歳をとらなければわからないことがあるし、肉体が衰えることで生まれる感情や感慨もある。人が生きることのなかに、およそ無意味なものなどあろうはずがない。その肝心なことが、忘れられている。ことに科学的思考や合理的思考といわれるものには年齢がないのだから、到底、老いの意味も、肉体の衰えに含意される豊かなものも、わかるはずがない。老いと死に答えを出すのは文学である。ぼくはそう考えている。
人間は物質でもなければ人体でもない。もちろん人体という物質を具えた生きものではある。しかし一方で、人が生きることは、常に易々と人体をはみ出し、人体とともにある自己を超越する。そうでなければ人が生きることにはならない。ぼくたちは誰でも「つながっている」とか「見守られている」といった感覚をもっている。これが人間にとっての「自然」なのである。人が生きることの自然は、自己の人体をはみ出して、自己の人体を超えて生きることである。医学のなかで人は生きていない。医学は人間の死体しか見ていない。
ミッチ・アルボムという人が書いた、『モリー先生との火曜日』(別宮貞徳訳・NHK出版)という本がある。ALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵され、余命いくばくもない大学時代の恩師を訪ねた著者にたいして、モリー先生は最後の授業をはじめる。
「年をとれば、それだけ学ぶことも多い。ずっと二十二歳のままなら、いつまでも二十二のときと同じように無知だってことになる。老化はただの衰弱じゃない。成長なんだ。やがて死ぬのはただのマイナスとは片づけられない。やがて死ぬことを理解するのは、そしてそれによってよりよい人生を生きるのは、プラスでもあるわけだ」
(いつまでも若いままでいたいとか、若いころに戻りたいとか言うのは)「人生に満足していないんだよ。満たされていない。人生の意義を見いだしていない。だってね、人生に意義を認めていたら、逆もどりしたいとは思わないだろう。先へ進みたいと思う。もっと見たい、もっとやりたいと思う」
「老人が若者をうらやまないなんて、そんなことはあり得ないよ。ただ問題は、ありのままの自分を受け入れ、それを大いに楽しむことだ。(中略)私にも三十代という自分の時代がかつてあった。今は七十八歳が私の時代さ。自分の今の人生のよいところ、ほんとうのところ、美しいところを見つけなければならない。(中略)年齢は勝ち負けじゃないんだ」
「私自身の中にすべての年齢がまじり合っているんだよ。(中略)私は今のこと年までのどんな年齢でもある」
人生90年とか100年とか言われているのに、テレビや新聞で喧伝されているのは、アンチエイジングとか健康法とか医療保険とか何歳からでも入れるがん保険とか、そういうことばかりだ。こうした軽薄で浅薄なメッセージが、いかに若い人たちを蝕んでいるか。平和な国で暮らす少女に、「生きていても死んでも、どっちでもいいの」といじけた言葉を吐かせている要因の一つは、覇気のない後ろ向きの老人たちである。
66歳のぼくも、すでに老人の入口だ。モリー先生のようにはいかないが、老いにも死にも意味があり、充実した生を生ききるために、なくてはならない大切なものだということを、しっかり伝えていきたいと思う。(2025.2.9)
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