あの日のジョブズは(11)

あの日のジョブズは
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11 カリフォルニア・ドリーミング

 1960年代のはじめごろ、カリフォルニア南部ではサーフィンが大流行していた。サーファーたちの多くはバンドをやっていて、それなりに地元のファンをつかんでいたらしい。レコードとして残っているものはほとんどないから、生演奏でパーティを盛り上げる程度のものだったのだろう。やがて地元のラジオ局がサーフ・ミュージックを流すようになり、ディック・デイルの「ミザルー」などがヒットする。

 ウィルソン家の長男ブライアンはサーフィンをやったことがなかったが、弟のデニスはいっぱしのサーファーだった。デニスはブライアンに「おれたちもサーフィンの曲をやろうぜ」ともちかける。ブライアンはいとこのマイク・ラブと二人で「サーフィン」「サーファー・ガール」「サーフィン・サファリ」といった曲を書き上げ、弟たちを含むバンドで練習をはじめる。場所はウィルソン家のガレージだった。

 ウォズニアックは否定しているけれど、ジョブズの伝記ではロス・アルトスにある実家のガレージでApple Ⅰを組み立てる作業が行われたことになっている。ジョシュア・マイケル・スターン監督の映画『スティーブ・ジョブズ』(2013年)でも、養父が日曜大工に使っていた狭いガレージに仲間を集めて作業をするシーンが描かれていた。真相はどうであれ、「ガレージで起業」という伝説が広く流布されているのは、彼らのなかに共通して流れていたアマチュアリズムを象徴しているからだろう。ウォズニアック自身がもともとアマチュア無線愛好家だったし、コンピュータを使ってプログラムを書くことに興味を見出してからも、HP社に勤めながら趣味や楽しみのために自分のベッドルームでデザインや図面書き、ハンダ付けやチップの取り付けなどの作業を行っていた。

 ジョブズたちが会社を立ち上げたころ、コンピュータ業界は1950年代から変わらずIBMが牛耳っていた。当時はまだメインフレームと呼ばれる大型の汎用コンピュータが主流の時代で、ユーザーは航空会社や銀行、保険会社、大学などだった。IBMの本社はニューヨーク市郊外にあり、その他の会社(バローズ、ユニバック、NCR、コントロール・データ・コーポレーション、ハネウェルなど)もボストンやデトロイト、フィラデルフィア、ミネアポリスといった東海岸に本拠を置いていた。シリコン・バレーにはヒューレット・パッカードがあったけれど、そのころは計測器や電卓が主要な商品だった。

 こうした事情はビーチ・ボーイズがレコード・デビューしたころの音楽業界と似ている。当時の音楽ビジネスの中心は依然としてマンハッタンで、有名なブリル・ビルディングにオフィスを構えた音楽会社がバート・バカラック&ハル・デイヴィッド、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィン、リーバー&ストラー、バリー・マン&シンシア・ワイルといったソングライター・チームと契約してヒット曲を量産していた。またキャピトル、RCAヴィクター、MGM、デッカ、マーキュリー、コロンビアといった主要なレコード会社は、スターになる資質をもった歌手としか契約を結ばなかった。すなわちコニー・フランシス、パーシー・フェイス、ブレンダ・リーといった白人で中産階級のアメリカ人である。一方、ロサンゼルスの音楽業界は完全にマイナーな存在だった。サーフ・ミュージックをやっているような西海岸の若い歌手やバンドは、「インディーズ」と呼ばれる小さな独立レーベルを頼りに、細々とレコーディングをつづけていた。

 1970年代中ごろにはじまるパーソナル・コンピュータの歴史も、ガレージや小さなショッピング・センターなどで会社をはじめた、ジョブズやウォズニアックみたいなむさくるしい身なりの若者たちが担うことになる。彼らはまさにガレージ・バンドであり、彼らの会社はIBMなどから見れば紛れもなくインディーズだった。だがガレージ・バンドとしてはじまったビーチ・ボーイズが「サーフィンUSA」で突破口を開き、あっという間に『ペットサウンズ』の高みにまで上り詰めていったように、ジョブズとウォズニアックの会社もApple Ⅱを皮切りに、文字通り歴史を変えるような製品をつぎつぎと世に送り出していく。

 ガレージで起業というイメージが頭のどこかにあったのだろう。実際に訪れたアップル本社は、伝説やイメージとはまるでかけ離れたものだった。ぼくが訪れたのは2016年6月で、現在のアップル・パークはなお建設中だった。当時のアップルの本社は「キャンパス」と呼ばれていた。広々とした敷地に小奇麗な建物が何棟も建ち並ぶ様子は、その名のとおり会社というよりも大学のキャンパスや研究所といった印象だった。

 明るく開けた駐車場には車がたくさんとまっている。そして大勢の人。ほとんどは観光客だ。大型バスでやって来た中国人のツアー客などが、ガラス張りのショップでグッズを買い求めている。店内は日本のアップル・ストアと同じなのでとくに面白みはない。キャンパス内は完全禁煙で、メインビルの入口には眼光鋭いガードマンが立っている。セキュリティはかなり厳しそうだ。なんとなく長居は無用という気分になってくる。

 たしかにアップル・コンピュータの歴史は、シリコン・バレーを象徴するサクセス・ストーリーである。1977年にApple Ⅱが発売されたときに、パソコンが世界を大きく変えることに気づいていた人は少なかったはずだ。しかしジョブズたちが生み出したものは、世界の風景を瞬く間に変えてしまった。そうした製品の多く、iMacやiPodやiPhoneやiPadといった魅力的なガジェットが、この広大なキャンパスのどこかで開発されことは間違いない。

 そんなことを自分に言い聞かせてみても、いまひとつ心が弾まない。整然としたキャンパス自体が、空々しくて面白みがないものに感じられる。明るい日差しの下なのに、どこかひんやりとしたものさえ感じる。パロ・アルトのヒューレット・パッカードもマウンテン・ヴューのグーグルも似たような雰囲気だったから、シリコン・バレーの会社としては標準仕様なのかもしれない。しかし標準的でないのがアップルの製品だったはずではないか。

 数年前にシアトルのアマゾン本社を訪れた。本社といってもアップルのように整然としたキャンパスがあるわけではない。どれが本社のビルなのかさえわからない。会社というよりも自然発生的な村みたいな感じで、狭い街中に無計画に(ではないのかもしれないが)ビルを建ててオフィスにしている。なんとも猥雑な熱気にあふれている。バイオスフィアと呼ばれる三つのガラスドームからなる温室のような建物は、アマゾンの密林を意識したのかどうか知らないが、テーマパークの施設みたいで遊び心や余裕を感じさせる。ドッグランで犬を遊ばせている人たちの服装はみんなカジュアルで、ネクタイにスーツ姿の人などは見かけない。7月だったこともあり、ジーンズにTシャツという人が多かった。靴はスニーカーやサンダルが主流である。首からぶら下げているIDカードに目を止めなければアマゾンの社員かどうかわからない。ぼくのように物見遊山の観光客がうろうろしていても違和感がない。

 一方のアップル本社のほうには遊び心が皆無、キャンパス全体が四角四面で面白みがない。アップル・ストアで買い物をしている人までが余裕がなく見える。商品をチェックして必要な物を買ったら、さっさとバスに戻ってつぎの目的地へ出発だ。

 ジョブズのライバルと目されたビル・ゲイツのマイクロソフト本社は、アマゾンと同じくシアトルのレドモンドにある。どことなく面白みのない印象が強いゲイツだが、彼の会社のキャンパスはなかなか快適だった。少なくともアップルよりはずっとカジュアルで、学生集めのためにキャンパスをおしゃれに改造している地方の私立大学という感じだ。会社のなかにバイクショップがあり、社員は自転車でキャンパス内の建物を移動している。頭にターバンを巻いたインド人の社員などともすれ違う。つまり寛容性が高くて多様性に富んでいる。そうした働きやすい環境をつくることで、世界中から優秀なエンジニアを集めているのだろう。

 面白いものだと思う。禅や瞑想、スピリチュアリティへの傾倒、マリファナやLSDをやりながらディランやバッハを聴く長髪の青年。ちょっと変わり者の青年が、同じスティーブという名前の天才的な電気少年と自宅のガレージではじめた会社が、いまや巨大なIT企業となっている。その本社のキャンパスに、ぼくはビジネスライクな居心地の悪さしか感じなかった。

 アップル社には閉鎖的で秘密主義のところがあるとよく言われる。それはジョブズ自身の性格や資質を反映しているのかもしれない。アップル社のひんやりとした人工的な雰囲気には、どこかクリスト・ドライブのジョブズの実家と相通じるものがある。だからなおさら面白い。彼がスタッフをおだてたり罵倒したり脅迫したりしながら、ほとんどブラック企業と言ってもいいような労働環境の下でつくり上げた製品は、ベートーヴェンが作った曲と同じように、作品番号を打てるくらいジョブズの作品になっている。他人を自分と一心同体に酷使したから、ただの電子部品から組み立てられた機械を、彼自身の作品と同じレベルまでもっていくことができたのだろう。

 そんなジョブズを、アップル社のキャンパスに感じるのだ。iPhoneやiPadが光の部分だとすれば、アップル・キャンパスは陰の部分かもしれない。いずれにしても彼はアップル社という巨大なIT企業に、自分の遺伝子を残して死んでいったということになりそうだ。そんなふうにしてジョブズは彼なりの不死を実現したと言えるだろうか。

 それにしても、どうして林檎なのだろう。一時期、ジョブズはリンゴばかり食べていたという。彼の伝記(ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』)によれば、ニンジンやリンゴなど1、2種類の食べ物だけで何週間も過ごすことがあったらしい。サラダやジュースにしてニンジンばかり食べていたので、肌がオレンジ色になったというエピソードも紹介されている。自然食を愛好したジョブズには自然さがない。冷たい食べ物しか受け付けない頑なな身体。自己の身体にたいする過剰な意識。バランスが悪いのだ。

 ジョブズが若いころに入れ込んだ菜食主義や禅、瞑想などは濃淡を変えながら彼の生涯を伴走する。いずれも自己の内側へ向かう指向が強い。すでに述べたようにベトナム戦争の影響も大きかっただろう。ジョブズが大学に入学した1972年には、ニクソンの時代に成立した徴兵制によって18歳以上の男子には48ヵ月の兵役が義務付けられていた。徴兵されればベトナムへ送り込まれる可能性が高い。未来に戦場しかない若者たちは、自分の内部へ深く潜航しようとした。

 ところが1973年1月にベトナム戦争の平和協定が締結され、アメリカ軍のベトナムからの撤退が決定する。それに伴い徴兵は停止、さらに75年には徴兵制そのものが廃止される。時代の偶然とはいえ、ジョブズがコンピュータと出会った時期と重なっている。ジョブズだけではなかったはずだ。未来から戦争が消えたことで、コンピュータにのめり込んでいった人たちが、彼の世代には多かったのではないだろうか。

 同じようなことが、10年ほど前のロンドンでも起こっていた。イギリスが徴兵制を廃止したのは1960年のことだ。当時のイギリスは戦争こそしていなかったが、なお多くの植民地を抱えており、その維持経営のために兵役を必要とした。一方で1960年は「アフリカの年」と呼ばれるように、フランスのド・ゴールがアフリカ13か国の独立を認めるなど脱植民地化が進む。こうした時流にあってイギリスも植民地を手放し、撤兵をつづけていた。やがて兵士は人員過剰となり、徴兵制の永久廃止が決定されたというわけだ。

 1960年のロンドンにはトランジスタやマイクロ・チップはなかったが、かわりにアメリカから海を渡って入ってきたレコードがあった。そのころアート・スクールに通っていたキース・リチャーズは「OK、もう軍隊に行かなくていいってことだな。軍隊の代わりに、おれは二年間という自由な時間を手に入れた。よ~し、本物のブルースマンになってやるぜ」と思ったそうだ(『Life』、2010)。つまり徴兵制廃止がなければローリング・ストーンズもブリティッシュ・イノベーションもなかったかもしれないのだ。

 音楽やアートには平和が必要なのだとあらためて思う。ところでコンピュータはアートなのだろうか? 少なくともジョブズにとってはそうだった。彼を中心に林檎の木の下に集まった人たちの多くもまた、アーティスティックなマインドを共有していただろう。1999年にiMovieを開発しようとしていたころ、ジョブズはソニーから発売予定のデジタル・ビデオ・カメラの試作品を幹部6人に手渡して、ホーム・ムービーを作ってこいと命令したらしい。彼らは出来上がったホーム・ムービーにバックグランド・ミュージックとしてヴァン・モリソンの『テュペロ・ハニー』をかぶせたという。(フレント・シュレンダー/リック・テッツェリ、2016)そういうセンスの人たちが集まっていたのだ。

 もともとコンピュータというテクノロジーは戦争と切り離せないものだった。それを平和な世界で享受できるものにしたのはジョブズたちの世代と言っていいだろう。パーソナルなコンピュータなどというものは、平和な時代でなければ生まれようもなかった。それは黎明期のインターネットに見られたように、良識的で親密なコミュニティのためのものだった。

 その後、約30年のあいだにインターネットはブログやソーシャル・ネットワーキングのプラットフォームへと進化し、身近で日常的になったぶんヘイトで溢れかえり、人々の恐怖や嫌悪を煽る動画がつぎつぎに投稿されている。またパーソナル・コンピュータから進化したスマートフォンは、テロや戦乱や紛争の現場でも使われている。

 これはどういうことなのか? どこかで設計を誤ったのだろうか。パーソナルなコンピュータは人間の表現の可能性を拡大する、とジョブズは信じていた。そうして表現されたものが欲望や憎しみや妬みであることを、ぼくたちはどう考えればいいのだろう。本来の人間性がそのようなものなのか。それともどこかでバイアスがかかって、いま目にしているようなものが現れているのだろうか。

 林檎は善悪を知る木の果実として旧約聖書に登場する。ジョブズたちの会社の名前が「林檎」というのは皮肉なのか、それとも悪い冗談なのか。パーソナル・コンピュータ、インターネット、ワールド・ワイド・ウェブは、いずれもアダムとイブをそそのかしたヘビが姿を変えたものなのか。ジョブズたちがつくった「リンゴ」の味を知ってしまったぼくたちは、永遠にエデンの園から追放されてしまったのだろうか。

Photo©小平尚典