まぐまぐ日記・2011年……(3)

まぐまぐ日記
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9月7日(水)晴れ

 9月に入って一週間。夏休み気分を脱するべく、少しずつ小説を再開している。いま書いているのは、この「まぐまぐ」に連載中の『愛についてなお語るべきこと』だ。全12章で一年間の連載予定である。じつは、半分くらいはすでに出来上がって。でも、ここに来て、ちょっと話が停滞している。後半をどんなふうに書き進めるか。思案のしどころだ。

 午後は14日からはじまる大学での授業に備えて、漱石についてノートをとる。今年の4月から週に一度、水曜日の午後に、近くの九州産業大学で非常勤講師をしている。何を喋ってもいいということなので、前期はバルガス=リョサの『若い小説家に宛てた手紙』をテキストに、世界文学について話した。後期は日本の近代文学について話そうと思っている。開国、近代化にあたって、明治の文学者たちがどんなことを考えたか。それは震災と原発事故を契機に、大きな転換期にある現代のわれわれにも、多くの示唆を与えてくれるのではないか。そんな目論見もある。1回目と2回目は、漱石を取り上げる予定だ。そのための講義ノートを作っている。

 夜は剣道。週に三回(月、水、金)は小学校の体育館で子どもたちと汗を流す。土曜日の午後は、大人だけの稽古会で、高段者の先生方に相手をしてもらう。夏場は、一回の稽古で体重が2キロ近く減る。ぼくは身長が173センチで体重は57キロくらい。せめて60キロはほしいのだが、太りきらないのだ。人からは「スリムでいいですね」と言われるが、いいのか悪いのかわからない。稽古から帰って体重計に乗ると、55・5キロしかなかった。燃費の悪い体質であることは間違いない。

9月14日(水)晴れ

 午後から九州産業大学にて講義。「現代日本の開化」と「私の個人主義」という二つの講演をテキストにして、小説家としての漱石が抱えていたテーマについて話をする。

 明治以降、日本に強いられた「近代化」や「個人主義」が個人の内面にもたらす孤立感や不安感といった問題、おそらく複雑な出自に起源をもつと思われる漱石自身の苦悩や寄る辺なさ、これらが表裏一体となって彼の文学の大きなテーマを形づくっている。漱石が見据えていた問題は、ぼくたちが生きている現代を予兆すると言っていいくらい本質的で、射程の長いものであり、彼自身はこうしたテーマを本格的に、また高次元で扱おうとした。それはときとして作品を破綻しかねないほどだった。

 たとえば『門』の主人公・宗助の参禅は、小説の筋立てとしてはいささか唐突であり、読者に整合性を欠いた印象を与えかねない。また『こころ』の先生の自殺も、友人を裏切った罪の意識と結びつけるのには無理がある。こんなふうに漱石の小説では、しばしば作品を置いて主題だけが走ってしまう。

 当時の主流であった自然主義の作家たちの目に、漱石の小説の多くは主題が強過ぎて、観念性の濃いものに映ったことだろう。加えて、フロベールなどフランスの近代文学に範を求めようとしていた者たちからすると、『こころ』のように手紙形式をとった作品などは、近代文学以前の古めかしいものに見えたはずだ。現に、自然主義の作家たちが評価したのは『道草』のような、いわゆる「小説らしい小説」であった。同様に、漱石の作品のなかで近代小説と言えるのは、未完に終わった『明暗』くらいかもしれない。

 『虞美人草』について、正宗白鳥は「馬琴のようだ」と評している。小説全体が勧善懲悪のトーンで貫かれ、人物が概念的だということだろう。『坊っちゃん』にもそういうところがある。また『それから』の代助をはじめとする作中人物たちが、ストーリーを逸脱して時事問題や哲学的なことを滔々と語るのも、同業者たちには評判が良くなかったようだ。「高踏派」や「余裕派」という呼び方には、やや侮蔑的な響きがある。多分に青臭い、また素人っぽい作家とみなされていたのだろう。

 漱石が「余裕派」と呼ばれていたことには、ある種のアイロニーをおぼえざるをえない。なぜなら近代文学の作家たちのなかで、いちばん「余裕がなかった」のは、間違いなく漱石だからである。その余裕のなさが、最晩年に至るまで、彼に「小説らしい小説」を書かせなかったとも言える。

 さて、ここからは話が手前味噌になるが、ぼくも自分では、余裕がない物書きだと思っている。書こうと思っているテーマが、あまりにも巨大で手に余るのだ。だから「小説らしい小説」を書く余裕がない。あえて挑発的な言い方をさせてもらえば、「珠玉の短編」をものすのは簡単である。テーマを限定し、小説という器を小さく、小さく見積もっていけばいい。その代償として、多くのものを諦めることになる。

 ぼくは諦めたくないし、書くべきものは、すべて書き尽くしたい。だからぼくの書く小説は、ますます小説らしくなくなっていくだろう。この先、三年くらいかけて書こうと思っている小説は、マルクスと、アンリ・ファーブルと、荘子を主人公としたものだ。タイトルは『誰でもないもの』と決めている。「それってどんな小説?」と思うでしょう。三年後をお楽しみに。

(追記。あれ? こんなことを考えていたんだ。マルクスと、アンリ・ファーブルと、荘子を主人公としたものだって? 『誰でもないもの』というタイトルまで決めている。そういえば『誰でもないもの』という小説は、たしかに書いている。でもさすがに手に余ったのか、こぢんまりしたものになっている。マルクスとファーブルは出てくるが、荘子は登場しない。)

9月18日(日)曇り

 講談社文庫の奥村実穂さんより、12月に文庫として出る白石一文さんの『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』の解説を依頼される。白石さん本人がぼくを指名してくれたとのこと。光栄である。ありがたくお引き受けする。張り切って書くぞ!

 白石さんとは、文藝春秋の編集者時代にお世話になってからのお付き合いである。じつは、彼の福岡の実家とぼくの住んでいるところは、車で五分くらいしか離れていない。また白石さんは、ぼくの学生時代の友人と、中学のときの同級生であったりもする。そんなわけで、前々から気にかけていてくれたらしい。『文学界』の編集部に移ってすぐに、小説原稿を依頼してくれた。そのころぼくは、二冊出した単行本がいずれも売れず、このまま消えていくかかもしれないという微妙な時期だった。だから白石さんから依頼はとてもありがたかった。

 結局、『文学界』では二つの中編を担当してもらった。きわめて優秀な編集者、というのが一緒に仕事をしての印象である。とにかく原稿の読みが、的確で鋭い。改稿のアイデアを、その場で二つも三つも出してくる。いや~、できる人っているもんだなあ、としみじみ感心したものだ。

 やがて白石さんは『一瞬の光』でデビュー、自らも小説家の道を歩みはじめる。ほどなく出版社を辞め、筆一本でやっていくことを決意。それからの活躍ぶりは周知のとおりである。

 ちなみに白石さんに担当してもらった作品は、「九月の海で泳ぐには」と「鳥は死を名づけない」の二編で、いずれも『もしもわたしが、そこにいるならば』(小学館文庫)に収録されている。

9月21日(水)晴れ

 午後から九州産業大学にて講義。夏目漱石の二回目。今回は『それから』と『門』と『こころ』について話す。関連性の強い作品なので、一回の講義で喋りたかったが、90分ではちょっと無理があったみたい。

 三つの作品、いずれも男女の三角関係を扱っている。親友同士の男たちが一人の女を奪い合う、という点も共通している。しかも年代的に『門』は『それから』の「それから」として読めるし、『こころ』の先生は『それから』の代助の老年としても読める。これらの作品における、漱石の倫理性の追求の仕方は徹底的である。とくに『こころ』の場合はすさまじいものがあり、ここまで倫理性を突き詰めると、人間は壊れてしまうのではないかと思える。現に先生は、最後には自殺してしまう。何が漱石をここまで執着させたのかは謎である。そこが漱石の面白さでもある。

 ぼくは若いころは『それから』と『こころ』に惹かれた。とくに『それから』の代助に共感して読んだものだった。いつのころからか、『門』がいちばん好きな作品になった。あと『坊っちゃん』は、やっぱりいい作品だなと思う。

9月23日(金)晴れ

 地元の剣道大会があり、ぼくも審判として朝から夕方まで、小学生から大学生までの試合を見せてもらう。剣道では自分自身の稽古とともに、指導法と審判法が重要なものとして位置づけられている。ぼくも審判を仰せつかったときは、自らの修行と思って出かけていく。その際に心がけていることは、「毅然とした態度」ということだ。未熟な者が審判をやっているのだから、見落としやミスジャッジはある。それは修行の身だから仕方ない、と割り切っている。とにかく「一本」と思ったら、躊躇わずに旗を挙げる。挙げたあとで「しまった」と思っても、知らん顔をしておく。三審制だから、ぼく一人が間違っても、他の二人の審判が正しければいいのである。そんなわけで今日も一日、冷や汗をかきながら勉強をさせてもらった。

9月24日(土)晴れ

 夕方、メディア・ナレッジの田代真人さんとお会いする。田代さんは実家が小倉で、今回は同窓会への出席を兼ねておいでになったとのこと。オフィシャルサイト「片山恭一書店」の開店祝いでもある。馴染みの割烹で、仕事の打ち合わせをちょっとだけして、主にお酒を飲む。

 田代さんの高校生の娘さんは、ただいまシドニーへ留学中。オーストラリアが気に入ったので、正式に就学ビザをとって、向こうの高校を卒業したいと言っているらしい。一家をあげての移住も考えている、とおっしゃる田代さんの顔は、まんざら冗談でもなさそうだ。自然は豊かだし、ゆったりとした時間のなかで生活ができる。原発もない。ただし永住権を取得するには、7000万円くらい向こうの銀行に預けなくてはならないらしい。なかなか敷居が高いのである。

 それにしても「パパ、ここでは人間らしい暮らしができるのよ」と高校生の娘に言わせる日本って、なんなんだろう? それほど現代の日本人の生活は、「人間らしくない」のだろうか……たぶん、そうなのだろう。それは福島の原発事故のあと、国民の被曝を放置して「直ちに健康に影響はありません」と繰り返していた、政府の非人道ぶりを見ても明らかだ。ぼくのまわりにも、オーストラリアをはじめとして、海外移住を考えていたり、実際に移住してしまったりした人が何人かいる。いろいろ事情はあるのだろうけれど、「人間らしい暮らしを求めて」という点では共通している。日本人に愛想を尽かされる、日本という国は悲しい。

 漱石が百年前に危惧したように、外発的な開化と近代化を強いられ、無理に無理を重ねて、外面だけ先進国の仲間入りを果たしたことのツケを支払わされている、ということなのだろう。後進国は百年経っても後進国の宿命から抜け出せない。その点はタイも、韓国や中国も同じだと思う。日本だけでなく、アジアは悲しい。アフリカも南アメリカも、後進国はみんな悲しい。だからぼくたちは脱資本主義という、非西欧的なオプションを作り出さなければならないのだ。

 ぼくだって、こんな国は見捨てて移住しようかな、と思うことはある。でも、「ここ」でなければ書けない小説もある。そもそも文学とは、「ここ」を変えていくもの、「ここ」をどこかにしていくものではないだろうか。だからもう少し、日本でがんばってみるつもりだ。