森崎茂さんが久しぶりにブログを更新された。2021年9月以来というから、約7ヵ月ぶりということになる。その間の火急についてはブログのなかでも少し触れられている。文章はかなり削られたそうだが、それでも原稿用紙で100枚近くあり、読みこなすのにしばらく時間がかかりそうだ。まずは一読した印象から述べてみたい。
いちばん感じたのは、言葉が非常に彫琢されていることだ。これまでの森崎さんの思想が結晶したような美しい文章に何度か出会う。
〈生の果てに死があるのではなく、存在の複相性の往還が内包という観念の母型に回帰するということ。わたしの言い方では、生の原像を還相の性として生きるとき、この観念は、知に対する非知ではなく、愚であること俗であること、卑小であること、無知それ自体となって、実詞化できないやわらかい生存の条理として、だれのどんな生のなかにもひっそりとあらわれる。〉
この文章の心地よさをどう表現すればいいのだろう。言葉によってふくらんでくるものがある。ぼくたちのなかに眠っている小さな種子の固い殻が破れて、ほのかに明るくあたたかいものが開いてくる。難しい理屈ではなく、夢やイメージのようなものが、それこそだれのどんな生のなかにもひっそりとあらわれる。
ぼくはネルヴァルの幾つかの詩を思い浮かべた。彼の幻想的な詩も、詩それ自体を味わうように書かれている。下手に解釈を加えると、詩の魅力とともに何か大切なものが失われてしまう。無理にロジックを追わなくてもいいのではないか。ここに書かれていることを、ぼくたちはまだ十全に言葉にすることはできない。それは外延という既存の言葉で、内包という未踏の世界に触れることの難しさでもある。だからとりあえず、この文章にあらわれた硬質な美を堪能できればいいのではないか。
一方で、森崎さんの20年ほど前の文章にこういうくだりがある。
〈この間、わたしは心善き人びとが語る口先の内面化された悪ではなく、どんなことでも人は為しうるという悪それ自体のむごさ、目を背けたくなる悪そのものの闇の深さと真向かってきた。〉
彼が「真向かってきた」ものの詳細は知らないし、こちらからたずねたこともない。しかし40年近くに及ぶ交流のなかで、ここに書かれていることが言葉どおりのものであるのを感得している。今回のブログで、あらためてこの文章に出会ったとき、ぼくは最近聞いた染め物の話を思い出した。反物を黒に染めるとき、下地を紅で染めることを紅下という。他に藍で下染めする方法もあり、これを藍下という。下地を紅で染めるか、藍で染めるかによって、光が当たったときの色合いなど、染め上がりに微妙な違いが出てくるという。
ぼくは森崎さんの文章に、いつも下地を感じてきた気がする。コミックやアニメ、ロックといったサブカルチャーを論じていても、文章には深みが感じられた。光の当たり具合によって、同じ文章の色合いが微妙に変わってくる。それが硬質な美しさと感じられるのかもしれない。
〈もしわたしがあなたであるならば、いなくなったわたしはあなたとともに未来へとつれていかれる。かつてわたしがわたしであった過去を追憶する未来としてあなたが生きていく。ひとりでいてもふたり、ふたりでいてもひとりだから。〉
ここに書かれていることを、人によっては夢や錯乱と読むかもしれない。そのことは書き手によって、あらかじめ繰り込まれている。あなた自身が夢になればいい。錯乱を生きてしまえばいい。外延的な思考からは錯乱と見える内包の夢は、万人によって生きられるものとしてある。
現在、誰もがコロナ・ファシズムに曝され、ウクライナの無法を目の当たりにしている。そのなかにあって、ニーチェの「超人」もフーコーの人間の終焉も牧歌的に感じられる。ぼくたちが直面している現実は、「波打ち際の砂の表情のように」といった情緒的なレトリックを許さないほど過酷である。森崎さんも書いているように、この世界に親鸞の非知や非僧非俗が生きられる余地はない。
先日、福井の永平寺を訪れた。案内していただいたのは、寺で高い地位にあたる僧侶の方である。マスク着用で曹洞禅についてお話をうかがい、坐禅の手ほどきを受けた。午後から3回目のワクチン接種に行くとおっしゃっていた。ひたすら坐れという道元の只管打坐のなかにも、人々を家畜化する医療ファシズムはやすやすと入り込んでくる。高野山も比叡山も科学テクノロジーによってマッチ棒のようになぎ倒されていく。
今回のブログにかぎらず、森崎さんの文章には一点の牧歌性も手ぬるさもない。それでいて「美しい」と感じさせるのは、彼の提示している言葉が、ぼくたちは家畜ではなく、一つの固有な生であることのメタファーとして、啓示として読めるからだろう。50年後、100年後の人間が読んでも、その色合いは少しも褪せていないと思う。(2022.4.19)
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