乳児の発するまだ言葉とも言えない言葉を「喃語」という。喃語は内面の表出ではない。「あァあァ」とか「おォおォ」とか「ばぶばぶ」などと声を発する乳児は、ただ声によって相手(母親)に触れようとしているのだろう。これを共同化(社会化)することはできない。「ばぶばぶ」を社会化したところで、なんの意味も価値もない。「ばぶばぶ」は自由である。
男女が仲睦まじく囁き合う言葉も、やはり「喃語」と呼ばれる。面白いなと思う。乳児の発する言葉以前の言葉と、男女が睦み合う場所で交わす言葉が同じ名前をもつというのは。男女が交わす睦言も、言葉というより愛撫に近いものかもしれない。そして乳児たちの「ばぶばぶ」と同じように自由である。彼らはどんな共同幻想も疎外せず直につながっている。
喃語を発している乳児にとって、母親と自分は明確に区別されているわけではないだろう。いわば自他未分の状態にある。親密な心理状態にある恋人たちの場合も、やはり自他未分に近いのかもしれない。夏目漱石が「アイ・ラブ・ユー」を「月がきれいだね」くらいに訳しておけと言ったのは有名な話だが、このとき月を見ている二人は心情的に自他未分に近い状態と思われる。それを漱石は「アイ・ラブ・ユー」の核心にあるものと考えた、というのは深読みかもしれないけれど、なかなか味わい深い話である。
ぼくたちは親密な相手とのあいだで、乳児と母親が体験しているような自他未分に近い状態になることがある。たとえば誰かを好きになって、その人と一緒に食事をしながら話をしている。夢中になって話をしているうちに、喋ったり笑ったり相槌を打ったりしているのが自分なのか相手なのかわからなくなる。二人で話をしているはずなのに、二人を「ひとり」と感じてしまう。そういうことって、あるでしょう? さて、夜も更けてきた。とりあえずそれぞれの場所に戻らなければならない。しかし部屋に帰って一人になっても、あいかわらず「ふたり」はつづいている。一人なのに「ふたり」と感じてしまう。そういうことって、ありますよね? つまり「二人でいてもひとり、一人でいてもふたり」である。
心が身を限り、身が心を限る。これが自己同一性の認識である。それとはまったく位相を異にする、「ふたり」という場所がぼくたちのなかにはある。「1が2である、2が1である生の豊饒さ」と森崎さんは言っている。人が生きていることのなかに、これ以上に悦ばしいものがあるとは思えない。自分は充たされていると感じるのは、そういうときではないだろうか。一人でいる自分を「ふたり」と感じるとき、二人でいる自分たちを「ひとり」と感じるとき。何かが充ちてくる。自分のなかに自分が充ちてくる。自分が自分で充ちてくる。
ぼくたちは「自己」について大きな誤解をしているのではないだろうか。「自己」の起源は一人称ではない。自他未分の「ふたり」の場所があって、そこで充ちてくるものが「自己」である。そう考えるなら、もともと自己や自分には悪は含まれていないことになる。「おォおォ」とか「ばぶばぶ」とか言っている乳児と母親との関係が、邪悪なものを胚胎しているとは思えない。一緒に食事をしながら談笑している若い二人にも、悪の気配はない。
ところが自己や自分という名辞が出来上がってしまい、これを最初から一人称として扱うと、禍々しいことがつぎからつぎに起こってくる。自己の実質は「ふたり」だということが忘却されると、自己は空っぽな器に過ぎないものになる。空っぽだからなんでも入る。どんな邪悪な考え方にもとらわれる。今回のコロナ禍で明らかになったように、全人類が一瞬にして医学宗教に帰依して、唯々諾々と怪しげなワクチン接種に応じることにもなってしまう。こうした事態を予感して、ニーチェは狂気の闇に沈んだのではないか? そう考えると、彼のニヒリズムは現在性を帯びてくる。(2024.8.27)
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