あの日のジョブズは(15)

あの日のジョブズは
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15 林檎をデザインする

 1976年にウォズニアックとアップル・コンピュータを立ち上げ、新製品としてアップルⅡの設計に取り組んでいたときのこと、ジョブズはケースを通常の灰色をした不細工な金属ではなく、流麗なプラスチック製のものにしようと考えた。発注されたプラスチック会社はベージュだけで2000種類もの色を用意していたが、ジョブズはどれも気に入らず別の色を作らせようとしたという。ケースの設計変更をしたときも、角の丸みだけで何日も費やしたとか、この手の逸話には事欠かない。

 同じくアップルⅡに、ジョブズは冷却用のファンを付けたくないと考えた。ファンの音によって集中力が乱されてしまうからだ。それを彼は「禅っぽくない」と考えたようだ。そこでロッド・ホルトという優秀なエンジニアをスカウトしてきて、スイッチング電源という発熱量の少ない電源を考案させる。こうして電源装置やキーボード、スピーカーなどの必要な部品が一体となり、明るいベージュのケースに収まった初代のアップルⅡが生まれる。クールでフレンドリーなたたずまいがユーザーに好印象を与えたこともありアップルⅡは大ヒット、会社を軌道に乗せる原動力となった。

 製品を入れる箱の材質やデザインにも神経症的なまでにこだわった。最高の製品、最高の品質という自負があったからこそ、最良のかたちで提示したいと思ったのだろう。箱だけではない。アップルを追放されたあと立ち上げたNeXTのロゴグラフのときも大変だった。バイオグラフィーでも触れたように、このロゴをデザインするためにジョブズはグラフィック・デザイナー(ポール・ランド)に10万ドル払ったと言われている。「e」だけ小文字になっているとか、文字はキューブの表面に描かれ、キューブは左に28度傾いているとか、おそらく本人にだけわかる深遠な哲学があったのだろう。

 1991年、36歳のジョブズは27歳のローリーン・パウエルと結婚する。さあ、新居に入れる家具選びが大変だ。「私たちは家具とはなんぞやという話を8年もしました。ずいぶんと時間をかけ、なんのためにソファを買うのかということを考えたのです」と夫人は語っている(アイザックソン、2011)。「1時間半ではなく1時間で洗濯が終わることを一番重視するのか。服の肌触りがとてもソフトで長持ちすることを一番重視するのか。水の使用量が4分の1ですむことを重視するのか。こういう話を夕食のたび、2週間くらい話し合ったよ」(同上)と、本人も認めている。ほとんど病気である。一事が万事、こういう人だった。

 因果な性格に生まれついたと言えばそれまでだが、ジョブズが面白いのは、公私にわたるデザインへの偏執狂的なこだわりを、アップルという会社組織のなかでビジネスに結び付けた点だ。しかもほとんどの場合、それはうまくいった。なぜなのか? 一つにはジョブズのデザインへのこだわりが、たんなる印象や表面的なことばかりではなく、製品の機能や実用性と緊密に結び付いていたからだろう。使いやすさを追求していった結果として、クールで洗練されたデザインが生まれているのだ。冷却ファンの問題も、コンパクトで明るい収納ケースも、個人が気軽に快適に使えるというパーソナル・コンピュータとしての機能と結び付いている。

 デザインと機能、芸術性と実用性のバランスをとるのは、素人が考えても難しいように思える。何年か前にバルセロナでアントニオ・ガウディの設計した住居を見て歩いたことがある。なかまで入らせてもらったけれど、こんなところに住みたいとは全然思わなかった。だいたい壁が波打っているような部屋に、どうやって家具を置くのだろう。あるいはファッションにしても、パリのオートクチュール・コレクションに出品されるような有名デザイナーの服が、衣類としてすぐれているとは思えない。保温性や速乾性があって着心地がいいのはユニクロやモンベルだろう。

 ジョブズが世に送り出す製品にしても、こうした問題をクリアする必要があった。現場はさぞかし大変だっただろう。とくに先端技術を使った電子機器の製造では、通常はエンジニアリングがデザインに先行する。まずエンジニアが仕様や要件を決め、それに見合ったケースや外殻をデザイナーが考えるのが普通である。ジョブズは逆だ。最初にケースのデザインを決め、そこにボードや部品が収まるようにエンジニアに工夫させる。iPhoneでもやり方は変わらない。ジョブズがめざしたのはキーボードもスタライス・ペンもないタブレットだった。そんな無茶な、と思ったエンジニアもいたに違いない。その無茶が結果的に、スマートフォンというそれまで存在しなかったガジェットを生み出すことになる。

 ジョブズのデザインへのこだわりは独りよがりなものではなく(そういう面も多分にあっただろうが)、常に製品を届ける人たちのことが視野に入っていた。このあたりはアーティスティックなジョブズが、あくまでビジネスマンであったことを示している。しかも彼が想定している相手はマス(大衆)ではなく、一人ひとりの個別ユーザーだった。そのことを象徴しているのが「シンク・ディファレント(Think different)」というキャッチ・コピーだろう。1997年にジョブズがアップルに復帰し、会社の新たなブランディングを推し進めるために展開したCMのなかで使われたものだ。コピーを考えたのはかつてマッキントッシュの「1984年」のCMを作ったリー・クロウである。

 アインシュタイン、ガンジー、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ピカソ、エジソン、チャップリン、キング牧師、ヒッチコック、アンセル・アダムズ、マリア・カラス、フランク・ロイド・ライトといった人たちの動画につぎのようなナレーションが重なる。「クレイジーな人たちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。四角い穴に丸い杭を打ち込むように、物事をまるで違う目で見る人たち。彼らは規則を嫌う。彼らは現実を肯定しない。彼らの心に心を打たれる人がいる。反対する人も、称賛する人も、けなす人もいる。しかし彼らを無視することは誰にもできない。なぜなら彼らは物事を変えたからだ。彼らは人間を前進させた。彼らはクレイジーと言われるが、私たちは天才だと思う。自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから。」最後に「Think difference」という文字が現れ、アップルのロゴがカラーで小さく表示される。

 ジョブズはいったい何を表現したかったのだろう? アップルという会社のブランド・イメージだろうか。もちろんそうだ。そのためのCMにアインシュタインやピカソを使うというアイデアは、ちょっとスノッブな企業リーダーなら思いつきそうだ。しかしガンジーやジョン・レノンやキング牧師はどうだろう。会社のブランド・イメージとしては、かなり「危険」なラインと言えるのではないだろうか。さらにアンセル・アダムズ(写真家)、フランク・ロイド・ライト(建築家)、マーサ・グレアム(モダン・ダンスの創始者)、リチャード・ファイマン(物理学者)、ジェームズ・ワトソン(DNAの分子構造の発見者)、アメリア・イアハート(女性で最初に大西洋単独飛行を成し遂げる)にまで広げる無茶は、ジョブズにしかできないだろう。

 一口に言えば、彼は「反企業的でクリエイティブでイノベーティブな反逆者」といったイメージで自社ブランドを語ったことになる。だがそれ以上に、このラインナップはジョブズ個人にとってのメンターや仲間をあらわしているように思える。もちろんラインナップの最後尾にはジョブズ自身が加わる。つまりCMに登場する人たちは、彼が理想とする惑星に登録されている住人なのだ。そこからつぎのようなメッセージが発信される。「どうだい? きみもぼくらの惑星の住人にならないか。」

 このCMが最大公約数的なマスを想定としたものでないことは歴然としている。むしろ差別化と差異化に向かって強く働きかけるものだ。「きみはどのコンピュータを選ぶ?」とたずねるかわりに、「このCMを見てどう思う、クールと感じるかい?」とたずねているわけだ。問いかけられているのは、コンピュータを使って何か創造的なことをやろうとしている一人ひとりのユーザーである。そしてメッセージに共鳴してくれる者、クールでカッコいいと思ってくれる者が、ジョブズの惑星の住人として選別されていく。

 こうしたやり方は、一歩間違うと閉鎖的で独断的なものにもなる。現にジョブズが最後の日々に頭を悩ませた問題の一つは、iPhoneやiPadにダウンロードするアプリを厳しく管理するやり方が「アップル帝国」と揶揄され、非難されたことだった。マッキントッシュの広告(「1984年」)でIBMを想定して打倒を謳ったジョージ・オーウェル的なビッグ・ブラザーに、アップル自身がなろうとしているのではないか。

 少しアングルを引いて見てみよう。ジョブズのコンピュータ・ビジネスにたいする考え方は一貫している。ハードウェアもソフトウェアもエンド・ツー・エンドで統合すべきだということである。当然、それはクローズドの互換性がないマシンになる。マッキントッシュのオペレーティング・システムはマッキントッシュのハードウェアでしか動かない。この何かから何まですべてをウィジェットにするというアプローチで、ジョブズはiPod、iPhone、iPadなど幾つもの際立つ製品を作ることになる。

 このあたりはビル・ゲイツとは対照的である。ゲイツのやり方は明らかに不特定多数のマスを対象としたものだ。それは彼の提供するものが普通の商品でありサービスだったからだろう。面白みのないやり方かもしれないが、市場を占有するには適した戦略と言えるかもしれない。現に1980年代には、多くのハードウェア・メーカーにオペレーティング・システムをライセンスしたマイクロソフトが市場をほぼ独占してしまう。ジョブズはゲイツを泥棒呼ばわりしながらも(マイクロソフトはアップルのインターフェイスを盗んだというのがジョブズの言い分だ)、他のメーカーへのOSのライセンス供与を避けつづける。

 初代マックからiPhoneまで、ジョブズのシステムは固く封印され、消費者がいじったり改造したりでいないようになっている。1997年にアップルのCEOに復帰してから、彼が最優先でやろうとしたことの一つはマッキントッシュのクローン製造の廃止だった。ここまでオペレーティング・システムとハードウェアの一体化に固執したのは、ゲイツとは違ってジョブズが提供したいと思っているものが、たんなる商品やサービスではなかったからだろう。彼の意識のなかではマックもiPhoneも「自分の作品」だった。機嫌がいいときのジョブズなら「自分たちの作品」と言うかもしれない。いずれにしても自分(たち)の作品を勝手にいじられたくないというのは、アーティストとしては当然の思いだろう。それが嵩じてユーザーの体験までをコントロールしようとすると、さすがにやり過ぎということで非難を浴びることになる。

 ところでジョブズは、実際にどの程度までデザインに関与していたのだろう。iMacやiPod、iPhone、iPadなど、現在の主要なアップル製品のデザインを担当したジョニー・アイブは、ジョブズが成果を独り占めし過ぎると言っている。アイブのアイデアをジョブズが自分のものであるかのごとく外部に吹聴することが不満だったようだ。同様の声は多く聞かれる。するとジョブズはアーティストのアイデアをかすめ取って、アーティストぶっていたクソ野郎ということだろうか。そのあたりの詳しいことはよくわからないし、ジョブズがクソ野郎だったかどうかは、本当はどうでもいいことだ。たしかにクソ野郎だったのだろうが、クソ野郎でだけあったわけではない。

 面白いことに、ジョブズが関与した製品一つひとつの細部を見れば見るほど、彼の関与はぼんやりしたものになる。ジョブズという人間の痕跡が消えていくのだ。言うまでもなく、どのマシンも多くのエンジニアとデザイナーの共同作業によって生み出されたものである。この常識的な視界のなかでジョブズの存在感は薄く、彼の関与の跡はほとんど見えない。

 たしかにマッキントッシュ・チームに「週90時間、喜んで働こう!」というTシャツを着て働かせたのはジョブズだ。「値段のことは考えず、コンピュータの機能だけを考えてみてくれ」とか「このデバイスが世界を変えるんだ」とか「宇宙に衝撃を与えるようなものを作ろう」とか言って、チームのメンバーに魔法をかける能力には長けていたかもしれない。飛べと言ったのに飛ばない人間を馘首にする決断力と非情さも持ち合わせていた。だからと言ってジョブズはアーティストと言えるだろうか。

 言えるのだ。他に言いようがないというくらい彼は「アーティスト」である。ただ、そのアーティスティックな感覚は奇妙なかたちでしか現れてこない。普通の作家のように、一枚のタブローや一つのオブジェではわかりにくいのだ。ためしにジョブズが手がけた主な製品を並べてみよう。

  Apple Ⅱ(1977)

  Lisa (1983)

  Macintosh (1984)

  iMac (1998)

  iPod (2001)

  iPhone (2007)

  iPad (2010)

 これらのプロダクトから否応なしに感受されるのは、一つの共通したトーンであり手触りでありテイストである。どこかモーツァルトの作品にも似た気品がある。古典的と言ってもいいかもしれない。遊びのなかに真剣さがある。表面的な印象を言えばシンプルでありすっきりしている。ピュアな明るさを感じさせる。どれも安っぽくない。俗悪だったり下品だったりしない。派手さはなく、これ見よがしに機能を誇示するものでもない。

 たしかにジョブズがもって生まれたセンスではあるだろう。彼には身に付いた品の良さがある。大金持ちになっても富を誇示することはない。ビル・ゲイツのように慈善活動にはほとんど関心がない。慈善活動や人道支援のための基金をつくるのは、富の誇示とは言えないまでも大富豪であることを看板にした振舞いではあるだろう。

 ジョブズの趣味はもっと控えめで、華美を誇張することを嫌った。いくら大金持ちになっても派手に走ることがなく、室内も質素だったようだ。1991年にローリーン・パウエルと結婚してから住んだ家はパロ・アルト旧市街のこぢんまりとして家で、けっして巨大で個性的な邸宅ではない。奇抜さをなにより嫌ったようだ。バング&オルフセンやリンソンデックのオーディオ機器、ベーゼンドルファーのピアノ、アンセル・アダムズのプラチナ・プリントといった趣味も悪くない。

 不思議なのは、こうした個人的な好みや趣味やセンスを、彼の場合は大量生産される工業製品のなかに持ち込んだことだ。きわめて稀なことと言っていいだろう。奇蹟的と言ってもいいかもしれない。大量生産可能な工業製品について知るためにティファニーのグラスなどを研究したというが、そういう問題ではないだろう。どんな魔法を使ったのかわからないが、とにかくパーソナル・コンピュータや携帯電話といったガジェットに、彼は「スティーブ・ジョブズ」という一つの個性を持ち込んだ。そのようなかたちで現れるのが、アーティストとしてのジョブズなのである。

 それは作家性と呼んでいいものだ。考えてみよう。デル・コンピュータにマイケル・デルの作家性を感じるだろうか? HPのコンピュータに表現者としてのデイブ・パッカードやビル・ヒューレットの存在を感じるだろうか? Windowsをはじめとするマイクロソフトの製品に、ビル・ゲイツの作家性を感じることはないし、アマゾンにジェフ・ベゾスの思想性は感じない。アマゾンに感じるのは徹底した無思想性だ。それはそれで個性的だが。

 たしかにテスラという高級車には、イーロン・マスクの作家性が感じられないことないない。しかし1000万円以上する電気自動車は、一部の人たちの贅沢な嗜好品と言っていい。一方、PCやスマートフォンやタブレットは何十億もの人たちが使っているコモディティである。そのなかにあってジョブズのかかわった製品は、どれも際立った作家性を感じさせる。

 大量生産される工業製品のなかに、いかにして彼はアーティスティックなものを持ち込んだのか。誰もが手にするガジェットに感じられる統一感のあるトーン、「文体」はどこからやって来るのだろう。そう、ジョブズが世に送り出した製品には文体があるのだ。とくにiPodやiPhoneやiPadなどは、数行を読んだだけですぐにわかるような強い文体をもっている。青白い炎を想わせる文体は美しく、美しさのなかに陰影がある。明るさのなかに漂う悲しみがある。はしゃぎまわっていた子どもがふと塞ぎ込むようなデリケートで繊細な感じがある。こうした文体がどこからやって来たのか、またどこへ向かおうとしているのか。それをうまく言葉にできれば、ぼくはジョブズという人間に少し近づいたことになるだろう。

Photo©小平尚典