まぐまぐ日記・2012年……(13)

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3月26日(月)晴れ

 あいかわらず寒い。午前中、気功。小説に手を入れる。夕方、父を施設に送っていく。

 そのあと天神にて、福岡ウォーカー編集長、秋吉さんの送別会。彼の人柄を反映して、たくさんの人が集まり、別れを惜しみ、新しい門出を祝福した。いい集いだった。12時帰宅。

3月27日(火)晴れ

 小説、「永遠」の手直し。

 今朝の新聞によると、佐賀県は同県の原発にかんし専門の業者に委託して、Twitterなどの書き込みをチェックしているらしい。このセコさ! これからはTwitterへの書き込みにはかならず、「佐賀県」と「原発」という検索キーワードを入れることにしよう。

 新幹線はトラブルで止まる。飛行機はトラブルで落ちる。火力発電所はトラブルで止まる。原発はトラブルで爆発する。旅行は新幹線で、発電は火力で。

 電力会社の幹部たちが、政治家への献金によって原発を稼働させることができると考えているなら、国民をナメた話だし、現状認識としても間違っている。

 放射能汚染不安から中国やロシアの米を買い求めることは、消費者としてはきわめて真っ当なことだ。一つの原発事故は、普通の人々の真っ当な行為を通して、世界中の人々の食糧を奪っていく。そこがとても非人間的だ。

 以上、本日のTwitterへの書き込みから。

3月28日(水)

 午前中、九大病院の定期受診。血液検査の結果は、すべて問題なし。今日から家内が埼玉の姉のところへ出かけている。一週間はぼくと次男の二人だ。夕食の支度をして剣道へ。

 朝日新聞で姜尚中が吉本隆明について、「思想的な命脈は尽きていた」と書いていた。ぼくが読んだ範囲で、姜尚中の言説は「在日」ということを入れないと機能していない。そうしたあり方にたいして、吉本は「自立せよ」と言ったわけで、姜尚中にかんするかぎり、吉本の思想的な命脈は尽きていないと思う。

3月29日(木)晴れ

 まぐまぐのエッセー、「言葉を取り戻す」を書きはじめる。とっかかりがうまく書けず苦労する。午後は小説の手直しをつづける。

 午後、BSでタルコフスキーの『サクリファイス』をやっていた。この映画、劇場公開の直後に観て、あまりに感動したため、その足でレコード店へ寄り、バッハ『マタイ受難曲』のCDを買ったことを思い出す。映画のなかで同曲のアリアが印象的に使われている。たしか映画のプログラムで、ユリア・ハマリの独唱、ヘルムート・リリングの指揮によるものであることを知った。そのCDを買い求めたのだ。いまでも大切に持っている。ソニーから出ていた国内盤で3枚組、1万円だった。

 タルコフスキーの映画は『ローラーとバイオリン』から、遺作となった『サクリファイス』まですべて観ている。30年近く前のことである。ロッセリーニをはじめとして、イタリア・ネオ・リアリズムの主要な作品も劇場で観ている。当時は福岡でも、そんな上映会が企画されていたのだ。それにくらべると、現在はずっと映画環境が悪くなっている気がする。

 買い物をして夕食の支度。夜は次男とクリント・イーストウッド監督・主演の『ペイルライダー』を観る。これだけ臆面もなく、自分をかっこよく見せる演出に徹している点は、ある意味で立派だ。映画の出来もいい。とくにカメラが繊細で美しい。

 三人の死刑囚に刑が執行されたことが、今朝の新聞に出ていた。平和憲法を戴く国に死刑制度があるのは、どう考えてもおかしい。整合性を期す上でも、ただちに廃止すべきである。法務大臣は調子に乗って判を押すべきではない。国内で死刑制度を容認している日本が、いくら世界平和を訴えても説得力をもつはずがない。何を言っているかよりも誰が言っているかが問題だ、とニーチェも述べている。地上から戦争をなくそうと本気で考えているなら、まず国家による合法的な処刑制度を廃止しなければならない。

3月30日(金)

 まぐまぐのエッセー、のろのろと進める。

 いまはどの世論調査を見ても、原発はいらないという人が過半数を占めている。近い将来、日本の原発はなくなる。それはもう既定事実だ。問題は、チェルノブイリのあとも日本の原発は増えつづけたことで、同じ理屈で、フクシマのあとも中国やインドの原発は増えつづけるだろう。そこが考えどころだ。いまこそ世界的な視点で人間の未来を考える必要がある。

 放射能の影響は国境を越えて地球全体に及ぶのだから、原子力の研究・開発にかんしては、国際的な機関で管理していくしかない。つまり金融について先進国がやろうとしているようなことを、原子力にかんして、さらに強力に推し進めればいいわけだ。核や原子力を保有しない国々に呼びかけて、日本がリーダーシップをとるチャンスである。

 午後は生協で買い物。夕方より天神へ。鮨屋で会食。NHKの繁竹さんに、東大の川本教授を紹介してもらう。倫理学がご専門で、ジョン・ロールズなどの翻訳をされている。先生も吉本隆明の熱烈な読者であることが判明、話が大いに盛り上がる。ぼくの文章家としてのデビューは、吉本さんたちのやっていた同人誌『試行』であることを話すと、驚いておられた。1987年のこと。ジャック・デリダとモーリス・ブランショ、ハイデガーについて書いたものだ。調子に乗って久しぶりに痛飲。

3月31日(土)晴れ

 昨夜の酒が少し残っている。まぐまぐのエッセーを進める。午後、父を施設に迎えに行き、そのまま剣道へ。

 考えたり言ったりするだけでは、何も変わらないという人もいるが、そんなことはない。日本人の過半数が「嫌だ」と言えば、原発はなくなる。人類の過半数が同じ考えを共有すれば、世界は変わるにきまっている。いまはインターネットをはじめとするツールが発達しておかげで、ぼくたちはかなりのスピードで、一つの考えやアイデアや希望を共有できるようになっている。多くの人々に共有されたものは、かならず現実を動かす。考えつづけること、そして発信しつづけることが大切だ。

4月1日(日)晴れ

 今日から四月。最近はエイプリル・フールというのも流行らない。そんなことを考えていたら、バート・バカラックの「The April Fools」が聴きたくなった。曲ももちろんいいが、ハル・デイヴィッドの歌詞がまたいいのだ。まさに胸を締め付けられるってやつ。いろんな人が歌い、演奏しているが、やはりディオンヌ・ワーウィックのバージョンが美しい。

 まぐまぐのエッセーが進まないので、先ごろ亡くなった吉本隆明について書く。「自己表出」と「指示表出」という概念を中心に展開される彼の芸術言語論は、いまでもぼくたちに多くの示唆を与えつづけてくれている。そのことを中心に書いた。ブログにアップする。暖かい日がつづき、あっという間に桜が満開になった。午後、父を施設に送っていく。

 原発の再稼働に向けて実施されている「ストレステスト」って、いったいどんな意味があるのだろう。コンピュータによるシミュレーションで、いったい何を担保しようとしているのだろうか。そんなものが、ぼくたちの生理や直感に根差した、恐怖や不安や嫌悪に優先される理由があるのだろうか。責任者はきちんと説明しなければならない。