あの日のジョブズは(10)

あの日のジョブズは
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10 世界を変える

 

アップルが世界的なパーソナル・コンピュータ企業になったころ、ジョブズは「コンピュータが一人一台の世界になれば何かが変わるはず、10人に一台の世界とはまったく違ったものになるはず、10人に一台の世界とはまったく違ったものになるはず、そう思ったから会社を作ったんだ」と言っていたらしい。「コンピュータの使い方を学ばなければならないという障壁を取り除きたいと思っている」とも語っている(ブレントン・シュレーダー/リック・テッツェリ、2016)。実際に、アップルはそうした製品をつぎつぎと生み出していくことになる。

 コンピュータというパワフルなテクノロジーを多くの人が使えるようになったときに何かが起きる。何が起きるのかわからない。何かが変わるのは間違いない。世界が、人間そのものが。なぜなら一人ひとりが自分のコンピュータを持つようになれば、人々の行動様式が変わるからだ。おそらく思考様式も変わるだろう。つまり未来が変わるのだ。

 ジョブズには革命家としての一面がある。ただ彼のなかに、どういう世界にしたいかという明確なヴィジョンはなかったように思う。この世界を変えるようなことを起こしたい。起こったあとのことまでは責任をもたない。ジョブズらしいけれど無責任でもある。

 もう一つ、彼は言葉や暴力によってではなく、テクノロジーによって世界を変えようとした。もっと正確にいえば、テクノロジーと人間の関係を変えることで世界を変えたいと思った。また変わるはずだと信じていた。同じことを言ったのは彼が最初ではないかもしれないが、ジョブズほど強い説得力をもって人々に訴えた者はいない。彼には頑なな信念と熱意があった。最後は文字通り命がけのものになった。その本気度が多くの人に伝わったのだと思う。

 ジョブズがこだわったのは「自分のコンピュータ」ということだった。これはたんに「一人一台」ということではない。使う人が自分を表現し、新しい可能性を引き出せるマシンでもある。そのために彼はシンプルさを求めた。普通の人が思いのままに使えるソフトウェアとハードウェアを提供する。しかも人間味が感じられなければならない。美しさや感動といった人間的魅力を備えていなければならない。いつもそうだが、ジョブズが設定するハードルは非常に高い。

 ユーザー・インターフェイス。ジョブズが何よりも魅了されていたのはコンピュータと人との接点だった。それはときとして時代や顧客のニーズと合わないこともあった。過剰なこだわりは会社を低迷させ、結果的に本人がアップルを追放される一因にもなった。同時に、アップルというブランドへの根強い人気と信頼を築き上げることにもなった。

 いまでもアップルの製品を使うことに、ユーザーは大なり小なりのこだわりをもっている。なかには「信者」と言ってもいいほど強い思い入れを抱いている人もいるようだ。iPhoneやMacやiPadを使うことは、他社の同じような製品を使うこととは違う体験なのだ。この特別な体験を多くの人が求めたことで、たしかに世界は変わった。いまも変わりつつある。どう変わったのか? いいほうに変わったのか? 変化はぼくたちに何をもたらしたのか?

 1975年、ホームブリュー・コンピュータ・クラブでジョブズとウォズニアックが出会い、二人で会社を立ち上げたころ、コンピュータの世界に「パーソナル」という言葉はなかった。それどころかコンピュータはパーソナルからはもっとも遠い世界のものだった。現代型のコンピュータの特性を備えた世界初の機械は1945年11月に完成したENIACと言われている。Electronic Numerical Integrator and Computerは直訳すると「電子式数値積分計算機」となる。その目的は対ドイツ戦でヨーロッパに配備される大砲の弾道を計算することだった。

 しかし普通の人が家で使えるコンピュータという意味での「パーソナル・コンピュータ」というコンセプト自体は、1945年にはすでに現れている。この年、アトランティック誌に発表された「我々が思考するように」という論文のなかで、著者であるヴァネヴァー・ブッシュは現在のパーソナル・コンピュータにつながるヴィジョンを示し「メメックス」と呼ばれる個人用コンピュータを構想している。マウスの開発者として知られるダグラス・エンゲルバートなどにも大きな影響を与えたとされる論文である。(ウォルター・アイザックソン、2019)

 しかし60年代をとおして、コンピュータはパーソナルな方向に発展することはなかった。それはなお巨大で高価、かつ細かく保守する必要があり、とても個人で所有できるものではなかった。特殊な研究機関で軍事や宇宙開発のためにタイムシェアリング(一台のメインフレームに多くの端末をつなぎ、何人ものユーザーがコマンドを入力することで操作する)で使うものであり、一般人には触れる機会さえほとんどなかった。

 1970年代に入り、DEC(デジタル・イクイップメント・コーポレーション)がPDPシリーズと呼ばれるミニ・コンピュータを作るようになっても、業界では普通の人が所有し、机の上に乗せて使えるモデルに需要があるとは考えられていなかった。1974年に当時の社長は「個人が自分のコンピュータを欲しがる理由など思い当たらない」と断言している。

 その一方でムーアの法則は働きつづけ、トランジスタやマイクロ・チップは高性能化し、小型化していった。これを後押ししたのが冷戦下の軍事的な需要と、ジョン・F・ケネディ大統領が打ち出した宇宙開発計画である。ミニットマン・ミサイルを誘導するのにもアポロ・ロケットを誘導するのにも大量のマイクロ・チップを必要とする。政府関連での大量の需要が見込まれることから単価は急速に下がっていく。こうして一般消費者向けのデバイスにもマイクロ・チップを載せられる市場が生まれた。

 一人に一台とはいかないけれど、一家に一台のコンピュータがやって来た。電卓である。これこそ、ぼくが最初に触れたコンピュータ(電子式計算機)だった。ミニットマン・ミサイルとアポロ・ロケットは、日本の小都市で暮らす公務員一家に電卓を運んできたのだ。中学生のときだから1972、3年だろうか。四六判の本くらいのサイズの電卓を、うちの母は夜な夜な家計簿をつけるのに使っていた。一方で小学生の妹はそろばん教室に通っていた。時代は大きく変わろうとしていた。

 調べてみると、1964年に発売された早川電機(現シャープ)のCS-10Aは535,000円。なんと、あのちゃちな電卓が当時のお金で50万円もしたのだ。1965年にはカシオが電卓に参入、その001型は380,000円。まだまだ高価である。しかしムーアの法則がいよいよ本領を発揮しはじめる。それまでの電卓は電子回路にラジオ用のトランジスタを用いていた。このため計算機は大型で高価になる。代わりにICやLSIなどのマイクロ・チップを使おうと考える人たちが現れる。

 これは複数の回路を数センチ四方の基盤に組み込んだものだから、おのずと計算機は小型化し軽量化される。1967年のアメリカのテキサス・インスツルメントがICを使った重量1㎏ほどの携帯型電卓を開発。同じころインテル4004をはじめとして、テキサス・インスツルメントやフェアチャイルドなどの半導体メーカーがTMS1000やPPS25といった高性能のマイクロ・チップを開発する。

 LSIの登場で電卓の価格は一気に下がりはじめる。1969年、シャープが世界初のLSI電卓を開発。価格も99,800円と10万円を切ったことから爆発的なヒット商品となった。1971年、ビジコンが電池駆動のポケットサイズ電卓を発売。価格は89,800円。さらに立石電機(現オムロン)が5万円を下まわる電卓を発売。たった5年ほどで電卓の値段は十分の一になった。1972年になるとカシオが12,800円の電卓を発売。このころから電卓業界は価格破壊の様相を呈してくる。そしていま電卓は百円ショップで売られている。

 1976年、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が出版される。ぼくは高校3年生で、文学好きの友だちが作品について話していたのをおぼえている。さらに時代が下って1979年、村上春樹が『風の歌を聴け』でデビュー。そのころぼくたちはピンボールではなくインベーダー・ゲームに夢中だった。正式な名前は「スペース・インベーダー」、タイトーというゲーム会社が発売したアーケード・ゲームである。隊列を成して近づいてくるインベーダーを、左右に動く砲台で撃ち落としていく。いちばん下までおりてくるとゲーム・オーバーだ。そうなる前にインベーダーを全滅させなければならない。だがインベーダーは数が減ると移動速度が速くなってくる。だめだ、占領された!

 あれはなんだったのだろう。大学3年生の夏休み、ぼくたちは郷里の喫茶店に入りびたり、氷が解けて薄くなったアイスコーヒー一杯で延々と百円玉を機械に投入しつづけた。いまから考えると、インベーダー・ゲームこそぼくたちが最初に触れたコンピュータ・ゲームだった。侵略者を動かしているのはもちろんアルゴリズムである。敵はこちらを認識すると攻撃してくる。かなり複雑なアルゴリズムで動いていたのではないだろうか。ぼくたちはインベーダーと戦いながらコンピュータとも戦っていたのだ。これがのちにチェスのディープ・ブルーやアルファ碁へと進化していくとはつゆ知らず。

 もう一つ、ぼくたちは1979年のインベーダー・ゲームをとおして、コンピュータは計算などの実務的な処理を行うだけではなく、一緒に遊ぶものでもあることを体験した。小型テーブルほどのかさばる代物ではあったが、簡単なグラフィック・ディスプレイを備えおり、レバーを動かしたりボタンを押したりという簡単な操作によってプレイすることができた。つまりコンピュータを自分の手でリアルタイムに応答させることができたのだ。

 いまから考えると、インベーダー・ゲームはパーソナル・コンピュータの要素をほとんど兼ね備えていたことになる。しかし当時はそんなことに気づくはずもなく、夏休みが終わるとゲームにたいする情熱は嘘のように冷めてしまった。ぼくにとってそれはひと夏の体験に過ぎなかった。

 だが、熱が冷めなかった人たちもいた。サンフランシスコのベイエリアにも、ぼくたちと同じようにコンピュータ・ゲームに夢中になった若者が大勢いたはずだ。彼らの一部は筋金入りの電子機器のマニアで、のちに「ハッカー」とか「ギーク」とか呼ばれるようになる。無線機を改造して盗聴を働いたり、電話をただでかけたり、といったことに夢中になるタイプの連中だった。もともといたずら好きの気質をもっていたのかもしれない。彼らにとってコンピュータ・ゲームは格好の遊び道具であるとともに、自分たちの技術を試す実験の場でもあった。

 こうした人たちのなかから、自分で会社を立ち上げようという者が現れてくる。ゲーム会社「アタリ」を設立したノーラン・ブッシュネルもその一人だった。彼が1972年に作ったゲーム・マシン「ポン」は、単純なピンポン・ゲームだ。このマシンが大ヒットして会社は徐々に大きくなっていく。1974年、リード大学を中退してロス・アルトスの自宅に戻っていたジョブズが、「雇ってくれるまで帰らない」と言ってもぐりこんだ会社である。

 そのころHP社に勤めていたウォズニアックはアタリ社の近くのアパートに住んでおり、夜になると会社にやって来てビデオ・ゲームで遊んだりしていた。1975年、ブッシュネルはポンの改良版(「ブレイクアウト」)の開発をジョブズに指示する。ジョブズはウォズニアックを巻き込んでこれを完成させる。それ以前にも二人は「ブルー・ボックス」という怪しげな機械で小銭を稼いだことがあった。1971年、ある雑誌にAT&T社の交換機に使われるトーンをつくり出すことで、長距離電話をタダで書ける方法を見つけたハッカーの話が紹介されていた。それを読んだウォズニアックはデジタル式発信機「ブルー・ボックス」を自分で作ろうと思い立ち、完成にこぎつける。これを金儲けに結び付けたのはジョブズだ。彼は必要な部品を調達し、出来上がった製品を売りさばいていった。

 すでにマイクロ・チップやRAM(Random access memory)などの部品が安くなっており、個人でもコンピュータを持てる時代になっていた。しかし製品として作っている会社はない。それなら自分で作ろうとウォズニアックは考える。こうして生まれたのが「Apple 1」と呼ばれる剥き出しのワンボード・マイコンである。ホームブリューの例会で紹介すると好評だったため、人のいいウォズニアックは回路図の無料配布をはじめる。ジョブズはこれをやめさせ、自分たちでプリント基板を作って販売しようと説得する。ウォズニアックが作ったものをジョブズがビジネスにしていく。いよいよ彼らの会社を立ち上げる時機が来ていた。

Photo©小平尚典