文学のことば・文学のまなざし

講演原稿
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 日本では去年(2016年)7月、神奈川県の知的障害者福祉施設に元職員の男が侵入して、刃物で19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせるという事件が起きました。事件から一年が経ち、被害者の父親の一人がインタビューに応じたものが新聞に出ていました。亡くなった娘さんは35歳で、残されたお父さんは62歳です。ご本人は今年の春、癌と診断されたらしいのですが、延命治療はせずに、毎朝仏壇の前で「もうすぐいくよ」と亡くなった娘さんに語りかけておられるそうです。娘さんはコーヒーが好きだったので、仏壇にコーヒーを供えて「元気か?」と声をかけ、「元気ってことはねえか」とつぶやくのが日課になった、と記事は結ばれていました。
 誰にとっても肉親の死、大切な人の死とは、このようなものだろうと思います。死んだら死にっきりということで、人は生きていないはずです。一人ひとりにとって死は、この被害者の父親のように「もうすぐいくよ」とか、「元気か?」「元気ってことはねえか」といった言葉のやり取り、絶えざる対話とともにあると思います。それは医学や生物学が考える死とはまったく違うものです。
 もちろん医学・生物学的な死を拒絶する、否定するということではありません。そんなことをしたら、ぼくたちの社会では奇人・変人扱いをされてしまいます。メキシコもそうだろうと思いますが、日本人の大半は医学的な死を受け入れます。医者から「ご臨終です」と言われれば、家族はそれを受け入れます。そして時間をおかず業者に電話をかけて葬儀の準備に入ります。通夜をあいだに挟んで、つぎの日には火葬にするという段取りになります。
 その一方で、アンケート調査などで来世観をたずねると、「あの世はある」と答える人のほうが、「あの世はない」と答える人よりも多いという結果が出たりします。魂の存在を信じるか否かという質問でも同様です。はっきり「信じる」という人は少ないかもしれませんが、どちらとも言えない、よくわからないといった答え方をする人は意外と多いのです。「信じない」という人は、むしろ少数派です。このことをどう考えればいいのでしょうか。
 医学や生物学の知見のなかで合理的に考えると、「魂」や「あの世」は存在しないことになります。先の被害者のお父さんのように、死んだ娘にたいして「もうすぐいくよ」という場所は、医学や生物学のなかにはありません。医学的に定義される死は、心停止や呼吸停止、つまり生命活動の停止です。また生物学的には、個体を形作っている細胞がみんな死んでしまえば、その個体は死んだということになり、最終的には水と炭素に分解されて終わりです。物質のレベルで死を記述すれば、おおよそそんなふうになるでしょう。そのことに異論はありません。
 しかし何か満たされないものが残ってしまう。未解決のものが残りつづける気がします。それはなぜかというと、医学や生物学が記述する死が、ぼくたちの実感とはかけ離れたものであるからだと思います。医学・生物学的な死とは、誰もが理解できるものです。生命活動の停止として、あるいは生体を形作っている細胞の死滅として、合理的な思考の範疇で説明される。それをぼくたちは理解する。だから受け入れるわけです。
 これにたいして「あの世」や「魂」というものは、もっとデリケートなもの、そしてプライベートなものだと思います。一般論として「ある」とか「ない」とか言えない。「あの世」や「魂」を医学や生物学の言葉で記述することはできません。しかしぼくたちが身内とか肉親とか、大切な特定の死者を考えるときには、どうしてもこうした言葉が必要になってくる。無下に否定されることに反発をおぼえる。医学や生物学の言葉だけで人の死を説明されると、なにか非常に不充分な気がする。それは医学や生物学が、人の死についてごくわずかのことしか言ってないからだと思います。

 もう少し言うと、ぼくたち一人ひとりが生きている生と、医学や生物学が定義し、記述するものは次元がまったく違うのです。医学や生物学は人間を一つの生命現象、物理化学的な自然現象とみなします。しかしぼくたちは自分の肉親や夫や妻や恋人といった大切な人の生と死を、たんなる生命現象や自然現象とはみなしていません。みなすことはできません。
 この次元の違いをはっきりさせるために、「粗視化」(coarse graining)という言葉を使いたいと思います。ぼくはこの言葉を、イギリスの数理物理学者ロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)の本のなかで知りました。ペンローズは、細かく見れば違っているけれどマクロに見れば同じに見える状態のことを「粗視化領域」と言っています。対象を見るときの解析度を下げること、モザイクをかけて情報量を減らすこと、と言ってもいいと思います。
 たとえば一人ひとりの日本人を見れば、みんな違っていて一人として同じ人はいません。しかし性別とか年齢とか性格といった情報量を減らしていくと、やがて「日本人」という粗視化領域があらわれてきます。また70億人と言われている世界中の人々から、個別の情報をどんどん抜いていくと、「人類」とか「ホモサピエンス」といった粗視化領域があらわれます。
 医学や生物学も、人間をこうした粗視化領域のもとに見ています。それは70億の人類を生命現象や物理化学的な自然現象といった、一つのパースペクティブにおいて見ることが可能な粗視化領域です。その結果、人の生死が、全哺乳類に共通したマクロな変数のみを用いて記述されることになります。
 現在の状況として、医学・生物学的に粗視化された死だけが死になろうとしています。死ねば死にっきりで、その先には何もない、という死だけが唯一のグローバルスタンダードになろうとしている。このような死は恐怖であり、虚無や絶望でしかありません。だから病気の治療や延命、健康診断や予防医学や健康法のようなことが巨大なビジネスになっているのでしょう。
 日本ではいま2万円ほどで遺伝子診断を受けることができます。インターネットで申し込むと検査キッドが送られてきて、唾液を採取し郵送すると、解析後のデータをスマートフォンなどで見ることができる。これによって生活習慣病、各種の癌、心筋梗塞、2型糖尿病、高血圧など360種類の疾患リスクがわかるそうです。いずれぼくたちの生は、DNAの基盤の上にマッピングされるものになるかもしれません。
 もう一つ例をあげましょう。すでに血液や血液製剤、臓器、卵子、精子、胚などが商品化され、誰でも購入できるようになっています。遺伝子を分子レベルで分解し、解剖し、操作し、増幅し、再生産する技術のおかげで、人体の個々のパーツが分子操作によって特定の個体や型や種との結びつきを解除され、安心して利用できる商品になっているのです。
 いまの世界が向かっているのは、間違いなくこうした方向です。生命科学と再生医療とグローバル経済のようなものが渾然一体となり、70億の人類の心と身体を商品化しつつあります。人間の生がまるごと可視化され、計測・計量されるものになろうとしています。グローバリゼーションの本質にあるのは、人間の究極的な粗視化であると言ってもいいと思います。そのなかに人間の存在が閉ざされようとしている。そこでは一人ひとりの生の固有さは、すべて切り捨てられてしまいます。

 文学がやろうとしていることは、死に向ける個別のまなざしを創出することだと言えます。あるいは死を、医学や生物学が記述するものとは別のものとして表現すること。それが文学のことばということになると思います。先の殺傷事件で亡くなった娘さんは、医学・生物学的には存在しません。つまり実体として、目に見えるかたちでは存在していない。しかし被害者のお父さんは、毎朝娘さんの仏壇にコーヒーを供え、言葉をかわしている。この言葉は、医学や生物学の言葉とは異質なものです。グローバリゼーションにおいて共通言語になっている情報処理言語、いわゆるアルゴリズムとも違います。ここで交わされている言葉は、やはり文学のことばとしか言いようのないものだと思います。
 フォレスト・カーター(Forrest Carter)というネイティブ・アメリカンの血を引く作家がいます。1979年に亡くなっていますが、彼の『リトル・トリー』(The Education of Little Tree)という小説のなかに、祖父が孫に別れを告げる場面があります。孫のリトル・トリーがじっと手を握っていると、祖父の顔に笑みが広がります。彼は孫に向かってこんなことを言います。「今生も悪くはなかったよ、リトル・トリー。次に生まれてくるときは、もっといいだろう。また会おうな」そして祖父は吸い込まれるように去っていきます。
 見事だと思います。このおじいちゃんが見事だと言ってもいいし、こういう小説を書いた作家が見事だと言ってもいいのですが、誰が読んでも「いいなあ」と感じるのではないでしょうか。医学や生物学が記述する死には、「いいなあ」というものがありません。ただ恐怖であり、虚無や絶望でしかありません。そういう死に、なぜぼくたちはいつまでもとらわれているのでしょう。どうして自ら進んで隷属してしまうのでしょう。もっと別の死をつくればいいと思います。「死」と呼ばれているものを、死とは違ったものにつくり変えてしまえばいいのです。『リトル・トリー』のおじいちゃんのように、あるいは殺傷事件で娘さんを亡くした父親のように、一人ひとりが自分の言葉でやればいいと思います。また、やれるはずです。そのために文学のまなざしが、文学のことばがあるのです。
 ぼくの『世界の中心で、愛をさけぶ』(Un grito de amor desde el centro del mundo)という小説にも似たような場面があります。この小説の主人公はアキと朔太郎という高校生のカップルです。二人はお互いに心を引かれ合いますが、アキのほうが不治の病で亡くなってしまいます。彼女が入院している病院の無菌室で、二人は最後の言葉を交わします。「お別れね」とアキが言い、「ぼくもすぐに行くから」と朔太郎が応じます。「待ってる。でも、あまり早く来なくていいわよ。ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」「わかってる」「またわたしを見つけてね」「すぐに見つけるさ」という具合に、二人は言葉を交わしていきます。
 自分の小説ながら、「いいなあ」と思います。自分が書いたとは思えないくらい、何度読んでも「いいなあ」と感じます。多くの人が「いいなあ」と感じてくれたから、スペイン語にも翻訳されて、今日、ぼくはここにお招きいただいているのだと思います。こんなふうにして、人はつながっていくのではないでしょうか。「いいなあ」と感じるものによって、人と人はつながっていく。アキと朔太郎が最後の言葉を交わす場面に、死の恐怖や、虚無や絶望はありません。一瞬のことかもしれないけれど、二人のあいだで死は消えています。死はなにかもっと別のものになっていて、それに触れた人たちは、人種や国籍を超えて「いいなあ」と感じる。
 このいい感じのもの、気持ちのいい音楽や、いい匂いのする空気や、透き通った光や、おいしそうな食べ物にも似た善きものを、一人ひとりが自分の生きている場所でつくればいいと思います。プロの作家であるかどうかは、まったく関係がありません。『リトル・トリー』のおじいちゃんのように、あるいは高校生のカップルのように、誰でもやれることです。
 ただし、一つ条件があります。一人ではやれない、どうしても二人でなければならない。「いいなあ」という出来事は、どうやら二人という場所でしか起こらないらしいのです。ここにぼくたちの生の神秘さがあり、人間がもっている可能性があると思います。(2017.9.3 メキシコ国立総合技術大学)