蒼い狼と薄紅色の鹿(14)

創作
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 オート・ハープという楽器をご存知だろうか。ハープという名前がついているけれど形状は洗濯板に近い。長方形の木箱に弦が張ってある。弦の数は三十六から七というから、このあたりはハープに近いだろうか。二十一のコード・バーが付いていて、バーを押し下げることによって、その和音を構成する音以外の弦がミュートされる仕組みである。

 奏法としては琵琶のように膝の上に立てて左手でバーを押さえ、右手の指で弦をひっかく。ギターのアルペジオと同じだが、バーを押さえる左手が下にきて、爪弾く右手が上にくるところはギターと逆になる。ユーチューブの動画などを見ると、指にピックをつけて弾くこともあるようだ。コード楽器なので歌の伴奏に使われることが多いが、ソロ楽器としても演奏される。

 この楽器をはじめて見たのは、父が入所している施設でのことだ。寝たきりの父は、もはや喋ることも食べることもできなくなっていた。本人のなかでも、文句や不満を言う気力は残っていないようだった。入れ歯を外した口はまわりが落ちくぼんで、まるで餓死しかけている人間のようだ。嚥下機能が麻痺しているため、ひと月ほど前から中心静脈栄養になっていた。どう見ても先は長くない。

 洗濯物を取り換え、雑事を片付けると、話すこともないので早々に引き上げるのが常だった。そこへまだ学生にも見える若い女がやって来た。簡単に自己紹介をして、訪問の趣旨を告げた。どうやら音楽療法みたいなことをはじめるらしい。手にしている楽器を見て、わたしは名前をたずねた。「オート・ハープ」と彼女は答えた。それから父にリクエストをたずねた。不機嫌な父は問いを無視した。

 代わりにわたしが「思い出のグリーン・グラス」をリクエストした。母が好きだった数少ない曲の一つだ。幸いレパートリーに入っていたらしく、彼女は日本語でうたってくれた。きっと森山良子のものでおぼえたのだろう。母が聴いていたのはジョーン・バエズだが、そんなことを言ってもしょうがない。わたしは丁重に礼を言った。父は最後まで無言で無表情だった。

 その楽器が、なぜか高椋魁のアパートに姿を現す。

「これなに?」質問者は藤井茜だ。
「オート・ハープ」
「ちょっと弾いてみてよ」

 彼は言われるままに楽器を手に取り、静かに奏ではじめる。曲は「グリーン・スリーブズ」である。有名なイングランド民謡。「ああ、愛する人よ」ではじまる不実な恋人をなじる歌詞が付いていることを、二人は知っているだろうか。

「きみにそんな才能があったとは」曲が終わると藤井茜は少し感心したように言った。
「弾けるのは、この曲だけ」高椋魁は謙遜するでもなく言った。
「どこでそんな楽器、見つけたの?」
「病院」

 それから高椋魁はオート・ハープと出会った経緯について話しはじめる。