まぐまぐ日記・2011年……(1)

まぐまぐ日記
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8月25日(木)曇り・晴れ

 講演原稿「『出発』としての死」に手を入れる。これは十一月に、九州大学付属病院の癌患者さんたちの前でお話する予定のもの。へヴィだ~。なんとなく引き受けてしまったけれど、何を話せばいいだろう。とりあえず日本人の死生観にからめて、ぼくたちが抱えている問題について話してみることにする。それは日本の社会が、死の場所を失っているということだ。死をどこに位置づければいいかわからなくなっている。死を確定できなくなっている。死はもはや、ぼくたち一人一人が生涯を通して定義するべきものになっている……というような内容です。こんな面倒くさい話、現役の癌患者さんたちは興味をもって聴いてくれるかな。

 この夏は小説の執筆を休んで、幾つか溜まっている講演原稿に手を入れた。一つは「小説とはどういうものか」というタイトルで、何年か前に九州大学の学生さんたちの前でお話したもの。もう一つは「恋愛詩の起源」というタイトルで、去年、国際交流基金による派遣で韓国・中国をまわったときに、『万葉集』についてお話したもの。『万葉集』のことなんて、全然知らないのに、外国人が相手ということもあって、かなりいい加減なことを喋ってしまった。その反省から、少し勉強し直して手を入れた。

 小説ばかり書いているとバカになる、というのが体験的な持論である。アウトプットばかりでインプットが手薄になるということのほかに、小説というものが、いくら知的なことを考えているようでも、かなり偏った思考形式である、というのが大きな原因であるように思う。小説のなかで考えることは、あくまで登場人物に仮託して「語り手」が考えることであり、自分というリアルな主体が考えることとは、やはりちょっと違う。たとえば小説のなかでは、かなり極端なことでも「とりあえず言ってみる」ことができる。言葉にたいする責任感が、きわめて稀薄なのである。それが小説の「自由」を保障することにもなるのだが、一方で、小説家のバカ化を進行させることにもなる。だから小説家は、努めて小説以外のことをしなければならない。意識的に勉強しなければならない、と思っている。

8月26日(金)曇り

 夕方、音楽プロデューサーの藤井丈司さんとSkypeで、いまぼくが作っている歌詞についての打ち合わせ。少し説明させてもらおう。大石昌良さんというシンガー・ソングライターがいる。彼はぼくと同郷で、しかも高校の後輩でもあるらしい。そんなご縁から、ぼくのところへ作詞の依頼があったのだ。光栄なことだけれど、詩なんて作ったことのないぼくに、ポピュラーソングの歌詞が作れるだろうか。自分で言うのもなんだが、ぼくの頭は生まれつき散文的にできている。お引き受けはしたものの、予想通り、苦難の日々がはじまった。

 藤井丈司という名前は、サザン・オールスターズやYMOのプロデューサーとして存じ上げていた。ぼくにとってはあこがれの人である。その人が、はるばる東京から福岡まで、ワインをおみやげに挨拶に見えたのである。いや~、恐縮しちゃいましたね。さっそく『KAMAKURA』と『浮気なぼくら』にサインをしてもらう。宝物である。ぼくの家で三時間、ほとんど音楽の話ばかりしていた。ドナルド・フェイゲンの曲にあわせて、ぼくのギターをちょこちょこっと弾く藤井さん。かっこよかったな~。あっという間に時間は経って、そろそろ飛行場へ向かう刻限に。最後に五分ほど仕事の話をした。それでいいのだ、とバカボンのパパ風に呟くぼくだった。

 藤井さんとぼくはほとんど同世代で、高校や大学のころに聴いていた音楽の趣味もぴったり一致している。そんなこともあって、はじめての挑戦ながら、楽しくお仕事をさせてもらっている。いまはインターネットがあるから仕事も早い。最初にいただいたのは、大石さんが「ラララ~」とうたっている歌詞のないトラック。これに詞をつけてメールで送ると、翌々日くらいに、大石さんのいれた仮歌の音声データが送られてくる。それを聴いてSkypeで藤井さんと打ち合わせ。改稿した詞で、再び仮歌をうたってもらう……という作業を、もう三回くらい繰り返している。かなり完成に近づいてきた感じだ。歌詞はともかく、もとのメロディがすごくいい。その上、大石さんはめちゃくちゃ歌が巧いのだ。少し塩味の効いた伸びのある声は、きっと多くの人の心をとらえると思う。十一月リリースの予定だそうなので、そのときはまた、この日記でご紹介したい。

8月27日(土)晴れ

 東京より、小学館の石川和男さん見える。石川さんとは、『世界の中心で、愛をさけぶ』以来、もう十年のお付き合いになる。

 『世界の中心で、愛をさけぶ』は、ぼくにとっては三冊目の単行本。一冊目が『きみの知らないところで世界は動く』(新潮社)、二冊目が『ジョン・レノンを信じるな』(角川書店)である。この二冊がまったく売れなかったことから、三冊目の刊行がとても難しくなった。通常、出版社は増刷がかかって、はじめて「では、つぎの本のお話を」ということになる。増刷がかからなければ、「つぎ」はない。本を出すためには、また別の出版社を見つけなければならない。これはなかなか大変なことである。

 本は売れなかったけれど、ちゃんと読んでくれている人はいた。その一人が、小学館の菅原朝也さんだった。当時、小学館では文芸というジャンルはほとんど認知されていなかったらしい。菅原さんも写真集など、社内で認知されている他の書籍を手がけながら、飯嶋和一さんの小説などを、どさくさにまぎれて出していたのである。その菅原さんが、つぎはぼくの小説をどさくさにまぎれて出してくれるという。ありがたい! 喜び勇んで、新しい作品にとりかかった。1998年春のことである。それから三ヵ月ほどで、『世界の中心で、愛をさけぶ』の第一稿を一気呵成に書き上げた。さっそく菅原さんに送り、いくつかアドバイスを受けて、秋ごろには、いつでも本にできる状態になっていた。

 しかしながら、みなさん。あの小説は2001年の春まで、出版することができなかったのです。理由ですか? 売れない。売れるわけがない。無名の新人の恋愛小説だって? なんでいまさら、そんなもの出さなきゃならないの……といった雰囲気だったらしい。辛かったなあ。ぼくも辛かったけれど、菅原さんだって辛かったはずだ。でも、彼は粘り強くがんばって、社内的に認知される仕事をこなしながら、雌伏しつつ雄飛のときを待ちつづけていたのである。それなのにぼくは、「バカたれショーガクカン、所詮は学年誌と週刊ポストの会社だよな、ケッ」などと毒づいていたのである。いちばんのバカたれは、ぼくでした!

 2001年の1月、ついに出版のゴーサインが出る。地道な努力をつづけて、ようやくそこまでこぎつけた菅原さんなのに、「新人が入って来たから、あとは彼に任せます」と言って、作品をあっさり後輩に託してしまったのである。こうして、ぼくと石川さんのコンビは誕生した。さしずめビートルズとジョージ・マーティンといったところか。『世界の中心で、愛をさけぶ』という、そのときはとってもはずかしかったタイトルも、あの印象的なカバーの写真も、みんな石川さんのアイデアだ。ただ、ヒットはあれ一作きりだけどね。そこがまあ、ぼくと石川さんです。

 以来、彼はぼくをずっとプロデュースしつづけてくれている。彼の特徴は、(少なくともぼくにかんしては)オーバー・プロデュースということだ。つまりなんと言うか、作品の根幹にまで口をはさんでくる。放っておくと、作品を破綻させてしまいかねない(と思えることもある)。いつもハラハラ、どきどきの石川さんである。そこがぼくには合っている。だから十年間も、相思相愛の関係がつづいているわけだ。フェリーニとジュリエッタ・マシーナのように、ゴダールとアンヌ=マリ・ミエヴィルのように……ちょっと違う気もするけど、まあいいか。

 とにかく石川さんの出してくるアイデアは、当たりもすごいけど、外れもかなりすごい。だから気を抜けない。常に正気を失わないようにしなくてはならない。彼はいつもぼくを刺激してくれる。「えっ! そ、それはいくらなんでも……」というアイデアをがんがんぶつけてくる。とてもありがたい(のか?)。

 小説を書くということは、オタクになることであり、独裁者になることであり、裸の王様になることである。自分が書いている作品のなかでは、自分以外のものに出会わない。自分の意に沿わないもの、自分が思いつかないものには出会わない。小説を書くのは苦しいことでもあるから、楽な方へ、書きやすい方へと行きたがる。そして破綻なく、きれいに着地させようとする。

 それではダメなのだ! 少なくとも、石川和男はそう考えているらしい。今回も東京から乗り込んで来て、ぼくの家で四時間、前もって考えてきたとは思えないようなアイデアを喋っていった。とても並みの人間には思いつけないストーリー。常軌を逸した展開。異常な結末……それがいいのか悪いのかはわからない。いや、たぶん、そのまま採用すれば悪い結果をもたらすはずだ。だから良識ある判断が必要になってくる。石川さんの狂気と、ぼくの知性がほどよくブレンドされて、また一つ傑作が生まれるというわけだ。

 8月最後の土曜日、イナゴの襲来のようにやって来て、無茶なアイデアを投げつけるだけ投げつけて帰っていった石川和男。書き散らかしたメモ用紙を呆然と見つめる……どうしろと言うんだ。小説を書くのは、このぼくなのに。二人のバトルは、まだまだつづく。(この日記のことは、石川さんには内緒にしておこう。)