あの日のジョブズは(20)

あの日のジョブズは
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20 世界を取り戻す

 ジョブズがものを食べるシーンを思い描くことができない。何本か作られたジョブズ関連の映画やドキュメンタリーでも、食事のシーンはほとんど出てこなかったように思う。アシュトン・カッチャーが主演した映画では、レストランで会社の重役たちと株式公開にあたってのストック・オプションの相談をしているとき、給仕が持ってきた料理を「見たくもない」という感じで下げさせるシーンが印象的だった。
 生涯を通しての菜食主義を中心とした極端な食事のことは多くの人が証言している。学生時代にはにんじんとリンゴなど1~2種類の食べ物で何週間も過ごしたり、自然食系のシリアルだけで暮らしたり、果物と野菜(ただしでんぷんを含まない)しか食べなかったりと、とにかく食事にかんしてはストイックな印象が強い。一つの料理を「ごちそう」として見ることは、ジョブズにはできなかったのではないだろうか。食べることが、あまりにも機能や精神性に偏っていると言えばいいだろうか。
 もちろん普通に食事はしていただろうし、地元の寿司屋などへは家族や気心の知れたスタッフとよく行っていたようだ。ただ好き嫌いは激しく、最初のころはお新香巻きやかっぱ巻きしか食べていなかったらしい。自宅では完全に和食で、パーソナルシェフはジョブズ用の食事と家族のためのメニューと二種類つくっていたという話もある。心の免疫反応が過剰に強い人なのだ。それがアレルギー体質にも似たジョブズの人格をかたちづくっているように思える。
 ジョブズの生涯を眺め渡して、決定的に欠けているのは「味わう」という契機ではないだろうか。とくに食べ物を味わった形跡がない。彼のバイオグラフィーのなかに、若いころのガールフレンドとのあいだに生まれた娘と東京の寿司屋で穴子を食べる場面が出てくる。冷たいサラダばかり食べていた父親が、娘と二人きりの店で温かい穴子の握りを口にする。そんなことを娘のほうが印象深くおぼえているほど、ジョブズの生涯に「味わう」というエピソードは希薄なのだ。
 悲しいじゃないか。長く認知を拒んできた娘を受け入れ、二人で食事をしたときに、冷たいサラダやお新香巻きしか許さなかった心が、やわらかく温かみのある料理に向かって開かれた。孤独で頑ななジョブズのなかに「味わう」という契機が生まれた。そんなふうに思えてならない。

 食べること、とりわけ「味わう」という側面の貧弱さは、彼の人間らしさの希薄さにつながっている気がする。とくに人間関係における情緒の欠落が甚だしい。実の娘を認知しようとしなかったこと、学生時代からの友人にたいしてストック・オプションの権利を与えなかったこと。当事者たちから見れば、人間性の欠如と言われても仕方のないようなことを、ジョブズは生涯に山ほどしている。
 ジョブズのドキュメンタリー映画(『The Man In The Machine』)のなかで、彼の元恋人が物を愛するけれど人を愛せないと言っているのは、一面では当っている気がする。女性遍歴の華麗さは「愛」とは関係がない。むしろ愛せないから巡り歩くのだろう。伝記の類を読んでも、アンセル・アダムズの写真、ベーゼンドルファーのピアノ、バング&オルフセンのオーディオ機器、ポルシェやメルセデスの車、BMWのバイク、ヘンケルのナイフ、ソニーやブラウンの家電など、彼のまわりには物ばかりが目立つ。物に埋もれたジョブズは、彼自身が緻密にデザインされた製品であるようにさえ思えてくる。
 物を味わうということは、たしかにあるだろう。デザインを味わう、機能を味わう。音や振動やスピードを味わう。でもその場合、味わうことの仕様は一人だ。だからジョブズについては、味わうことの貧弱さというよりは、「ともに味わう」ことの欠如と言ったほうがいいかもしれない。彼が好きだったという龍安寺の石庭にしても、一人で静かに味わうといった趣が強い場所である。若いころに傾倒したスピリチュアルなもの、禅、瞑想、いずれも基本的な仕様は一人である。他者にアクセスするというよりは、自分自身にアクセスするための修養であり、ひたすら一人という場所へ傾斜している。

 ある意味、彼は先駆的だった。しかもあらゆる面において。ジョブズを評するのに「ヴィジョナリー」という言葉がよく使われる。未知なるものを可視化するヴィジョンをもっていたということだろう。パーソナル・コンピュータの可能性にいち早く着目し、「コンピュータが一人一台の世界になれば何かが変わる、10人に一台の世界とはまったく違ったものになる」と言って、実際に世界を変えてしまった。デジタル・ハブやクラウド・コンピューティングの構想を最初に打ち出したのも彼と彼の会社だ。そうしてコンピューティングのあり方を異次元のものにしてしまった。
 時代がひとまわりしたということなのかもしれない。かつてジョブズは「コンピュータの向こうに未知なる未来がある」と言って新しい宗教を説きはじめた。「誰もがコンピュータに触れることによって未知と未来にアクセスできる」といって「アップル」という宗派を興した。そうして時代がひとまわりし、ぼくたちはみんなジョブズと同じように孤独の惑星の住人になった。
 この世界は完全にお一人さま仕様のものになっている。たいていものはその場にいてワン・クリックで注文できる。しかもキャッシュレスのモバイル決済だ。どれを買おうか、何を食べようか。相談する相手がいなくても、ぼくのことをぼく以上に知っているアルゴリズムがレコメンドしてくれる。インターネットもウェブも、すでにぼくたちにとって日常生活において欠くことのできないインフラになっている。そうしたインフラによって提供される商品やサービスは、ほとんどゼロ思考で対応できるものばかりだ。ただ検索して選択すればいい。何も考える必要はない。思考がないから疑問もない。
 自分は変わらなくても済む、という意味でも世界はお一人さま仕様である。自分に合わせて情報を検索し、収集し、選択すればいいのだ。インターネットはそのようなものになっている。結婚相手もAIに決めてもらう。自分が重視する価値観と相手に求める価値観を測定し、どんな価値観のカップルが結婚に至ったかのデータを分析することによって、最適の二人をマッチングさせる。この二人は数の上では二人だが、お一人さまがお一人さまと出会っただけで、もとの一人という仕様はどこも変わっていない。
 もともと60年代のドラッグ・カルチャーから生まれたパーソナル・コンピュータは多分に現実逃避的な面をもっていた。いまや現実は逃避されるものですらない。現実は失われたのである。ぼくたちは世界とともに現実も失った。お一人さま仕様の現実が個々に70億あると言ってもいい。
 いまや誰もがそういう世界を生きている。つまりジョブズがもともと生きていた世界を。彼のなかにも自分が変わるという要素はなかった。自分が変わるかわりに世界や他人を変えようとした。容易に変わらないときには「現実歪曲フィールド」を使った。そういう意味でも彼は先駆的なのだ。

 ユヴァル・ノア・ハラリは『21 Lessons』のなかで、人類が共通に直面している実存的脅威として、核戦争の危険性の増大、気候変動による生態系の崩壊、AIと生物工学による技術的破壊の三つをあげている。おそらく多くの人がハラリの危機感に同意し、一人ひとりがこうした問題について深く考えなければならないと思うだろう。だが、それは土台無理な話である。なぜなら世界は意味として開示されなくなっているからだ。
 ハラリがあげているような人類の実存的脅威を、ぼくたちは自分自身の経験に結び付けることができない。狩猟採集民が天気や動物や植物のことを知ろうとするのは、知ることが直接的に自分の生存と結び付いているからだろう。しかし核戦争の危険性の増大や、気候変動による生態系の崩壊や、AIと生物工学による技術的破壊が、ぼくたちが日々の暮らしのなかで経験することと、どんなふうに結び付いているのかわからないのだ。言い換えれば、ハラリのいう実存的脅威はたんなる知識にとどまっている。
 死の問題を考えてみよう。ぼくたちは誰でも自分が死ぬことを知っている。しかし日々の暮らしのなかで自分の死を考えることはほとんどない。それは「人間は死ぬ」ということが知識にとどまっているからだろう。ところが末期のがんなどで余命半年とか一年とか言われると、死のことで頭がいっぱいになる。四六時中、そのことが頭から離れなくなる。どんな些細な日常の経験も死によって意味づけられ、死と緊密に結び付けられる。ここではじめて死は意味として開示されたと言える。
 何が違っているのだろう? 「感じる」という要素が入ってきたことだと思う。具体的に自分の死がパーソナルなものになると、ぼくたちはそれを「恐怖」や「絶望」や「悲嘆」として感じるようになる。この「感じる」ことをとおして死は意味として開示される。一方、核戦争の危険性の増大や、気候変動による生態系の崩壊や、AIと生物工学による技術的破壊が、人類にとって重大な問題であることは容易に理解できる。しかし自分の経験として「感じる」ことは難しい。
 コンピュータを使ったシミュレーションで地球温暖化の現状を知ったり、それが将来にもたらす影響を理解したりすることはできても、そこから何かを「感じる」ことは難しい。「大変だ」とか「なんとかしなくては」と思っても、それは自分の経験ではない。あくまで知識に応答しているだけなのだ。こんなふうにしてぼくたちは、世界を失っているのだ。
 世界とは感じるものである。ともに味わうものである。

 何年か前の夏の日、川のほとりで仲間とキャンプをした。翌朝、早くに目が覚めて一人でテントを抜け出し散歩に出かけた。脛ほどの高さの灌木の茂みのなかを歩いていくと、アヒルくらいの大きさの鳥の死骸を見つけた。肉はほとんどなくなって、骨と羽根だけが元の姿をとどめている。
 人間が一人で完結した生き物なら、おそらく死んだ仲間を弔うことはなかっただろう。死骸は死んだ場所に放置したまま、朽ち果てるに任せておけばよかったはずだ。ところがどうしたわけか、人間は一人では完結せずに誰かとともに生きることをはじめた。
 この誰かが、ある朝動かなくなっている。手を触れてみると冷たい。その冷たさを、ぼくたちの祖先は「悲しみ」として感受した。昨日までともに駆けたり笑ったりしていたものの唐突な静まりを、「寂しい」と感じた。
 食べることも同じである。ぼくたちがものを食べるのは、ただ空腹を満たすためではない。少なくともそれだけではない。もっと別のものも満たしている。草原で無心に草を食んでいるシカたちは「うまいなあ」とか感じているのだろうか。シカのことはわからないが、タコは味覚というものを理解しているふしがある。餌の魚などを与えると、タコは腕を曲げて直接口へ持っていかずに、吸盤から吸盤へとリレーしていくらしい。ひょっとして吸盤で味わっているではないか?
 もちろんぼくたちも味わっている。だから食べることには「おいしい」とか「おいしくない」といった余分なものがくっついてくる。どうしてそんな面倒なことになっているのかわからない。わかっていることは、一人でテレビを観ながらご飯を食べるよりも、好きな人と一緒に食べるほうがおいしいということだ。これを「錯覚」や「気のせい」と言ってしまうと、それこそ人生は味気ないものになる。味わうためには、「ふたり」という文脈が必要である。
 人との接触を避け、他人を脅威とみなすようになってしまった世界。いまや多くの人が宇宙ステーション的な生活を望み、一人ひとりがジョブズと同じように小さな孤独の惑星の住人になってしまった。70億の孤独がネットワークによってつながり、オンとオフの瞬間的なコミュニケーションを繰り返している。この世界には「ふたり」という文脈が欠如している。だから世界を感じられなくなっているのではないだろうか。
 誰かを好きになり、その人がよろこんでくれると自分のこと以上にうれしい。幼い子どもたちが高熱を出して辛そうにしていると、自分のこと以上に辛い。そんなふうにしてぼくたちは「うれしい」や「辛い」といった感情と出会っている。もともと人間が一人という仕様の生き物なら、「おいしい」も「うれしい」も「辛い」も発明できなかった違いない。もし人間のなかに「ふたり」という場所がなかったら、意識も感情も生まれなかっただろう。

 この先、世界が弱肉強食の生存競争に近いものになっていけば、ぼくたちは意識や感情を不要なノイズとみなして削除するようになるかもしれない。弱肉強食の生存競争を生き抜くために、たとえば「悲しい」という感情は必要ない。むしろ邪魔である。悲しんでいるうちに敵に襲われるかもしれない。そんな暇があればつぎの獲物を見つけるべきだろう。
 エイドリアン・べジャンが言うように、未来の世界が流れを良くすること、摩擦や障害を取り除くことだけに向かえば、人間の意識や感情も摩擦や障害として取り除かれてしまう可能性が高い。ユヴァル・ノア・ハラリのいう「ホモ・デウス」に意識は必要ない。伊藤計劃がその予言的な小説で描いたように、完璧な人間という存在を追い求めるうちに意識は不要になって消滅する。完璧な人間には、魂そのものが不要なのだろう。

 わたしは内なる声に耳を傾けようとする。意識が、意志がなくなれば、こんな「内なる声」などというものも消滅してしまうのだろう。意識が、個が消滅し、ただシステムだけが残るのだろう。自明なわたしだけが残るのだろう。ただ、そう在るように行動し、一切の迷いなく、未来永劫に向かって働き続ける肉で出来た機能のような身体があるだけになるのだろう。(『ハーモニー』)

 なぜヒトは直立二足歩行をはじめたのだろう。花を摘むためである。もちろん当時は「花」という言葉はない。あるとき草原を歩きまわっていたヒトが、なんだか心にグッとくるものを見つけた。「これをあの人にもっていってあげたらどうだろう?」
 また別の日。やはり草原を歩きまわっていたヒト(この場合はお父さん)が、なんだか美味しそうな食べ物を見つけて、これを持ち帰れば家族は喜ぶだろうなと思った。そうしてうっかり立ち上がってしまった初期人類がいた。学名をホモ・サピエンス、和名ヒトと呼ばれる一族だ。
 そうしていまのぼくたちがある。ヒトが二本足で歩いているのは善を運ぶためである。直立二足歩行はヒトが善を宿した生き物であることの象徴なのだ。エビデンスはない。目撃者もいない。かわりに物語がある。物語を紡ごう。人と人をつなぐ物語、この世界に「ふたり」という文脈を取り戻させるような物語を。世界とは「ふたり」という文脈において生きられるものである。ともに味わわれるものである。

 自然であることがなにもりも苦手だった。ぼくたちが自然にやっていることが、彼には不可能に近いほど困難だった。普通のことを自然にやるために、世界をひっくり返してみなければならなかった。だが死を間近にしたジョブズは、とても自然である。
 ビジネスの世界で頂点に立った者が、いまさらながら富や名声のはかなさを知る。唯我独尊を貫きながら、いつも人生の師(メンター)を求めていた。しかし悟りも啓示も最期におのずともたらされるのかもしれない。求めていたものは、最初からそこにあった。いつも身近にありつづけた。
 死期が近づいてくるにつれて、ジョブズはたった一つのテーマにたどり着いた気がする。「世界をあっと言わせる」とか「宇宙に衝撃を与える」とか、そんなことばかり考えてきた人間が、自分はいかにつまらないものを追い求めてきたかに気づく。
 彼が最期に発した問いは、ごくシンプルなものだ。「どう生きるか」。正しい問いを発すれば、正しい答えが返ってくる。死に向かうベッドの上で、彼はいちばん大切なものを見つけたのではないだろうか。

 ジョブズが成し遂げたことは、たんにパーソナル・コンピューティングのあり方を変えたというだけでは足りない。それをまったく異次元のものにしてしまった。「パーソナル」の意味を「身体の一部分」というところまで変えてしまった。コンピューティングを人類がこれまでに出会った最強のドラッグにしてしまった。
 善悪の評価は別にして、一人の個人として、やれることはかぎりのことはみんなやり遂げた。そして彼自身は、この世で自分が成したことがみんな無価値であるような場所にたどり着いた。あれだけ多くのことを成しえた人間が、最期には無価値で無用なもの、卑小で非力なものになった。つまり誰もが例外なくたどり着く最期に、彼もまたたどり着いたわけだ。自力で成し遂げられることは、その程度のものに過ぎない。
 若いころのジョブズは、自分が実の両親によって棄てられたと思っていた。放棄された自分を取り戻すために、ひたすら自分であろうとした。そのために食べ物からデザインに至るまで、自己を守り非自己を排除する過剰な免疫機構をつくり上げた。その彼が、最期にたどり着いた場所で自らを放棄しているように見える。静かに自分を明け渡し、何かに委ね、どこかへ回帰していったように見える。
 どんなに偉大で華やかな生も、卑小で平凡な生とどこも何も変わらないことを、ジョブズは身をもって示して死んでいった。彼の死はやわらかく温かみのある「ふたり」に包まれている。

Photo©小平尚典