コペルニクスやガリレオが登場する以前は、地球のまわりを太陽や月といった天体がまわっていると考えられていました。それが当時の人たちにとっての自然でした。ぼくたちは地球が自転しながら太陽のまわりをまわっていることを知っています。現在ではそっちのほうが自然になっています。このように人々が「自然」と考えているものは時代によって変わっていきます。ぼくたちから見ると天動説は科学的に誤りであり、幼稚な知識に思えますが、当時の人たちにとっては地動説のほうが、下手に公言すると火あぶりになりかねないくらい、とんでもない考え方だったわけです。
このことはぼくたちの常識や価値観、ものの見方についても言えると思います。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』という本のなかで面白いことを言っています。紀元前1776年ごろに制定されたハンムラビ法典では、人は生まれながらに上層自由人、一般自由人、奴隷という三つの階級に分けられていました。各階級によって成員の価値は異なり、たとえば女性の一般自由人の命は銀30シェンケル(シェンケルは古代バビロニアの重さの単位です)、女奴隷の命は銀20シェンケル、男性の一般自由人の目は銀60シェンケルという具合でした。つまり一般自由人の男性の目を傷つければ、女性一般自由人を殺したときの二倍、女奴隷を殺したときの三倍に相当する賠償金を払わなければならなかったということです。ぼくたちの感覚からすると奇怪な考え方ですが、当時の人々にとってはそれが「自然」だったのです。
ハンムラビ法典から3500年後、北アメリカにあった13のイギリス植民地の住人たちにとっての自然は、これとはまったく異なるものでした。1776年のアメリカ独立宣言では、「万人は平等に造られており、奪うことのできない特定の権利を造物主によって与えられており、その権利には、生命、自由、幸福の追求が含まれる」ことが謳われています。
いま、ここにおられるみなさんのほとんどは、アメリカ独立宣言の考え方に賛同されると思います。ちなみにハンムラビ法典派の方はいらっしゃいますか? つまりぼくたちにとっては、「すべての人は平等である」ことが自然なのです。万人は自由であり平等である、現実はどうあれ、それが理想だと考える世界にぼくたちは生きています。
ところでマーク・トウェインという作家がいます。『トム・ソーヤの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』の作者ですね。彼が子どものころは奴隷制度が合法的で、誰でも奴隷を持つのが当たり前と考えられていました。『ハックルベリー・フィン』のなかで、主人公のハックはジムという黒人奴隷の逃亡を助けますが、そのことで繰り返し罪の意識にとらわれます。トウェインが生まれ育った時代と地域において、自由を求めて逃亡する黒人奴隷を助けることは道徳的、宗教的規範に反する行為でした。1835年に生まれた人ですから、万人は平等であることを謳ったアメリカ独立宣言から半世紀以上が経っています。にもかかわらず、かなり多くの白人にとって黒人奴隷を所有することも、その奴隷が逃亡すれば捕まえてリンチにすることも「自然」だったようです。
現在のトランプ大統領は、人種差別や白人優越主義を露骨に表明していますね。マーク・トウェインが『ハックルベリー・フィン』を書はきはじめたのは1878年ですが、その小説のなかに出てきてもおかしくないような人物です。こういう人を大統領として支持する人たちが数多くいるということは、『ハックルベリー・フィン』に描かれているような自然が、なおアメリカ人とアメリカ社会のなかで根強く生きつづけているということかもしれません。
さて、日本社会の「自然」はどのようなものでしょう。ぼくたちはどういった自然を生きているのでしょう。そのなかにいる者には、自分たちがとらわれている自然のおかしさがわかりません。それはハンムラビ法典や奴隷制度のおかしさが、当時の人たちに自覚されなかったのと同じです。あるいは天動説のおかしさが、コペルニクスやガリレオ以前の人たちに認識されなかったのと同じです。おかしいことをおかしいと思わせない、不合理なことを不合理と感じさせない。あたかも空気のように身のまわりにあるものが「自然」です。
その時代の自然を疑ってみることは、難しいことですが、とても大切なことだと思います。ひょっとするとぼくたちは知らないうちに、とんでもない不合理や、とんでもない愚かさにとらわれているかもしれないのです。自分たちが生きている自然を別のまなざしで見ること、誰もが自然と考えていることを疑って見ること、それが文学の大きな役割だとぼくは思っています。
手短に二つの作品を紹介します。まずフランツ・カフカの『変身』という小説です。この作品は、「ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した」というふうにはじまります。ザムザは布地の外交販売員で、両親と妹と四人で暮らしています。『変身』は虫になったザムザの視線で「家族」という自然を観察する小説、と言うことができます。小さな虫という別のまなざしによって家族の冷酷な面、ときには残酷な面をあぶり出していきます。読み終えたときには、自分が思い描いていた家族が少し歪んだり、ひび割れたり、曇ったりしている気がするかもしれません。
でも『変身』は家族を否定する小説ではないと思います。この小説は、多くの人がとらわれている家族という自然にたいして、虫に変わってしまった男から見た家族という別の自然を描いています。そのことで人間にたいする認識が広がり、深まっていくのだと思います。
つぎに宮沢賢治の『注文の多い料理店』という童話を見てみましょう。都会から猟に来た二人の若い紳士が、山のなかで一軒のレストランを見つけます。店の看板には「西洋料理店 山猫軒」と書いてある。入っていくと「鉄砲と弾をここに置いてください」とか、「帽子と外套と靴を脱いでください」とか、いろんな注文が出てきます。最後にクリームを塗れとか、塩をもみ込めとかあって、ようやく自分たちが食べられようとしていることに気づくという話ですね。
この作品で、賢治はカフカとは別の書き方をしています。話は山へ猟をしき来た都会の若者の視点ではじまりますが、読んでいるうちにいつのまにか若者を食べようとしている山猫の視点になっている。この視点の転換は見事だと思います。人間と動物、食べるものと食べられるもの、強者と弱者といった、ぼくたちが馴染んでいる自然、当たり前と思っている自然を、童話のスタイルで書かれた短い話のなかで逆転させてしまう力が、文学にはあるのですね。この作品を読み終えたとき、みなさんは不思議な胸のざわめきをおぼえるとともに、少しだけ新鮮な気分になっているはずです。(2017年10月1日 九州産業大学)