創作

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蒼い狼と薄紅色の鹿(30)

11  立秋を過ぎた八月の朝、父は亡くなった。昼前に遺体を自宅に連れて帰り、とりあえず父の弟妹と主だった仕事関係の人たちに連絡した。神奈川に住んでいる叔母は、次女か三女かが出産を控えていて参列できないということだった。自分の従妹にあたる女性...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(29)

高椋魁は革細工職人が財布か定期券入れの仕上げでもするような手つきでパンにバターを塗っている。塗り終わったパンの端を一口齧ると、それとなく藤井茜のほうを見た。彼女は蚕が桑の葉を齧るようにレタスを齧っている。「どこか遠いところへ行きたいな」ひと...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(28)

10  翌朝、六時ごろに携帯電話の着信音で起こされる。病院からだった。父の容体が悪いという。顔を洗い、手早く支度を整えた。入院しているリハビリテーション・センターの最上階が緩和ケア病棟になっている。そこでいま自分の父親が死につつある。看護師...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(27)

あのころ自分がどんなふうにして暮らしていたのか、まったくおぼえていない。きっと自己憐憫の靄のなかで、深い悲しみとともに生きていたのだろう。家のなかに閉じこもり、一日の大半は寝ていたのかもしれない。ろくに食べず、着替えもせずに、廃人に近い状態...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(26)

突然、何もかもが変わり、とんでもなくひどいものになってしまった。忘我にも似た幸福に包まれていた者たちが、ほんのひと月後には二度と会うことのできない、遠く隔てられた場所へ押し流されていた。最終的に彼女の死亡を確認したのは、震災の発生から何ヵ月...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(25)

ほんのひと月ほど前のことだ。このあたりに建っていたアパートの一室で、わたしたちは一つの布団に入っていた。まわりの世界は消え去ったように感じられた。時間からも切り離されたところにいた。騒々しい世界の外、過去も未来もない場所に二人きりでいた。 ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(24)

9  ある日、地下のはるか深いところで異変が起こる。物理的にはごく小さな出来事、断層がほんの一メートルか二メートルずれるといった程度のことだ。この微小な動きが北東と西南へ向かって連動し、筋状に街を破壊していった。百五十万の都市で約三十万人が...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(23)

二人はまるで事前にブリーフィングでもしてきたみたいに、ぴったり歩調を合わせてシメジとポルチーノのトマト・パスタを食べ終えた。いまは点心系の中華総菜を細々とつついている。ウーロン茶でも淹れてやるべきなのだろうか、あいにくそんな健全なものは置い...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(22)

レシピには弱火でじっくり三十分くらい炒めると書いてある。なんと、三分ではなくて三十分である! 誰がそんな悠長なことをやっていられるものか。残された人生の時間は限られている。開けたワインはすぐにグラスに注いで飲むべきである。だいたいオープナー...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(21)

マンションはオール電化になっている。原子力発電は実用化のめどが立たない粗悪な技術と考えているわたしとしては気に入らないところだが、建物全体の仕様がそうなっているのだからしょうがない。IHヒーターにコーヒー・ポットをかけたところで藤井茜がたず...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(20)

午後三時に香椎駅で二人をピックアップした。車でアイランドシティへ向かい、途中のフード・マーケットで酒と食材を買っていくことにした。ここは酒も食材もたいしたものは置いていないのに、なぜかチーズだけは充実している。わたしは日本酒にもワインにも合...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(19)

8  マンションは西戸崎にある。海の中道線というJRの終着駅から少し行ったところで、目の前は博多湾だ。三階の部屋から眼下に見える砂浜には、いつも大小の波が打ち寄せており、朝や夕暮れ時には犬を散歩させたりジョギングしたりする人たちの姿が見られ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(18)

最後に会ったのは十二月だった。クリスマスを過ぎて、大学は冬休みに入っていた。彼女のアパートは男子禁制で、六つある部屋には同じ女子大へ通う学生ばかりが住んでいた。わたしが訪れたときには彼女を含めて二、三人が残っているだけだったが、それでも用心...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(17)

7  1990年代には、まだ多くの人が頻繁に手紙を書いていた。スマートフォンはおろか携帯電話もわたしのまわりでは目にしなかった。インターネットもほとんど普及していなかった。新しいテクノロジーの到来には間に合わなかった。わたしたちは携帯電話も...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(16)

日がすっかり落ちてから、二人は高椋魁のアパートを出た。最寄りの駅から藤井茜はJRで家に帰る。途中で公園に立ち寄った。小さな池のまわりに桜が植えられ、数分もあれば一周できるほどの遊歩道が整備されている。池の向こうに茶碗を伏せたような築山が見え...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(15)

話は六年前、彼が十三歳のときにさかのぼる。本人の言によれば自殺未遂だが、トラックの運転手からの通報を受けて現場に駆け付けた救急隊員も、また現場検証をした警察官たちも、少年が自転車の操縦を誤ったことによる事故とみなした。とくに両親は「事故」に...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(14)

6  オート・ハープという楽器をご存知だろうか。ハープという名前がついているけれど形状は洗濯板に近い。長方形の木箱に弦が張ってある。弦の数は三十六から七というから、このあたりはハープに近いだろうか。二十一のコード・バーが付いていて、バーを押...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(13)

あれから四半世紀のときが流れた。そのころは二十五年後の自分など考えてみることもなかった。けれども歳月は流れ、わたしは律儀に歳をとった。一方の彼女は十九歳のまま、薄紅色の鹿のままで、ブラウスはいまも雨に濡れて透き通っている。この写真のなかで生...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(12)

プルーストの長大な小説では、冒頭の眠りをめぐる長い記述に多くの人がうんざりさせられる。なかでも「就寝の悲劇」と呼ばれる母親とのエピソードは、読むのにかなりの忍耐を要する。マルセルという名の幼い主人公は、母親が「おやすみのキス」のために二階の...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(11)

5  父の仕事は、いわゆる顧問弁護士というものだった。企業法務に精通した十人ほどの若手弁護士を率いて事務所を立ち上げ、どこか後ろ暗いところのある会社のための訴訟対応や紛争解決によって、けっこうな報酬を得ていたようだ。仕事一筋で、妻のことも家...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(10)

鳥取から中国山地を抜けて岡山まで出て新幹線で神戸に戻る、というのが彼女の予定している帰路だった。少しでも長く一緒にいたかったので、わたしも岡山まで同じルートで行くことにした。山間を走るローカル線に揺られているうちに天気が崩れ、日が沈むころに...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(9)

喫茶店で軽い昼食を済まし、コーヒーを飲みながら、わたしはほとんど無節操に自分のことを話しはじめていた。数日前に母親を亡くしたこと。長く患っていた病気のこと。ほんの一、二時間前に会ったばかりだというのに。彼女は告解を聞く司祭のように、見ず知ら...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(8)

大学二年生の秋に母が死んだ。入院先の病院から一時帰宅しているあいだの出来事だった。あまりに唐突だったので、何も感じなかった。感じることができなかった。ただ奇妙な既視感があった。予期せぬこととはいえ、その死は意外なものではなかった。  日ごろ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(7)

4  色の褪せかけたプリントに、十九歳の彼女が写っている。三月末、大学の春休みにはじめて神戸を訪れたときに撮ったものだ。父から借りたオリンパスの一眼レフだったと思う。いくらか露出が不足しているのは雨のせいだろう。とはいえ出来の悪い写真ではな...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(6)

藤井茜がハンバーガーを睨んでいるあいだに、高椋魁はスマートフォンを取り出して素早く操作した。「いまネットで調べてみたけど、この店のビーフパティにはちゃんとニュージーランド産とオーストラリア産の牛肉が使ってある。ちなみにポークはアメリカ産」 ...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(5)

3  研究室で小一時間ほど過ごしたあと、二人は部屋を出て二号館の通路をとぼとぼ歩き、エレベーターで六階から一階まで降りる。そこには乙女心をくすぐるこぎれいな庭園が広がっている。手入れの行き届いた芝生とつつじの植え込み、噴水のある池、誰かの無...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(4)

二人を部屋に招いたのはたんなる気まぐれで、彼らが手に余るような心の闇を抱えていると直感したわけではない。ふとした出来心というか、雨に濡れて泣いている子猫を家に連れて帰るようなものだ。ときどきこんな気まぐれを起こすことがある。どうも自分の意思...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(3)

こうして首尾よく国際文化学部日本文化学科のなかに、文芸創作と文芸研究という二つの怪しげなクラスが開設されることになった。  文芸研究のクラスでは、主に日本の近代文学について教えている。今週は東海散士の『佳人之奇偶』と三遊亭円朝の落語速記本を...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(2)

2  いまどきの大学で文芸創作などという講座を開設しているところは珍しいだろう。文科省の役人たちは高校や大学のカリキュラムから文学を抹殺しようと躍起になっている。愚かなことだ。連中には何もわかっていない。これからは文学の時代、物語の時代だと...
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蒼い狼と薄紅色の鹿(1)

1  十九世紀オーストリアの作家、アーダベルト・シュティフターの話をしている。学生たちには彼の代表作である『晩夏』の一部をコピーして配ってある。トーマス・マンが絶賛し、ニーチェが愛読していたという作品だ。三十人ほどいる学生のうち、話を聞いて...
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骨笛

少年は毎日、日が暮れると海辺に転がっている流木を集めて火を焚いた。荒波に洗われた木は、樹皮が削り取られて白い幹がむき出しになっていた。それは海に棲む巨大な生物の白骨を想わせた。漁船の燃料に使う油を、家の者に内緒で瓶に詰めて持ってきていた。細...