人間創生としてのシンギュラリティ

講演原稿
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1 人間vs人工知能
 AIにかんする議論を見ていて感じるのは、この世界がどこに向かっているのか、誰にもわからなくなっているということです。非常に大きな変動が起こっていることは間違いなのですが、世界規模で進行する変化の速さに多くの人がついていけなくなっている。変貌する世界についてのビジョンを、誰ももちえなくなっている。自分たちの生きている世界がどのようなものになるかわからないので、一人ひとりが先行き不安なものとして日々を生きるしかなくなっている。そのことがAIに脅威を感じることの根底にあると思います。
 シンギュラリティに備えて何をすべきか。もちろんできるだけ正確な未来予想を立てることも重要でしょう。これから人間はまったく未知の世界を体験することになりそうです。CRISPR-Cas9という遺伝子編集ツールの発見と普及は、生命科学の世界におけるスマホの発明みたいなものだと思います。ポイントは低コストと使いやすさでしょう。「先進的な生物学研究所で数年かかったことが、いまでは高校生が数日間でできる」と言われますが、この簡易にして強力なツールの登場により、人間は全生物のゲノムを思い通りに書き換える能力を手にしようとしています。遺伝情報の流れを操作し、人類の進化のみならず地球上のあらゆる生命を遺伝子レベルで指揮し、統制する時代がやって来ようとしている。
 多くの人が不安にかられるのも無理からぬ話です。強大な力を手にしてしまったことにたいする底知れない恐ろしさ。人間が容易に悪をなしうるものである以上、それは破壊的、破滅的な結末を引き起こしかねない。だからこそ、人間の善良な部分に目を向ける必要があると思います。絶対的に善なるものが人間にはあります。おそらく数万年来、かわらずにありつづけている。テクノロジーが指数関数的に進歩し、人間のみならず自然環境を含めた世界の光景が激変しても、なお変わらないものがあるのです。それをしっかり見極めることが大切だと思います。

2 奈良の仏像をめぐって
 最近は仕事や観光で奈良に行くことが多く、そうするとお寺をまわってたくさんの仏像さんを見ることになります。法隆寺でも東大寺でも興福寺でも、だいたいぼくたちが見ている仏さんたちは色が剥落し、もとのお姿をとどめていません。しばらく前に新薬師寺で、堂内に安置されている十二神将を、最新の技術を使って復元するというプロジェクトのビデオをたまたま観る機会がありました。かすかに残っている塗料などを分析し、コンピュータでバザラ像に色や模様を一つ一つ貼り込んでいく。するとタイの寺院などで目にする仏像のような極彩色の艶やかなお姿になってしまいました。天平時代の人々は、この色鮮やかな像を拝んでいたわけですね。
 バザラとかビギャラとかアニラとか、まるでウルトラ怪獣みたいな名前をいただき、厳しいお顔で1200年以上ものあいだ同じポーズをきめておられる彼らにも青春時代があった……というか、みなさんとんでもない年寄りです。優に1200歳を超えていらっしゃる。考えてみると、十二神将にかぎらず仏像というのはみんな超年寄りなんですね。彼らが生きている世界は、老人問題とか高齢化社会といった生易しいものではなくて、剥落とか劣化とか崩壊とか、老化というよりも、もっとすさまじい物理的なカタストロフィに曝されている。にもかかわらず、認知症など1000年も昔に経験済みという涼やかなお顔で坐っておられる。たいしたものだと思います。
 そういう仏様をぼくたちは「尊い」ものとして拝んでいるわけです。これはもう我知らず掌を合わせたくなる。心静かにたたずみたい気持ちになっている。多くの人がそうだろうと思います。だから外国人を含めてたくさんの人が訪れるのでしょう。年寄りも若者も、お金持ちも貧乏人も、身分や境遇に関係なく、仏様の前では不思議と謙虚に自分を寛がせたくなる。頭や腕のとれた、いわゆる破損仏もたくさんあります。いまの言葉でいうと重度の身体障害者です。彼らは五体満足の仏像と同じ存在感をもち、ときに完全仏以上の魅力や親しみを感じさせる。これは仏像にそうした力があると言うこともできるし、ぼくたちのなかに色が剥落して、頭や腕のとれた1000年を超える仏像を「尊い」と感じる力があると言うこともできます。
 この「尊い」とか「ありがたい」といった感覚はどこからやって来るのでしょうか。人の好みは十人十色と言います。蓼食う虫も好き好きとか。幸いなことに、ぼくたちの異性にたいする好みは一人一人違っていて、他人の奥さんや恋人を見ても、いったいどこがいいんだろうとか……そこまでいかなくても、自分の好みとはずいぶん違うなあということはよくあります。これにたいして仏像を見たときに感じる「尊い」とか「ありがたい」といった感覚は、あまり個人の好みを反映していない気がします。もっと普遍的な感覚といいますか。しかも相手は剥落し、劣化した仏像さんです。
 剥落し、劣化することによって、普遍的なものが残ったのかもしれません。それをぼくたちは「尊い」とか「ありがたい」という言葉によって表現しているのではないでしょうか。一体一体の仏像さんたちがもともと持っていた美質、鮮やかな色彩とか完璧なプロポーションなどは、退色し、剥落し、ときに破損して、ほとんど失われています。だから残っているのは、個を超えたものと言うこともできます。各々の仏像さんたちの個として能力、いわばパフォーマンスを超えたものが残りつづけていて、それを「尊さ」とか「ありがたさ」という言葉で表現している。
 ぼくたちは「老い」というものをネガティブにとらえ過ぎているのかもしれません。人が老いることは普遍性に近づいていくことでもある。そんなふうに考えればいいのではないでしょうか。個人の能力やパフォーマンスを超えたものが、人間にとっての普遍であり、また大切なものであるのかもしれません。普遍にして大切であるものが、剥落し、劣化した仏像さんたちによって可視化され、実体化されている。仏像を見る、拝むというのは、そういうことではないかと思います。

3 ガンジス川のほとりにたたずむ人たち
 福井に知人がいまして、本業は大工さんですが、他にも画家、書道家、フォトグラファー、デザイナー、木工職人、ジャズ・ドラマーなど多彩な顔をもつユニークな人です。今年の3月に遊びに行きました。インドから帰国したばかりということで、目的はガンジス川で水浴びをすることだったというから、ちょっと変わった人かもしれません。
 インドで撮った写真を見せてもらったのですが、思わず「むむっ」とうなってしまいました。素晴らしいです、男も女も老いも若きも、そこに写っている一人ひとりの顔が。アベシンゾウやトランプは論外として、アマゾンのベゾスよりも、マイクロソフトのビル・ゲイツやフェイスブックのザッカーバーグや投資家のウォーレン・バフェットなどよりも、圧倒的にいい顔をしている。悔しいのでお金持ちばかり並べましたが、他の誰でもかまいません。ぼくたちが思い浮かべる有名人よりも、はるかにいい顔をしている。味わい深いというか、一つの個性として屹立している。むしろベゾスなんかがニット帽を被って街を歩いていたら、誰かわからないだろうと思います。
 特別なところはありません。ガンジスのほとりで日がな一日暇をつぶしているような人たちです。まあ、ぼくたちの感覚からすると、けっこう「特別」かもしれないけれど。要するに観光客を相手に商売したり、小銭をせびったりしているような人たちです。ひょっとして「こいつを騙して金をせしめてやろう」などと、心のなかでは思っているのかもしれない。でも、どの人にもいわく言いがたい存在感があるのです。おかしな言い方ですが、みんな自信をもってここまで来たんだなと思わせる。
 彼らの顔を見たときに、ぼくは奈良の仏像さんたちを思い出しました。雰囲気というか風貌というかたたずまいというか、確固として「ここにある」という感じが、とてもよく似ている。さすがに「尊い」とか「ありがたい」という言葉を使うのは気が引けますが、「美しい」という言葉は使っていいのではないか。まさに「美しい」のです、彼らの顔は。
 仏像さんの場合と同じで、個人の能力やパフォーマンスの問題ではありません。物乞いをしているような人たちですからね、パフォーマンスはほとんどゼロに近い。でも美しい、だから美しい……どう言えばいいのかわかりませんが。いわゆる美男・美女は一人もいません。仏像さんの場合も同じですね。かつてはそうだったのかもしれないけれど、いまは剥落し、劣化している。ご老人なども、これに近いかもしれません。皺だらけの老人の顔を「美しい」と感じることがあります。死を間近にした人の顔に「美しさ」を見出すことがあります。脳性麻痺などの重い障害を抱えた人の顔からも、同じ印象を受けることがあります。
 するとぼくたちは「美しい」という言葉によって、何を表現していることになるのでしょう。おそらく「固有性」のようなものではないかと思います。一人ひとりの顔や物腰、仕草に、それぞれの固有が表現されている。とりかえのきかない、その人が生きてきた時間が包み込まれている。そういったものを感知したとき、ぼくたちは「美しい」という言葉を使いたくなるのではないでしょうか。では彼らが体現している固有性は、どこからやって来くるのでしょう。たとえばガンジス川のほとりにたたずむ男が醸し出している、「この人はこの人以外の誰でもない」という印象はどこからやって来たことになるのでしょう。
 「自己(self)」の手前ということだと思います。そう考えるしかない。仏像の場合と同じように、個人が自己として体現していた能力やパフォーマンスはほとんど剥落し、失われている。にもかかわらず、その人のなかに残りつづけているものを、ぼくたちは「美しい」という言葉で掬い取ろうとしているのではないでしょうか。
 人間にとっていちばん大切なもの、ぼくたちが本来持っている人間性みたいなものは、個人の能力やパフォーマンスを超えたところに、たぶん同じことですけれど、自己の手前にあるように思います。それは豊かにしてやわらかなものです。圧倒的に善きものです。そういったものが、「尊い」という言葉や「美しい」という言葉とともに息づいている。この領域を一つの「自然」とみなせば、ぼくたちが「自然」と呼び慣わしてきたものとは別の、まだほとんど知られていない自然が誰のなかにもある。それが何かに触発されて、「尊い」とか「美しい」という言葉になって出てくるのだと思います。

4 シンギュラリティとは何か
 最後に人工知能(Artificial Intelligence)の話をしようと思うのですが、ぼくは専門家ではないので、あくまで聞きかじりの知識でお話しするということをご承知おきください。
 人間の知能はコンピュータで実現できるのではないか、というのがそもそもの発想だったようです。人間の脳といえども多数の神経細胞のあいだを電気信号が行き来しているわけだから、電気回路と同じである。この電気回路をCPUみたいなものに代替させれば、人間の思考をコンピュータで実現することができる。つまり人間の頭脳活動を極限までシミュレートするシステム、最終的には人間と区別がつかない知能を人工的につくることができるはずだ。これが人工知能の基本的な考え方だと思います。
 この段階で、すでに踏み外しが起こっているように思います。脳を電気回路とみなし、人間の思考を「計算」と考えたことです。そうすると人間の脳は万能のチューリング・マシンみたいなものになります。チューリング・マシンというのは、アラン・チューリング(1912~1954)が考案した、二種類の記号(0と1)だけを使って計算を行う装置のことですね。「再帰的分解」というのでしょうか、人間の脳が行っているような複雑な仕事も、イエスかノーで答えられるような単純な仕事に解体してやればいい。そうすればチューリング・マシンによって計算が可能になる。ここにも重大な短絡があります。人間の脳の機能は、二進法の演算に解体(分解)できると考えたことです。短絡というよりも倒錯と言ったほうがいいかもしれません。つまり0と1の演算をするというチューリング・マシンの機能から、人間の脳の機能を規定するという逆転が起こっているのです。
 そもそも脳は電気回路であるという前提からして、真偽のほども正否のほどもわからない、何も保証されていない勝手な思い込みに過ぎません。そこから人間の脳が規定されているのです。その結果、人間の脳は、認知機能というきわめて限定的な役割だけを担わされることになる。でもどう考えても、認知というのは人間の脳が行っている活動のごく一部に過ぎません。しかも比較的次元の低い機能ではないでしょうか。そこから人間の脳の全活動を説明しようとすると、認知以外のものは切り捨てられてしまうことになります。「尊い」とか「美しい」という言葉によって考えてきた、人間にとっていちばん本質的なもの、人間が本来持っている人間性、豊かにしてやわらかなもの、万人のなかに息づいている善きものは顧みられなくなってしまいます。
 認知能力とは何かというと、要するにA=Aという同一性を認識することです。それをAIは非常に短時間に、ほとんど瞬時に行うことができる。同一性の認識は、イエスかノーかという二進法の演算に分解できますから、チューリング・マシンから発達してきたAIがもっとも得意とするところでしょう。たとえばビッグデータを解析して、規則性や法則性や類似性などのパターンをモデルとして抽出してくる。このモデルと現実のデータとのズレを、コスト関数として計算して最小の値に近づけていく。これを高速で行えば、認知能力においてAIは人間を凌駕することになります。
 アルファ碁がプロの棋士を打ち負かすのも、医療用のAIが数万から数十万という膨大な症例を参照して的確な診断を下すのも、スマホ決済の利用情報、車や家などの保有資産、学歴、友人などの情報から個人の「信用スコア」をはじき出し、銀行ローンや融資の査定をコンピュータが適正かつ迅速に行うのも、高速トレードの世界でマイクロ秒やナノ秒の単位で売買の判断を下すのも、あるいは車の自動運転のようなものも同じメカニズムだと思います。認知能力に限定すれば、到底、人間はAI にかないません。
 話は変わりますが、ぼくの祖母は晩年に認知症が進んで、見舞いに行っても誰だかわからないんです。孫であるぼくのことを、自分の息子だと思っている。A=Aという同一性が認識できなくなっているのですね。時間や場所にかんしても同じです。いま、ここという同一性が認識できなくなる。こうして物忘れや徘徊がはじまる。認知機能が退化していくというのは、たしかに難儀なことです。でも、たとえば人を好きになることって、認知症になるようなものではないでしょうか。相手の人がA=Aではなくて、Aなるものをはるかに超えて、世界でいちばん大切な人、いちばん価値あるものになるわけですからね。A=Aだったものが、ほとんどA=∞(無限大)になっている。
 「おまえが好きや」と言っている者の認知機能は完全に崩壊しているのです。客観的なデータとしてはA=Aに過ぎない一人の女性を、「きみは世界一美しい」などと言ってしまう者の認知機能が正常であるわけがありません。人を好きになるという、ぼくたちの人生でいちばん素敵なことは、じつは認知機能を超えたところ、認知機能が崩壊したところで起こっているのです。認知機能に特化したAIに、このヨロコビはわからないかもしれません。かわいそうですね。
 誰かを好きになるということは、自分だけの固有なまなざしでその人を見ることです。それは認知を超えた遥かに創造的な作業です。AIにはA=Aとしか認識できない者を、これまで存在しなかった「その人」として新たに創り出すということですからね。「好き」というシンプルな情動一つをとってみても、そのなかにはきわめて人間的かつ創造的な活動が含まれているのです。他にも認知機能をはみ出すことを、ぼくたちはたくさんやっているはずです。
 認知機能をはみ出すとは、「自己」をはみ出すことでもあります。自己とは「私」なるものを、A=Aという同一性において認識することです。つまり脳の認知機能として「自己」は認識されます。これまで見てきたように、認知機能にかんしては人間よりもAIのほうがはるかにすぐれているわけですから、自己を認識することも、いずれはAIが代行するようになるでしょう。いまのところぼくたちは「自己」とか「私」といったものを自分だと思っていますが、将来はデジタル・データに置き換えられてAIが演算するようになるかもしれません。
 ぼくがたずさわっている文学にかんしていうと、長いあいだ個人の内面を表現することが文学だと考えられてきました。とりわけ「近代文学」と呼ばれているものはその傾向が強い。しかし内面は自己に帰属し、この自己はAIによって隅々まで読み解かれてしまうのですから、いずれは内面を表現する文学もAIのほうが人間よりも見事にやるようになるはずです。アルファ碁がプロの棋士を打ち負かすといったことが文学の世界でも起こってくる。近未来の書店には、人間由来の文学とAI由来の文学が、いまの日本文学と外国文学みたいなかたちで並ぶことになるかもしれません。
 この段階を、ぼくはシンギュラリティと考えています。シンギュラリティとは「自己」や「私」、あるいは「内面」といった、ぼくたちがよりどころとしているものがAIにとって代わられることです。自己に起点を置くもの、自己がなしうるものは、すべてAIによって実現される。自己なるもののパフォーマンスはAIによって超えられる。人間は何よりも「自己」としてAIに凌駕される。これがシンギュラリティだと思います。シンギュラリティは人工知能が人間の「自己」というシステムを超えてしまう、そういった特異点のことだと思います。
 しかし本来の人間性は、「自己」の手前にあります。そこに「尊い」ものや「美しい」ものがあり、やわらかで豊かな自然が広がっている。この自然の上に善なるものが息づいています。たとえば認知症の老人が、赤の他人にお金をあげたりすることがあります。自己を基準にして考えれば侵犯であり犯罪ですが、自己の手前にあるやわらかで豊かな自然に目を向けるならば、万人にたいする分け隔てのない贈与が起こっているとも言える。自己や他人の同一性にかんする認知があやしくなっているので、誰にたいしても心を許してしまう。誰とでも無防備につながってしまう。「隣人愛」や「友愛」といった言葉とともに理想として掲げられながら、今日まで人間が実現できずにいることを、認知症と呼ばれる老人などが難なく成し遂げてしまう。
 圧倒的に善なるものは「私」という現象の手前で起こっています。認知症と呼ばれている人たちは、図らずもそれらを体現することになっているのかもしれません。彼らは奈良の仏像さんたちと同じように「尊い」のではないでしょうか。「自己」の手前にもう一つの自然があるから、ぼくたちは自分よりも大切なものに出会ったり、映画『タイタニック』のジャックのように、船上で出会った人を助けるために自らは冷たい氷の海に沈んでいったり、あるいは山手線で線路に落ちた酔っ払いを助けようとして、まったく見ず知らずの人たちが命を落とす、といったことが起こるのでしょう。彼らの行いは尊く美しいのですが、それを「パフォーマンス」と呼ぶことには抵抗があります。一人ひとりの人格を超えた尊さ、美しさだと思うからです。
 誰のどのような生にも、絶対的な善が小さな種子のようにして埋め込まれているのではないでしょうか。それがふとしたはずみにインフレーションを起こすみたいにして外に出てくる。まるで奇蹟のように。奇蹟を起こしうることにおいて、万人が潜在的に小さな可能性としてイエスなのかもしれません。誰のなかにも目に見えないイエスが住んでいるから、キリスト教は2000年以上にわたり世界中で信仰されつづけている。スマホが2000年間使われつづけることはないでしょう。ゲノム編集だって百年後には過去の技術になっているはずです。しかし人々の祈りは2000年以上つづいています。それは人間のなかに数千年単位では変わりようのないものがありつづけているからだと思います。
 自己のパフォーマンスとしてやれることはたかが知れています。たとえゲノム編集によってパフォーマンスを向上させたところで、たちどころにAIによって凌駕されてしまう。所詮、その程度のものに過ぎないのです。AIに凌駕されたところから、本来の人間がはじまるのだと思っています。それは自己を超えて広がる世界とともにあるはずです。
 まだ考え尽くせていないこと、うまく言葉にできないことがたくさんありますが、勘所は間違っていない気がしています。このへんで終わらせていただきます。(2018年7月8日 青山学院大学)