は通じなかったようだ。

 アンディ・ウォーホルの作品には複製(コピー)を強く意識したものが多い。有名な「マリリン」はシルク・スクリーンで刷ったマリリン・モンローの顔に彩色を施したものだ。シルク・スクリーンというのは一種の謄写版印刷だから、手法からしてコピーである。また作品に使われた画像は、映画『ナイヤガラ』のスチール写真である。さらに彩色を変えた「マリリン」を何枚も並べて一つの作品とする。同様の手法はエルヴィス・プレスリーでもエリザベス・テイラーでも毛沢東でも、メルセデス・ベンツなど人以外のものでも使われている。スープ缶の同じ絵を並べて見せることもある。

 こうしたウォーホルの作品と似たものを、アップル・ストアに並べられたiPhoneにも感じたのである。ウォーホルが商業デザインから出発したことも関係しているのかもしれない。それ以上に、ウォーホルには意図的に芸術の商品性を強調するところがあった。実際、彼の作品はTシャツをはじめさまざまな商品に使われている。デパートのトイレでは頻繁に「フラワーズ」などのポスターと遭遇する。ウォーホルの仕事場は「アトリエ」ではなく「ファクトリー(工場)」と呼ばれた。これに倣えば、ジョブズのほうはファクトリーをアトリエに見立てたと言えるかもしれない。少なくとも本人はそうしたかったのではないだろうか。

 ウォーホルの作品が「芸術」かどうかという議論は以前からあるけれど、面倒くさいのでスルーしよう。ここでは「カッコいい」という言葉を使わせてもらう。「ポップ」と言ってもいいかもしれない。芸術かどうかはともかく、多くの人がウォーホルの作品をポップでカッコいいと思っている。だからアマゾンでは彼のポスターやカレンダーがたくさん売られているのだろう。カッコいいものは現在のぼくたちの感覚では「美」の範疇に含まれる。美を喚起するものを「アート」と呼べば、ウォーホルの作品は紛れもなくアートである。

 そしてiMac、iPhone、iPadなどのアップル製品も、やはり他のメーカーのものに比べてカッコいいと感じる人は多いようだ。いくらか割高でもiPhoneを選ぶ。とくに日本では異常に人気が高いようだ。彼らにとってiPhoneは一種のアートなのだろう。すると生みの親であるジョブズはアーティストということになる。彼が生み出したのはきわめて実用性の高い工業製品である。一方、ウォーホルのほうは実用品を生み出したわけではない。絵がTシャツやポスターに使われたからといって、絵とTシャツやポスターとは直接的には関係がない。Tシャツやポスターがなくても、「マリリン」や「フラワーズ」はそれ自体で作品として成立している。しかしiPhoneやiPadのような製品のデザインは、携帯電話やパソコンやカメラの機能を備えたモバイル機器と一体のものである。デザインだけを切り離して考えることはできない。

 ジョブズはアップル社が世に送り出している工業製品を自分たちの「作品」と考えていた。そしてアップルの製品を使っている人たちの少なからずが、MacやiPhoneやiPadをジョブズの作品と思っている。明確に自覚していなくても、頭のどこかにそういう意識があったように思われる。

 ベートーヴェンは貧乏だった。南京虫に噛まれるような病床だったという。不遇と貧困のなか、彼が死んだのは1827年3月26日のことだ。その日は嵐で、激しい吹雪のなか雷が鳴っていたという。超一級の交響曲を9つも残し、とくに『英雄』や『運命』や『田園』などは数限りなくレコードが発売され、日本ではなぜか大晦日になると『第9』が国土の津々浦々で演奏される。それだけではない。ピアノ曲の新約聖書と言われる32曲のピアノ・ソナタ、深みと滋味に溢れた16曲の弦楽四重奏曲、他にも「エリーゼのために」という超ポピュラーな小品など……人類に計り知れない美と喜びを与えてくれた男が、最期は南京虫に噛まれながら果てたのだ。レ・ミゼラブル。

 それを言うならモーツァルトだって悲惨だ。『アマデウス』という映画をご覧になっただろう。学術的には問題が多いとされる映画だが、埋葬シーンは歴史的事実にかなり忠実に描かれているらしい。最後の場面、粗末な毛布に包まれた亡骸はウィーン郊外の共同墓地にポイッと捨てられ、上から白い石灰みたいな粉をかけられて終わりである。おかげで埋葬された正確な位置はわからず、遺骨も所在不明のままだという。現在はザンクト・マルクス墓地の「このあたりだろう」と考えられている場所に「嘆きの天使」像が立っている。なんてことをしてくれたのだ、コンスタンツェ! 旦那の葬式代くらい残しておけよ。

 それにしても。あの大天才のモーツァルトが最後は粗大ごみである。もし著作権という制度があったなら、軽くビートルズとマイケル・ジャクソンとバート・バカラックをあわせたくらいの印税が入っていたはずなのに。ウィーンで冷や飯を喰わされつづけた不運なモーツァルト、いまならオーストリアが買えるくらいの大金持ちになっていただろう。

 そもそもクラシック音楽の歴史において、金持ちの音楽家などいただろうか。バッハはライプツィヒの教会のオルガン弾きと音楽監督を兼任して生涯を終えた。同時代のヘンデルはバッハに比べるといくらか有名だったようだが、巨額の富を成したという話は聞かない。ハイドンはエステルハージ侯爵の篤い庇護を受けながら幸せな一生を送ったものの、やはり蓄財とは無縁だったようだ。こんなことをいつまで書いていてもきりがないが、とにかく音楽家は貧乏だった。

 音楽家に輪をかけて貧乏なのは画家である。なかでもゴッホは不憫である。昨今のオークションでは何十億という値がつくことさえ稀ではないのに、生前はほとんど一枚の絵も売れなかった。辛うじて弟テオの援助によって絵を描きつづけたゴッホは、せめてもの罪滅ぼしに画商をしていた弟に自分の絵を送りつづけたのである。そのテオも兄ヴィンセントのあとを追うように、ゴッホの死から半年後に亡くなっている。33歳だった。なんと不憫な兄弟だろう。ゴッホの絵で儲けているやつは誰だ!?

 とにかく芸術家は不遇と貧困のうちに生涯を終えることになっている。ジョブズの場合はどうか。間違っても貧困とは言えないだろう。だったらジョブズは芸術家ではない。しかしアーティストではあるらしい。昨今、うまくやればアーティストは儲かるのだ。だが彼の肩書はアーティストではない。ビジネスマンである。たしかに才覚という点では、ジョブズにはビジネスがいちばん向いていただろう。同時に彼はアーティストだった。しかもパソコンや携帯電話といった工業製品をアートにしてしまった。工業製品だから大量生産が可能である。それにアートとしての値段がつく。金持ちになるわけだ。こんなことを成し遂げたのは歴史上、ジョブズがはじめてではないだろうか。

 工業製品が芸術になった例はある。有名なのはマルセル・デュシャンの「泉」だろう。いわゆる「レディメイド」と呼ばれる手法で、既製品の男性用小便器に適当にサインをしてアンデパンダン展に出品してしまった。1917年のことだ。これをもって現代美術の幕は切って落とされた、というのは半分くらい定説になっている。しかしジョブズがやろうとしたことはデュシャンとはまったく違う。デュシャンのやったことは、音楽でいえばジョン・ケージの「4分33秒」みたいなことだ。ケージの「4分33秒」が音楽の本質、つまり音を聴くという行為への再考を迫るものだったように、デュシャンのレディメイドは美術や芸術とは何かを、もう一度人々に考えさせる契機を与えるものだった。それらは言葉を介しなければ面白くもないし、また理解できないものだ。

 ジョブズがやりたかったのはそういうことではない。まったく違う。むしろデュシャンはケージとは正反対のことだ。難しい理屈や文脈は抜きにして直観的に、直情的に「最高にクールなもの」を人々に提供したかった。そのために彼はデザインを重視した。見た目と手触りで何かを伝えようとした。その結果、ジョブズがディレクションしたものはきわめてユニークな「アート」としての性格をもつことになった。

 では、実際にジョブズは何をやったのか? あるいはやらなかったのか。伝記のなかから拾っていくと、とにかく人を罵倒していたようだ。罵ったり、悪態をついたりするのが仕事だったかのようでさえある。本人が執筆を依頼したというオフィシャルな伝記(アイザックソン、2011)でも、彼の尊大さ、逆上ぶり、冷酷さ、非情さは際立っている。際立ちすぎて読んでいていやになるほどだ。控えめに言っても嫌なやつだった。カジュアルな言い方をすれば「クソ野郎」ということになる。

 それだけならただの性格破綻者だ。友だちが一人もいなくなるタイプの典型である。ところがジョブズのまわりには常に優秀なスタッフが集まっていた。ただその入れ替わりは早く、長く彼についていく人は少なかったようだ。好意的に見れば、ジョブズがひとところにとどまらず、絶えず前に進みつづけたせいかもしれない。自分に付いてこられない者は容赦なく切り捨てる。スタッフのほうでも罵倒や恫喝に絶えられない者は自らチームを離れていく。そうしてジョブズはチームを率いつづけた。その成果として、たとえばマッキントッシュというユニークなパーソナル・コンピュータが誕生した。もしトップに立つ人間が彼以外の者だったら、マックは別のものになっていただろう。それはジョブズに反感をおぼえる者も含めて、誰もが異口同音に口を揃えることだ。

 大きな人格的欠陥を抱えながらも、ジョブズには稀に見るカリスマ性があった。これも衆目の一致するところである。ところで、この「カリスマ性」なるものがなかなかとらえにくい。言葉でうまく定義できるものではないようだ。また努力して身に付くものでもないという気がする。試しにグーグルで検索すると、「カリスマ性のあるビジネスパーソンになる方法」みたいなコンテンツが幾つもヒットする。「他人を統率する才能や魅力をもった人」「リーダーシップを発揮し、人々を上手にまとめることができる人」「魅力のある言動ゆえに部下から慕われる人」などとカリスマ性を一般化したうえで、カリスマ性をもつ人の特徴や条件が列挙してあるわけだが、この段階で肝心のカリスマ性は失われていると考えたほうがいいだろう。

 あるサイトには「感情的にならず、どんな状況でも冷静に対処できる」とか「人の話にきちんと耳を傾けられる」とか「いつも前向きで明るい表情を絶やさない」とか書いてあり、思わず笑ってしまった。ジョブズにできなかったことばかりだ。まるでオペラ・セリアの世界である。

 ちょっと音楽の話をさせてもらうと、「セリア」とはシリアスを意味するイタリア語で、オペラ・セリアはバロック時代に主流だった真面目なオペラのことだ。モーツァルトも『イドメネオ』や『ティートの慈悲』など幾つかのオペラ・セリアを書いているが、時代的には廃れつつあったらしく、代表作ということになれば『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』といったオペラ・ブッファ(喜劇オペラ)か、『魔笛』のようにドイツ語で歌われるジングシュピールということになるだろう。

 ぼくたちが観たり聴いたりする場合、オペラ・セリアはとても退屈だ(あくまで個人の感想です)。それは宮廷生活を反映したもので、感情の起伏をもっとも嫌う。当時の宮廷では、感情の爆発は敗北のしるしとされていた。ここでもう一度笑ってしまおう。ジョブズには絶対にバロック時代の宮廷生活は無理だ。カストラートがジョブズ役を歌うオペラ・セリアなんて、想像するだけで楽しいけれど、いまはそういう場合ではない。

 要するに、ジョブズのキャラクターに近づこうと思えば、インターネットのサイトにあるような、「カリスマ性を身に付けて好感度を上げるためのトレーニング方法」とは正反対のことをやればいいということになる。何本か作られた映画で彼を演じた俳優さんたちは、そうした指南書によって役作りをしたのではないだろうか。本人に似ていることで話題になったアシュトン・カッチャーにしても、ジョブズの性格面にスポットを当てたダニー・ボイルの映画でのマイケル・ファスベンダーにしても。

 まるで引火性の強い火薬みたいにすぐ感情的になり、相手を口汚く罵る。人の話はまともに聞かず、「こいつはなんにもわかっちゃいない」と切り捨てる。カリスマ性をもつ人の特徴や条件として、まさにあってはならぬことである。「あんなものはアートじゃない。クソみたいなものだ」とか「こんなものはガラクタだ。誰でももう少しましなものが作れるぞ」とか、そんなことをしょっちゅう言っていたらしい。会議では「この大馬鹿野郎が。なにひとつまともにできんのか」などと怒鳴ることが日常化していた。前向きではあったのかもしれないが、どこから見ても「明るい表情を絶やさない」というタイプではない。さらに平気で嘘をつく、約束を忘れる、他人のアイデアを自分のものにしてしまう、といった悪癖もあった。

 こうした人間失格すれすれ(というか完全に人間失格)の面を含めて、ジョブズには絶大なカリスマ性があったわけだ。それは間違ってもグーグルの検索に引っかかってくるようなものではない。ジョブズの言動を追っていると、ぼくはドストエフスキーの小説を読んでいるような気分になる。ドストエフスキーの小説の特徴をひとことで言えば、登場人物たちの振れ幅がとても大きいということだ。善良さと狡猾さ、崇高さと卑屈さ、気品と粗野、謙虚と傲慢、美しさと醜さ、それらが人間という器が壊れるぎりぎりのところまで盛り込まれている。しかも勧善懲悪ではなくて、一人の人間のなかに正負、善悪といった両極端なものがある。

 堅苦しいオペラ・セリアの世界から自由になり、封建社会の厳格な掟を解かれた近代の人間。彼らは欲望や感情に流されるままに騙したり、脅したり、強請ったり、謀ったり、陥れたりと、まるでモーツァルトの『フィガロの結婚』や『ドン・ジョヴァンニ』に出てくる者たちのように振舞う。ときには激情にかられて喧嘩をしたり、自重する心を忘れて本音をぶつけて議論し合ったり、やんごとない事情から人を殺めたりもする。

 神や王が権威を失った近代という時代に現れた人間は、やることなすことみんな違っているけれど、概してどうしようもないところは共通している。この者たちの上面を引っ剥がしてみると、しかし身分の高い低いにかかわらず、また貧富の差や教養のあるなしにかかわらず、そこには卑小な偉大さや卑近な崇高さがみとめられる。ドストエフスキーが認識していた「人間」とはそのようなものだった。

 たとえば『罪と罰』のマルメラードフは、娘のソーニャに売春をさせて暮らしている酒に溺れたダメおやじでありながら、そのことを自覚して良心の痛みを人一倍感じている。しかも自分のみじめさと劣等感を語るのに異常に熱心な元官吏は、彼自身の言葉で親鸞の悪人正機のような驚くべき思想を語ったりもするのだ。また『白痴』の青年侯爵ムイシュキンは世間知らずの馬鹿者と嘲られながら、内面に深い孤独を宿し、虐げられた女性を救いたいという清らかな良心の持ち主である。ドストエフスキーの小説には、このタイプの人物が数知れず出てくる。

 ジョブズの矛盾した性格については多くの人が証言している。とにかく感情の起伏が激しく、それに応じて言動は極端なものになる。しかも時と状況によって態度や意見がころころ変わる。かつてのスタッフの一人は、「高電圧の交流のようにジョブズの考えは大きく変化する」と述べている。『罪と罰』のなかで友人のラズミーヒンがラスコーリニコフについて、「あいつは気前が良くて親切だ。それでいて人間とは思えないくらい冷酷になることがある。まるであの男のなかに二つの正反対の性格があって、代わる代わる出てくるみたいに」と語るシーンがある。これはそのままジョブズという人間に当てはまりそうだ。

 ジョブズの極端な二面性、あるいは多面性は何に由来するのだろう。ドストエフスキーが示唆するところによれば、その大きな要因は出口のない孤独感、孤立感である。『白夜』や『地下室の手記』などの小説には、まわりの人たちと日常的な感情の交流ができず、病的なまでに孤立感を深めている人間が主人公として描かれている。

 ラスコーリニコフも典型的にこのタイプである。外界や他者との交感能力の欠如。何ものにも共感できない隔絶感が彼を檻のなかに閉じ込めて、幼稚なエゴイズムにまみれた殺人を空想させる。また身勝手な正義や強者にかんする観念を肥大させる。挙句に金貸しの老婆とその妹を斧で殴り殺したあとも、彼には自分がやったことのように思えない。他人事のようにしか感じられないから後悔の念も湧かない。そもそも悔いたり喜んだり悲しんだりする感情そのものが正常に機能しなくなっていることが、ラスコーリニコフの抱えている問題であり、彼を深い孤立に閉じ込めている原因なのだ。

 一方で、彼は他者との親密な交わりを求めている。孤立感が強いだけに他者を求める気持ちも強い。自分を孤独の檻のなかから救い出してくれる人間を切実に求めている。だが現実の人間関係のなかでその思いはかなえられそうにない。裏切られることも多い。だから余計に孤独に閉じこもってしまう、という悪循環に陥っている。最終的にラスコーリニコフは娼婦ソーニャによって蘇りを体験するわけだが、そのために彼は罪のない二人の女性を殺さなくてはならなかった。

 孤立しているという点では、『白痴』のムイシュキン伯爵も同様である。てんかんと精神障害という持病を抱えていることもあり、この青年の心の最深部には、自分がこの世界でたった一人異物であるという感覚が横たわっている。彼は人や自然とのつながりが極めて希薄な人間である。そのことがムイシュキンの病の核心と言ってもいい。

 だが孤独が深く、人や外界とのつながりが希薄であるからこそ、つながりたいという欲求も強い。彼は自分を傷つけない善良な人間を求めている。こうして純真な博愛主義者であるムイシュキンと、金持ちの地方貴族に囲われているナスターシャが出会う。彼女の身の上を知ったムイシュキンは、自分は汚れていると思っているナスターシャに「あなたは清らかな人です」と言って結婚を申し込む。つまりムイシュキンは弱者への無条件の共感によって孤立から抜け出そうとするのである。

 ジョブズにも強い孤独感があったように思われる。ラスコーリニコフやムイシュキンと同じように、孤独から抜け出したいと切実に思っていたのではないだろうか。伝記を読んでもわかるように、彼には称賛されたいという気持ちが異常に強い。辛辣でときには冷酷な態度で自分を守りながらも、同時に「すごい」と言ってくれる人たちを切実に求めていた。それが彼を「宇宙に衝撃を与えるような製品」を生み出すことに向かわせ、とりわけデザインへの独特のこだわりを生んだ。ジョブズの考えるデザインとは、何よりも孤独から抜け出すための手段だった。彼は「美」を介して人や世界とつながろうとしたのではないだろうか。

Photo©小平尚典