蒼い狼と薄紅色の鹿(28)

創作
この記事は約2分で読めます。

10

 翌朝、六時ごろに携帯電話の着信音で起こされる。病院からだった。父の容体が悪いという。顔を洗い、手早く支度を整えた。入院しているリハビリテーション・センターの最上階が緩和ケア病棟になっている。そこでいま自分の父親が死につつある。看護師の口ぶりからすると、つぎに電話が入るときは臨終の報せかもしれない。間に合えばいいと思ったが、間に合ったところでどうなるわけでもない。

 居間のソファで高椋魁が寝ていた。昨夜は少量のレモン・サワーで酔いつぶれてしまい、別室へ運ぶのは面倒なので、そのまま寝かせて毛布だけ掛けておいた。もう十時間近く寝ていることになる。いくらなんでも酔いは覚めただろう。起こして簡単に事情を説明すると、寝ぼけた顔で相槌だけは打っている。どれだけ頭に入ったかわからないので、あとでもう一度電話を入れる必要があるだろう。客室で寝ている藤井茜には声をかけなかった。いくら生徒とはいえ、若い女を起こすのは気が進まない。

 二人が活動を開始するのは、わたしが出ていって一時間ほども経ってからだ。まず高椋魁が長い冬眠から目覚めるようにして起き上がる。空腹をおぼえ、さっそく食事の支度をはじめる。不器用な手つきでレタスを洗い、トマトを切り、目玉焼きを作る。ほどなく藤井茜が起き出してくる。

「おはよう」高椋魁は食器をテーブルに運びながら声をかける。「朝ごはん、食べる?」
「先生は?」
 彼は要領を得ない口ぶりで事情を話す。藤井茜はたいして気にかける様子もなく、とりあえずテーブルにつく。
「頭が痛い」と言ったのは高椋魁のほうだ。「お酒飲んだせいかな」
「ほとんど飲んでないじゃない」
「少しでも痛くなる」

 そんなことを言い合いながら二人は食事をはじめる。藤井茜はティーバッグの紅茶を淹れる。高椋魁はパンを焼いてバターを塗っている。

「なんか絶望的な気分」藤井茜はひどい二日酔いみたいな声で言った。「もうこの惑星で幸福になるのは無理かも。魁くん、この場で愛の言葉をささやいて。わたしを強く抱きしめて」
「そういうの、苦手だから」
「わかってる。大丈夫よ、多くを期待しているわけじゃないから」

 高椋魁はバターを塗り終わったパンを皿に載せて藤井茜のほうへ押しやった。彼女はパンを一瞥すると、別の皿のレタスを指先でつまんで端のほうを少し齧った。

「ここ何日か、わけのわからない不安を感じつづけているんだ」彼女は言った。「レタスもトマトも、みんなよそよそしくて不吉な感じがする。何もかもがわたしにたいして秘密をもっている気がする」
「目玉焼きも?」
「この無害そうな紅茶カップまでも」
「それは重症かも」
「だからそう言ってるじゃない」