まぐまぐ日記・2012年……(12)

まぐまぐ日記
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3月19日(月)曇り

 今日は気功教室が休み。「永遠」を読み返して手を入れる。午後、父を施設へ送っていく。夜は剣道。

 朝日新聞の吉本隆明の追悼文を高橋源一郎が書いている。それはいいのだけれど、ぼくは高橋の出現も含めて、吉本さんが消費資本主義の文脈で評価したものって、本当によかったのだろうかという疑問をもっている。きちんと検証してみる必要があるだろう。

3月20日(火)曇り・晴れ

 今日から二泊三日の予定で旅行へ出発。中国自動車道を走って、新見インターから米子の皆生温泉へ。120キロ~130キロで飛ばしたため、ナビで8時間と出ていたところが、5時間くらいで着いた。途中、山間部には雪がたくさん残っていた。

 皆生温泉は大山を望む海辺の温泉。塩分を含んだ温泉で気持ちがいい。米子は蟹が名物だが、ぼくも家内もそれほど所望ではないので、普通の懐石をたのむ。一日車を運転して疲れた。

3月21日(水)晴れ

 朝から快晴。ホテルを出て松江市へ向かう。松江城を散策。小泉八雲の住居跡や資料館などを見学。極度の近視のため、八雲自身が特注した異様に背の高い机が印象的。机上に顔をくっつけるようにして読み書きしていたらしい。

 昼はパンとコーヒーを買って、宍道湖の湖畔で食べる。そのあと出雲まで走って、出雲大社に参拝。さらに日御碕へ。灯台に上り、海岸を歩く。天気に恵まれて気持ちいい。

 温泉津温泉の古い旅館に泊まる。やっぱり旅館の料理って量が多い。以後、旅行にはタッパーウェアを必携のこと。

3月22日(木)曇り

 旅館を出て、石見銀山。最初は予定していなかったが、旅館から20キロほどの距離なので、見過ごすのはもったいないと思い直した。わざわざ来ることもないだろうから。

 駐車場に車を停めて、龍源寺間歩まで歩く。「間歩」とは鉱石を採掘するための坑道である。メインルートは歩いて通り抜けできるが、そこから四方八方に細い坑道が延びている。どれも人一人がようやく入れるくらいで、ろくな照明も換気装置もない時代、銀鉱を求めて掘り進む人々の苦労と執念がしのばれる。

 浜田自動車道路から中国自動車道へ出て、夕方6時に帰宅。夜はDVDで『霧の波止場』を観る。マルセル・カルネ監督。主演はジャン・ギャバン。脱走兵と港の女のメロドラマ。ハードボイルドなタッチにしびれる。1938年の作品。

 それにしても19世紀の末に発明された映画が、30年代にすでにピークを迎えていたという事実には驚くばかりだ。映画という表現様式が、いかに急速に成熟へ向かったか。ジャズやロックにも同じことが言える。人間のやることは、どんどん性急になっていくようだ。

3月23日(金)雨

 現在進行中の小説、これまでに書いたところを「戦場」から読み返す。思ったよりも時間がかかる。

 糸井重里事務所が出している『吉本隆明が語る親鸞』。付録のDVD-ROMには、吉本さんが親鸞について語った五つの講演の音声データがおさめられている。全部聴くと七時間くらいかかる。それにしても吉本さんの口下手というか、語りの不器用さは異様だ。これは彼の思想について考える上で、わりと重要な点かもしれない。夜は剣道。

3月24日(土)曇り・晴れ

 風強く寒い。小説の手直し、「木霊」から再開。午後は父を施設に迎えに行く。そのまま剣道へ。

 朝日新聞のインタビューで、緒方貞子が「日本でうまくいっていない原発で海外へ輸出するのはおかしい」と言っている。誰が考えてもそうなる。こんな当たり前のことが通用しない人たちって、いったいどういう人種なのだろう。どのツラ下げて営業しているのだろうと思う。人間としてのプライドはないのだろうか。

 夜はDVDでドラえもん『のび太の恐竜』を観る。子どもたちが小さかったころに観て以来、二十年ぶりくらいだ。日ごろは、やれ溝口だ、ゴダールだ、ブニュエルだ、アンゲロプロスだと言いたがるぼくだけど、素直に感動した。恐竜、タイムマシン、エロチシズム(しずかちゃんの入浴シーン)と、映画の古典的要素が三つも取り入れられている。脱帽。

3月25日(日)晴れ・曇り

 今日も風強し。小説のつづき。「劫火」まで進む。午後は両親のマンションへ出かけ、相撲を見ながら父にマッサージ。結局、賜杯を手にしたのは白鵬。千秋楽で鶴竜に追いつき、決定戦の末の優勝だった。

 夜はETV特集の『吉本隆明は語る』を観る。糸井重里がプロデュースした昭和女子大での講演。一時間半の予定が、三時間を超えても喋りつづける吉本さんがおかしかった。

 彼が生涯を通して言いつづけたことは、「人間とは無価値の価値である」ということではないかと思う。たとえばドストエフスキーの小説のなかでは、登場人物たちの抱える苦悩の大きさだけが、ほとんど唯一の「価値」とみなされている。人間の本質は有用性でも機能性でもない。人間性のなかにひそむ「無価値の価値」を見出していくことが、文学の最大の徳であると思う。