あの日のジョブズは(17)

あの日のジョブズは
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17 貧困をビジネスにする

 アップルの製品の頭に「i」が付くようになったのは1998年のiMacからだ。このときのマーケティング戦略が「シンク・ディファレント」であったことを考えると、「i」は人称代名詞の「I」、つまり「自分」ということだろう。自分のコンピュータ、自分を表現するコンピュータだ。ジョブズたちの狙いがユーザーの差別化だったことは間違いない。アップルの製品を使う自分は特別だと消費者やユーザーに思わせること。

 もう一つ、「i」は「インターネット」の「i」でもあるだろう。パーソナル・コンピュータと分散ネットワークの組み合わせは、いまでこそごく日常的な環境になっているが、オンライン・サービスやウェブが登場してくるのは、日本の場合は1990年代半ば以降である。ぼくの記憶では、そのころモデムはあったけれどルーターはなかったように思う。また家庭用のパソコンはかなり高価で、購入を決めるには家族会議に諮る必要があった。

 ジョブズのパーソナル・コンピュータにたいする考え方を見てもわかるように、それは個人が創造性を発揮するためのツールとして生み出されたものだった。アップルも「シンク・ディファレント」のようなマーケティング戦略によって、こうした側面を積極的にアピールしようとした。ジョブズたちがPCにかわる新しい戦略を打ち出してくるのは、デジタル・ハブ構想のもとにiTunesやiPodといったサービスや製品を生み出してくるころからだろう。実際、iPodはオンラインなしには考えられないガジェットだし、iPhoneもiPadもインターネットに接続しなければほとんど何もできない。

 このあたりからジョブズのビジネスも、当初の理想とは少しずつ乖離したものになっていく。彼が率いている会社の規模が格段に大きくなったこともあるだろう。ウォズニアックと二人で会社を設立し、1984年にマッキントッシュを発売するころまでのアップルは、IBMという巨人に果敢に立ち向かう新進気鋭のコンピュータ会社というところだった。しかし1997年に彼が復帰してからのアップルは、社名からも「コンピュータ」を外して文字通り世界有数のデジタル企業へと成長していく。

 ジョブズは自分の子どもたちにiPhoneやiPadなどデジタル機器の使用を制限していたといわれる。真相はわからないが、ありえることだと思う。だとすれば彼自身が、自分たちが生み出しているものの破壊性を自覚していたことになる。少なくとも幼い者たちにたいしては、iPhoneやiPadは何かを損なってしまうこと、大切なものを奪ってしまいかねないことを、ジョブズはよく知っていたのではないだろうか。

 シリコン・バレー企業の経営幹部やエンジニアの多くが、ある年齢(中学1年生くらい?)になるまでは、子どもたちにテクノロジーと無縁の生活を送らせているというのは有名な話だ。彼らは大切な子息令嬢を、たとえばタブレットを使って授業をしているようなところではなく、木製の学習机で勉強するような古き良き伝統的な学校に通わせる。そこで子どもたちはグループで絵を描いたり、お話をつくったりして豊かな感性や創造性を育んでいく。また料理や編み物をして、テクノロジーの便利さと引き換えに失われようとしているものの大切さを学ぶ。

 今後、学校教育のデジタル化は加速度的に進むと考えられる。GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)やネットフリックス、マイクロストといったテクノロジー大手が有名大学とタイアップして教育産業に進出してくるだろう。もちろんデジタル教育のなかで格付けがなされるはずだ。同じオンラインの授業でもスタンフォードやMITのものは高い。それでも実際に通うよりは安い。貧しい家庭の子どもたちは、さらに安いデジタル学校教育を受けることになるだろう。図書館や講義室のあるキャンパスで学べるのは、中学校に上がるまでデジタル機器の使用を制限されてきた子どもたちかもしれない。

 なぜシリコン・バレーのエリートたちは、伝統的な学校でお絵描きや編み物をさせているのだろう。そうして育まれる感性や創造性が、来るべき時代の「価値」になると考えているからだろう。毎晩家族で一緒に夕食をとり、子どもたちと一日の出来事について話をすることが大切だと思っているから、寝室でのスクリーン使用を禁止したりしているのだろうだろう。食後はスマホでLINEやゲームをするよりも紙の本を読むことを勧めているに違いない。

 デジタルな環境のなかで身に付くものは、誰もが手に入れることのできるものだから個人の差別化にはつながらない。また情報やコミュニケーションへの無制限なアクセスは、さまざまな点で子どもたちに悪影響を与える。だとしたらアップルやマイクロソフトやグーグルやヤフーは何をしていることになるのか? ひとことで言えば、「貧困をビジネスにしている」ということだろう。

 数年前にワシントン州を車で旅していたときのことだ。その夜はキャンプをすることになっていたので、必要な食料や飲み物を買おうと思い、目に付いたウォルマートに入った。店内をひととおり見てまわり、積み上げられている食品の種類と量に圧倒された。日本人のぼくたちからすると、一つひとつのパッケージが信じられないくらい大きい。しかも目に付く食料品は、パンやチップスやシリアルなど、炭水化物を主原料としたものが多い。それに冷凍ピザ、小ぶりのバケツほどもある容器に入ったアイスクリームなど。

 つまり低栄養・高カロリー・糖質まみれのものが揃っている。こんなものを毎日食べていたら、いったいどうなるんだろう? 結果は明らかだ。肥満した人たちがつぎつぎに訪れる。太っていない人を見つけるほうが難しい。しかも太り方が異常である。メタボなどという生易しいものではない。ぼくたちから見ると明らかに病気だ。なかには自分の足で歩くことのできない人もいる。体重を支え切れないのだろう。

 同じことがスマートフォンやタブレットなどのデジタル機器についても言えるのではないだろうか。こうしたガジェットを無造作に子どもたちに与えることは、ウォルマートで売っている食品を制限なく食べさせることに等しい。その結果、子どもたちは病的なまでに肥満して自分の足で歩けなくなる。そうした兆候はネット依存のようなかたちで、すでにあらわれているのではないだろうか。

 ワシントン州の中心都市シアトルにはアマゾンの本社がある。そこで目にしたのはウォルマートとは対照的な光景だった。昼休みにドッグランで犬を遊ばせるアマゾン社員のなかに肥満の人を見つけるのは難しい。カジュアルな服装で、多くは健康的な体系を維持している。きっと時間を見つけてジョギングをしたり、休暇はアウトドア・アクティビティを楽しんだりするのだろう。日常の移動手段は車よりも自転車といったタイプだ。ベジタリアンやビーガンもいるに違いない。

 どうやらローテクは贅沢品になっているらしい。子どもたちにデジタル環境を制限したり、オーガニックで健康的な食生活を送ったりできるのは富裕層の特権になりつつある。一方の貧困層は、デジタルなガジェットと糖質まみれのジャンク・フードで肥満し、自分の足で満足に歩けなくなっている。

 もう一つ例をあげよう。去年(2019年)大連に行った。中国製造2025と一帯一路の現在を視察して勉強する、というのが一応の名目である。地元の大学の先生方がアテンドしてくださった。最終日に観光を兼ねて一行で旅順を訪れた。ここには有名な203高地がある。正しくは東鶏冠山北堡塁、日露戦争の激戦地であり、一説によると1万5000人の兵士の命が失われたという。いくらか重い気持ちで帰路についた。

 大連へ戻る途中、道路わきにたくさんの露店が出ている。このあたりはサクランボの産地で、6月はちょうど実りの季節だ。それを地元の農家の人たちが売っているのである。笊に一杯が1000円ほどで、日本と比べると嘘みたいに安い。買って帰ってホテルでワインでも飲みながら食べようということになった。お金を払おうとしたら、日焼けした農家のおばさんが人民元は受け取れないと言う。取り出したのはスマホである。これで決済しろというらしい。ぼくたちは決済代行の手続きをしていないからモバイル決済はできない。仕方がないので、案内をしていただいた地元のスタッフに立て替えてもらった。

 中国がキャッシュレス社会だとは聞いていた。北京でも上海でも大連でも、露天商を含めて多くの店が人民元を受け取ってくれない。VISAやアメックスやダイナースなどのクレジットカードも、空港やホテル以外では使えないところが多い。だからといって、わざわざ銀聯を準備していくのも面倒である。というわけで買い物はずいぶん制約されてしまうのである。それにしても旅順の道端で売られているサクランボまでが、QRコードによるモバイル決済とは思わなかった。もはや中国全土、スマートフォンで決済できないシーンはないと言っていいかもしれない。

 モバイル決済の利点の一つは社会的コストの削減だろう。現金大国である日本の場合、現金決済インフラを維持するために、年間1兆円を超えるコストが発生していると言われる。もう一つの利点は、迅速な送金によって無駄な時間が減り、生活効率が良くなることだ。14億の人口を抱える中国では、これらが大きな意味をもつことは理解できる。一方で、無料で便利なモバイル決済の代償として、利用者は個人情報を提出しなければならない。収集した個人データによって、プラットフォーム企業などが収益を上げるというビジネス・モデルが出来上がっている。彼らもまた貧困をビジネスにしていると言えないだろうか。

 中国で見られるように、現金やクレジットカードを使えるのは一部の富裕層であり、それ以外の多くの人たちはモバイル決算に依らなければ生活できなくなっている。つまり貧困層にとってスマートフォンは必要不可欠のライフラインになりつつある。2010年にiPadが発売されたころ、グーグルがアンドロイドの提供をはじめる。先行するアップルのiPhoneに対抗して、グーグルもスマートフォンと端末とするビジネスに参入してきたことになる。

 1980年代、アップルはマッキントッシュのオペレーティング・システムをライセンスせず、多くのハードウェア・メーカーにライセンスしたマイクロソフトに市場をほぼ独占されてしまった。グーグルのやり方はかつてのマイクロソフトと同じだ。iPhoneはアップルという会社が設計から製造、販売まで行っている。一方のグーグルはモバイル専用端末のOSとしてアンドロイドを提供しているだけで、実際に携帯端末を開発し生産するのはサムスンンなどのメーカーだ。

 こうしてスマートフォンはコモディティ化していく。iPhoneのインスタント・ラーメン化である。スマートフォンがグローバル製品として世界市場へ進出するためには、商品のスペックを意図的にグレード・ダウンさせる必要がある。とくにBOP(Base of the Economic Pyramid)と呼ばれる低所得層は、途上国を中心に世界人口の約7割を占めるといわれる。彼らをターゲットとするには「Good Enough(それでいいんじゃない)」のレベルにとどめるほうが賢明なのだ。

 ジョブズには耐え難いだろう。彼は日清食品のカップ麺など絶対に口にしないはずだ。食べるとしたら超一流の料理人が腕によりをかけて作ったラーメンだ。だがジョブズのようなやり方は、世界市場ではオーバー・スペックになりかねない。パーソナル・コンピュータが普及していない国では、モバイル端末がその人にとって唯一の個人端末になる。社会経済体制をゼロから立ち上げるためのインフラとしてモバイルが位置づけられる。

 二十代だったころのジョブズは、「パーソナル・コンピュータで世界を変える」という野望を抱き、友人のウォズニアックと二人でアップル・コンピュータを興した。そして実際にアップルⅡやマッキントッシュといった世界を変えるコンピュータを世に送り出した。さらにiPhoneによって、彼は自らが切り拓いたパーソナル・コンピュータの歴史にひとまず幕を下ろしたと言える。そのころからアップルもジョブズ自身も、世界市場を相手にする貧困ビジネスに巻き込まれていくことになる。

 かつて「3分間で100億円を生む」と言われたプレゼンテーションでジョブズが華々しく発表したiPhoneは、いまではコモディティ化して「スマホ」と呼ばれ、地球規模での貧困と不幸の指標になっている。たとえばシリア難民にとっては生死にかかわる生活インフラになっている。白旗を掲げた4WDで無人の砂漠地帯を航行する家族の写真を見たことがある。内戦を逃れて隣国をめざす彼らにとって、スマホに搭載されたGPSは文字通りの命綱である。

 あるいはテロを決行するISの戦士たちにとっても、スマホは必携のものになっている。同志たちと連絡を取り合うのもスマホだろう。YouTubeなどに欧米のジャーナリストや日本人の人道活動家が斬首される動画を流して、世界の恐怖を煽るのにも使われる。末端の兵隊たちにとっては、コーランよりも必須アイテムと言えるかもしれない。さまざまな犯罪にもスマホが使われる。あの手この手の詐欺やカード情報などの抜き取り。SNSやネットを使った性犯罪。なりすまし投稿による誹謗中傷。個人や学校などにたいする脅迫。LINEでのいじめや仲間外れ。こんなことが身近で頻繁に起こっている。

 どうやら全世界的にスマートフォンを必要不可欠のアイテムとし、身体の一部分のように手放せなくなっているのは貧困層であり、困窮している人たちであり、虐げられた人たちであるらしい。さらに社会的に疎外され、不平や不満を募らせている人たちでもあるようだ。つまり貧しくて不幸せな人ほど、スマートフォンへの依存度が高いということになる。

 たしかに2007年の時点で、iPhoneにたいする人々の称賛はジョブズの矜持を満たし、彼の孤独を癒したかもしれない。だが、それから十年以上が経ち、スマートフォンやインターネットを日常とするデジタル環境は、70数億の人類に深刻な孤立と対立をもたらしている。それが意味するところは弱肉強食の世界の復活である。力のない者は虐げられ、貧困化していき、難民になったり犯罪者になったりテロリストになったりしている。

 これはいったいどういうことなのか。どうしてこんな世界になってしまったのだろう。どこで道を誤ったのか?

Photo©小平尚典